本書は、大阪経済法科大学アジア太平洋研究センターが、二〇〇五年一二月三日から四日にかけて開催した「第二次世界大戦終結六〇周年記念シンポジウム」の記録である。このシンポジウムは、第二次世界大戦について終結後六〇年経過したところで振り返るものだが、同じ年に欧米でも開催された諸会議とは一味もふた味も違う未来志向の会議であったことをはじめに特記したい。
まず、二一世紀の世界秩序へ向けて、アジア太平洋の和解と共存について現代史の文脈のなかで議論したところに、本シンポジウムの大きな特徴があった。第二に、第二次世界大戦関係の他の諸会議と違って、本シンポジウムがいまだに和解と共存への困難な模索が続いている東アジアで開かれたところに、もうひとつの特色があった。第三に、第二次大戦についてこれまで論じられてきた現代史の文脈が、米ソ冷戦という二極世界であったのに対して、本シンポジウムは、米国の単独覇権下でグローバル化が進んでいるという新しい歴史の段階で開催された。
本書の読者には、この三つの角度から第二次世界大戦に光をあて、その経験をもとにして、今日の世界、とくに東アジアが直面している緒問題について、メディアが流している極めて短期的な視点を改めて、もっと長期的な見通しをもって、今日の諸問題の理解に役立たせてくださることを期待したい。六〇年前に終結した第二次世界大戦の過去を振り返ることで、グローバル世界のなかの東アジアの将来像を見晴るかす手がかりとしていただければ幸いである。
まず、第一セッションで取り上げられた「戦争責任と過去の克服」という問題は、小泉首相の靖国神社参拝問題や歴史教科書問題が、日本国内でも、日韓・日中間でもくすぶり続けている今日、見過ごしにできない第二次世界大戦にさかのぼる難問である。本書では、この問題を、戦争責任について厳しく自らを問い詰めた西欧、過去の克服をその統合の大黒柱にした西欧との経験の比較という形で考えることで、ともすれば歴史観の対立のなかで水掛け論に終わらせがちな日本の思想状況のなかに、第二次大戦時代のユダヤ民族のホロコーストを中心とした戦争責任問題を克服しつつあるヨーロッパの経験をもとにした発想の転換のきっかけが得られることを期待したい。
次に、第二セッションで論じられた国際協調主義と単独主義の問題は、「反テロ」戦争下もっとも重要な問題であるけれども、同時に第二次世界大戦以来の六〇年間の積み上げを無視しては語れない問題でもある。今日の米国単独覇権の複雑な性格を正しく把握するためには、やはり、第二次大戦に勝利した連合国がその後で築いた米ソ両ブロック間の冷戦、そして冷戦を生きぬくために敗戦国である日本が選択した日米同盟の性格を正しく認識する必要がある。第二セッションはとくに東アジア共同体と日米同盟の間に横たわる障害を理解するために、この問題に光をあてるような報告と討論を試みたセッションであった。
第三に、われわれは、グローバル化時代をあたかもまったく新しい政治・経済・軍事状況のもとにある、これまでの常識ではとらえられない時代であるかのように考えるきらいがある。たしかに、国際政治における米国の単独覇権、WTOなどを通じてグローバル経済を支配するネオリベラル・グローバル経済、「反テロ」戦争においてテロと「ならず者」国家を全世界的に囲い込む軍事と警察のグローバル・ネットワーク化は、一九九〇年代までとは違った世界を作り出しているように見える。しかし、米国の覇権を支える同国内における多国間協調主義と単独行動主義の緊張関係は、やはり第二次世界大戦とその後の歴史抜きには理解できない。また、日米関係と日中関係との織り成す微妙なかかわりあいは、第二次世界大戦以来の日米中三国間の関係を無視しては理解できない。さらに、今日、アジアでも、ラテン・アメリカでも、さらにアフリカでも現れている貧困や南北問題に取り組んでいる南の諸国のイニシアティヴは、植民地主義とポスト植民地主義への視覚を欠いてはわからない。植民地解放につながった第二次世界大戦に対する理解は、とくにこの大戦に対するインドの経験をもとにしてはじめて可能になる。
本書の読者は、六〇年たった時点で、あらためて第二次世界大戦の経験をふりかえりつつ、本シンポジウムの報告と討論を参考にして、今後の世界を見晴るかす手がかりにしていただけることを期待したい。
武者小路公秀
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