光の政治哲学 スフラワルディーとモダン

鈴木規夫

哲学が政治にかかわる「あかるさ」、政治が哲学にかかわる「くらさ」のなかで「光」の哲学の一環として「想像的なもの」の存在論を展開したスフラワルディーの思想を、その政治的死との連関において政治哲学として読む。(2008.5)

定価 (本体5,200円+税)

ISBN978-4-87791-183-6 C3031

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著者紹介

鈴木規夫 SUZUKI Norio

1957 (昭和32) 年、横浜市生まれ。上智大学、中央大学大学院を経て成蹊大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学。1993年成蹊大学博士 (政治学)。シリア共和国国立アレッポ大学アラブ伝統科学歴史研究所客員研究員 (1989–92年)、日本学術振興会特別研究員PD (1991–93年)、長野県短期大学専任講師、助教授 (1994–1998年)、ロンドン大学バークベック・コレッジ政治社会学部客員研究員 (1998年) 等を経て、愛知大学国際コミュニケーション学部助教授 (1998–2002 年)、同教授 (2002–)、エクサンプロバンス政治学院宗教研究所客員教授・研究員、地中海研究センター客員研究員 (2005–2006年)、現在、愛知大学国際コミュニケーション学部・大学院国際コミュニケーション研究科教授。

著書に、『日本人にとってイスラームとは何か』ちくま新書1998年、共著書に、千葉眞編『平和運動と平和主義の現在』 (風行社2008年) 滝田賢治編『グローバリゼーションと東アジア』中央大学出版会2005年、岡本三夫他編『グローバル時代の平和学 第一巻』法律文化社2004年、公共哲学ネットワーク編『地球的平和の公共哲学――「反テロ」世界戦争に抗して――』 (公共哲学叢書3) 東京大学出版会2003年、他。論文に、「イスラーム現象――現代世界不可避の思想課題――」『現代思想』vol.34–6. 2006年5月、「鏡としてのマイノリティー――フランス2005年秋の場合――」『現代思想』臨時増刊号「総特集 フランス暴動 階級社会の行方」vol.34-3. 2006年2月、「日本伊斯蘭研究的回顧与反思」北京大学国際関係学院『国際政治研究』第4期2004年、「現代イスラームにおける内戦」日本政治学会編『2000年度 年報政治学 内戦をめぐる政治学的考察』岩波書店、2001年1月、「宗教的ナショナリズム論」『平和研究』Vol. 20 (1996年6月)、「表象されるムスリム社会」『思想』) No. 863 (1996年5月)、「世界性の〈東洋的還元と日本化〉の位相――南原繁『国家と宗教』を読む」『現代思想』Vol.23, No.10 (1995年10月)、他。

まえがき

プロローグ

人間本来の可能性のまったき限界において、己を知り、〈光〉の世界と存在の階層とを知るとき、〈回帰〉とすべての事物が相似たものであることとを知るとき、〈光の司令官〉の愛は、誘われるかのように、〈光〉の世界へ向かっていく。

また同様に、事物の砦の統治とそれに対する摂理とは最善のモラルを必要とする。それは、人間の諸々の固定観念に対して思考力を適用するに同じく、淫らなるものに属し、暴力への激しい欲望に属している諸々の事物の中で中庸たることに他ならない。

スフラワルディー『照明学派の叡知の書』、1978年に出版された故エドワード・サイード Edward W. Said の『オリエンタリズム』が提示するさまざまな問題群の多くは未だに理論的問題解決の困難な状況に晒されたままである。けれども、政治世界における〈差異〉、〈他者〉表象、〈主体〉、〈自己〉、言説による権力支配、そして〈想像力〉の問題などを『オリエンタリズム』の提示する問題群抜きに論じることはもはや不可能であるといってよい。

その問題群の理論的解決が困難な状況となっているのは、サイードの批判の対象である〈権力的言説構造〉が自己充足的閉塞空間の中で自己完結的に構成されてきたからに他ならない。つまり、そうした〈権力的言説構造〉の意味空間の中で提示される〈問題〉は自己完結的であるので、自ら構成したもののうちに〈解決〉を内包するのであるが、彼の批判対象はその意味空間自体であるために、提示された問題群の〈解決〉は存在しないか、或いは存在次元の異なる〈外〉にしかありえないことになるからである。〈オリエンタリズム〉を含むポスト・モダンをめぐるさまざまな探究が、人間の存在次元を超出しようとする宗教的、神学的、形而上学的諸次元に向かっていく必然性はそこにある。

しかし、提示された問題群の〈解決〉が神与のものとして予めどこかにあるといわけではない。また、〈デカルト〉を「敵」に仕立てて西欧近代批判を展開しつつ「伝統への回帰」や「近代の超克」を唱えることでその〈解決〉が導出されてくるわけでもない。むしろ、新しい〈デカルト的平衡の秘密〉 le secret d'équilibre cartésienが要請されざるをえないのである。そして、その思考の〈鍵〉となるのは政治社会における人間の想像力の問題に他ならない。〈光〉はその想像力の問題の発端となる。

そこで、政治哲学における政治主体の〈想像力〉の問題を主題とする本書が企図しているのは次の三つの問題の提示とその〈解決〉である。

第一に、〈オリエンタリズム〉を含む近代批判の提示する問題群がかかえているモダンの政治世界に胚胎するアポリアは、政治的なるものの思考における〈普遍〉概念の混乱に起因しており、その解明には、古代ギリシアやイスラーム世界の政治社会にはあったとされている政治的なるもの、哲学的なるもの、超越的なるものの三位的連関が、いつ、如何にして崩れたのかという問題を一つの政治哲学的思考枠組みにおいて考察する必要があるということである。

その場合、〈普遍〉が成り立ちえたかつての世界構造の基本的思考枠組みには、物質界、霊魂界、精神界という〈三つの世界〉があったことを看過すべきではない。批判の対象としての〈デカルト〉の中心問題は、〈心身の複合〉、すなわち物質界と霊魂界との撞着にあるといえる。そして、〈普遍〉が成り立ちうる中間的存在次元としての霊魂界の喪失は、異なる存在次元への架橋としての〈想像的なもの〉の喪失を意味する。それは〈生〉そのものの豊饒な意味の産出を困難にする。この困難こそ政治社会における〈差異〉の共生の困難性を生む根本原因であろう。

そこに〈光〉の哲学の一環として〈想像的なもの〉の存在論を展開したスフラワルディー (1153–91) の思想を、その政治的死との連関において政治哲学として読むという本書の基層をなす動機と関心とが生成される。

そして、それは伝統的政治哲学における〈光〉のモティーフを再構成する試みとして展開される。本書において、それを《光の政治哲学》とよぶ。

この《光の政治哲学》という〈学的構成〉が成り立つと考える根拠は、次の本書における第二の問題の中心にある「真理としての〈光〉のメタファー」をめぐる《〈光〉の形而上学》が、すでに哲学史家ハンス・ブルーメンブルクなどによって確立されていることにある。

すなわち、第二に、政治的なるもの、哲学的なるもの、超越的なるものの三位的連関の表現を可能にしてきた〈光〉のメタファーの受容が政治社会に何を齎してきたのかという問題である。本書では、この〈光〉のメタファーの受容が世界の意味の総体を配置転換する可能性としての〈革命性〉を有するという仮定のもとに、それを〈超歴史的近代〉の基本性格であると把握しつつ、これを先述の《光の政治哲学》という構成において考察している。

その場合、哲学が政治に関わる〈あかるさ〉と、政治が哲学を政治的現実としては抑圧する構造へ転化していく〈くらさ〉との対照が措定されている。そもそも、哲学者の政治社会における〈孤独〉と〈悲劇〉とは人間における自己と共同体との〈二つの完成〉という哲学者自らの課した課題が未成に終わることによるのであって、哲学者の〈想起〉が呼び覚ます〈在ることの悲劇性〉 (秘教的性格をもつ超越的存在への同一化なき接合の欲望) とは次元を異にする。他方、この秘められた〈在ることの悲劇性〉に繋がる回路としての〈想像的なもの〉を喪失することにより、政治のもつ本質的〈くらさ〉が生じる。それは人間に存在理由を与えるものへ導く「内的な自然の〈光〉」の度合いが弱まっていることを意味するからである。この視角こそ、スフラワルディーの〈光〉の哲学の政治性を蘇生させるものに他ならない。

そして第三に、政治空間の性格の違いは〈光〉のメタファーの受容と展開とにどのような違いをうむのか、あるいは、〈光〉のメタファーの受容は政治空間の構成にどのような性格上の違いをうみだすのかという問題である。政治社会を構成する宗教共同体の基層をなす宗教的-哲学的意識には共通して〈光〉のメタファーの受容があり、そこには思想構造上の必然性が共有されている。にもかかわらず、クリスト教的西欧においてのみ、何故特殊な〈歴史的近代〉という政治空間が〈光の世紀〉に構成されたのか。社会経済的要因への還元に陥ることなく、これに一つの説明を与えるために、本書では、〈光〉のメタファーの受容という観点から、クリスト教的西欧の政治空間とイスラーム世界の政治空間との〈性格の問題〉を比較考察している。

政治哲学の「根本問題」は「一つの文化生活との関連において、政治がいかなる位置を占めるべきか」にある。そして、それは「どうすれば権力を信頼と忠誠に値するものとなるよう形成し維持することが可能だったのか、あるいは可能なのかを考察する」という「課題」を負う。しかし、それはまた夥しい功利主義的政治哲学の跋扈や「トラシュマコスの理論的見解の極致」の変奏を掻い潜らなければならない。しかも、それはあくまで「人間の状況」において探られなければならない。かくして、「人間のあるべき理念的なあり方への確固たる確信」へ到るためには、「〈善であること、そうでなければならぬこと〉が万物をひとつにしばりつけそうでなければならぬようにし統括している」原因・根拠がいかなるものであるのかと問わざるをえない。その意味で、本書が提示する三つの問題は〈光〉のメタファーの受容によって〈想像的なもの〉を如何に政治哲学の文脈において蘇生させうるのかという〈一つの問い〉へ収束していくといってよい。本書における「想像力の問題」とは、この〈想像的なもの〉をめぐる問題に他ならない。

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