いかなる人間の政治権力とその体制も、絶対的永続的なものなどどこにもない。人のうつつ世は常に再帰変容していくので、現存する信仰システムの多くは人間の営みが諸行無常であることを自明の理としている。イスラームもまたそうした信仰システムの一つであり、ムスリムにとって、現世は本来の生への帰還を意味する来世への、一人ひとり個別の意義ある道程に他ならない。
イスラームの特徴の第一は、現世の体制の再帰変容が、タウヒードすなわち世界の諸現象の根源を唯一絶対で揺るぎないアッラーへ一化する原理への強度を、常に高めていこうとする明確な基盤が設定されているところにある。このタウヒード的イスラーム性が強調されるさまざまな教義上の再解釈革新統合現象は、歴史的にも地域的にも、一定の周期をもって世界各地で繰り返し立ち現れてきた。本書では、これを総称して〈イスラーム現象〉と呼ぶことにする。しばしば、イスラームの歴史は穿たれた理想の歴史であるといわれるが、それはこうした教義上の再解釈革新統合現象の周期性を表現している。
20世紀後半の〈イスラーム現象〉の潮流は、1967年の第三次中東戦争におけるアラブ・ナショナリズムの敗北から始まり、2003年のイラク戦争におけるアメリカ軍によるバグダッド占領によって、いったんそのサイクルが閉じられつつある――この仮説を本書では検証していく。サイクルの端緒としての1967年についてはすでに大方の識者の合意があるが、収束期をいつとするのかについては、〈イスラーム現象〉をどう見るのかという立場に応じて、なおさまざまな議論の余地がありうる。
本書が捉えるそのサイクルの収束期の顕著な特徴の一つは、イスラーム的政治言説と非西欧世界におけるナショナリズムの流行との交錯状態の終焉にある。21世紀初頭の現在、グローバル化の展開とともにナショナルなものの意味それ自体が大きく変容しているため、イスラームがナショナルなものの解放を代替する意義はしだいに背景に退きつつあるからである。イラン・イスラーム革命における〈イデオロギーとしてのイスラーム〉が、アラブ・ナショナリズムにおけるナショナリズムのイデオロギーを代替するような意味をもった時代状況はすでにない。むろん、新彊ウィグル自治区や旧ソ連邦各地域などにおける民族的「独立」運動などにおいて、イスラーム主義が引き続き「独立」のための一種のイデオロギー的供給源となることがあるとしても、イスラーム主義の比重はむしろグローバリゼーションという帝国主義の諸問題との対峙へより深刻に傾斜している。かつてのナショナリズムとマルクス主義との交錯が、まさに帝国主義をめぐるベクトルとして作用していたことに、それは相即しているといえる。
さらに興味深いことに、20世紀後半の〈イスラーム現象〉は、西欧におけるマルクス主義政治諸潮流の後退とその補完的代替物としてのポストモダニズムやポストコロニアル思潮の登場と相関関係にある。〈イデオロギーとしてのイスラーム〉をポストモダニズム諸潮流の一環として理解していくことには十二分な妥当性があるといえよう。ポストモダニズムと同様に、言説化された〈イスラーム現象〉としてのイスラーム主義は、そのはじまりにおいてまさにマルクス主義への幻滅を梃子として構築されてきたからである。
ハミッド・ダバーシーの『不満の神学』(Dabashī, 1993)には、イスラーム世界に存在していたマルクス主義への希望と幻滅についての共通了解がよく整理されている。ダバーシーによれば、イランにおける共産党を主体としたマルクス主義運動への幻滅が「民衆への回帰」、「イスラームへの回帰」を引き起こし、それらの「回帰」を革命化させたという。これは大筋において多くの識者がすでによく受容している見方である。
マルクス主義諸潮流のイデオロギー的影響下の政治運動は、アラブ諸国は言うまでもなく、イランにおいても1940年代初めにはすでに組織化されていた。冷戦期には、イスラーム的イデオロギーを保守するウラマー(モッラー)などムスリム知識人たちは、アメリカ中央情報局(CIA)のイデオロギー操作に協力して、むしろソ連型マルクス主義を弾劾する立場にあったが、同時にイランではソ連影響下のツデー党も活動していた。
たとえば、ツデー党々員であったジャラール・アーレ=アフマド JalālAl-e Ahmad(1923–69) は、石油利権を狙ったソ連の干渉を嫌っていて入党後わずか一年で脱党し(1948年)、その後いくつかの政治活動を渡り歩いた後、A.ジッド、カミュ、J.P.サルトル、ドストエフスキーなどの西洋小説の翻訳をはじめ、いわゆる「実存主義的立場」を身につけて、自ら小説を書きながら、クルアーンをはじめイスラームのさまざまなテクストに向かうようになった。元々信仰心深い家庭に育ち、マルクス主義的革命の理想から実存主義を通った後に、よりラディカルな反西洋思想を求めてイスラームに回帰したという。1962年に『西洋かぶれ』(gharbzadegi 英訳 Westoxication) を発表し、多大な影響をイラン社会に与えたアフマドは、そこで自身に潜む「西洋かぶれ」をも踏まえて、石油資本の進入によるアラブ圏の「西洋かぶれ」を手厳しく糾弾し、イスラーム革命家による〈イデオロギーとしてのイスラーム〉を推奨したが、1969年に心臓発作で夭折する。
その後を担ったのが、アリー・シャリーアティー 'Alī Sharī'atī (1933–77) であった。シャリーアティーは、少年期をマシュハドで過ごし、モサッデク時代に父とともに国民戦線に参加し、1957年投獄された。出獄して1960年マシュハド大卒業後パリに留学し、在外イラン自由運動に参加するとともに、J. P. サルトルやF. ファノンなどを知り、マルクス主義系政治運動とりわけ当時のトロツキスト革命運動やアルジェリア解放運動に深くコミットする。1964年、帰国と同時に逮捕されだが、出獄後の1967年以降、テヘランに新設されたフセイニーヤ・イルシャード学院で青年層に「イスラームの革命性」を訴え、決起を促す連続講義をおこなった。そうした一連の講義はイスラーム社会学と総称されることになる。そのマルクス、サルトル、ファノンらの影響を強く受けた彼のイスラーム再解釈の試みは、アッラーの前に立つ自己が「革命的自己形成」を果たすに当たって必要な個人の実存的選択という問題を提起して、西欧文明と伝統的イスラームの間で自己を喪失したイランの青年知識人層に強く働きかけ、彼らにイスラーム革命の行動原理を自己内構築させるいわば触媒となった。1973年再び投獄され、釈放後も軟禁状態に置かれたため、1977年ロンドンへ政治亡命を試みるが、その道半ばに秘密警察により暗殺されてしまう。
シャリーアティーの思想を、「民衆の支持をうるためにマルクスの革命思想をクルアーンの字句を元に読み替えようとしただけだ」、として皮相な矮小化をおこなうことは、〈イスラーム現象〉の性格を見誤ることになる。それは、逆にシャリーアティーとは別の角度から、ホメイニー師の思想的政治的なバックボーンであったモルタザー・モタッハリー師Ayatollah Mortezā Motahharī (1920–1979) が、青年知識層に影響を与えていたマルクス主義にイスラーム神学を対峙させようとしたことと相関関係にあるといってよいからである。モタッハリー師は、革命的マルクス主義に対抗するためにはイスラームも革命化しなければならないと考えた。シャリーアティーがマルクス主義言説のイラン民衆への限界を自覚していく過程と、モタッハリー師がイラン人青年知識層に横溢するマルクス主義言説への警戒を高める過程とは、奇妙な共振関係にあったともいえる。
モタッハリー師自身のマルクス主義理解はムハンマド・イクバール Allama Muhammad Iqbāl(1877–1938)に拠っている。イクバールは英領インドの詩人・政治家で欧州に学び帰国後イスラーム文明の政治的・霊的復興を唱えた。モタッハリー師は、従来のイスラームは真のイスラームではなく空想的であり、イスラーム法学者による直接統治 velayat-efaqih こそが、イスラームの原点に至る現実的な道であるとして、ホメイニー師による政権の構造に新たで斬新なデザインを与えた。この政権構想にあったのは、その意味では、イクバールのいう「復興」よりむしろ、「伝統の革新」に他ならなかった。単純なイスラーム「回帰」や「復古」などではないという点を看過すべきではない。
イスラーム革命前夜のイランで起こっていた、こうしたマルクス主義言説のイスラーム化とイスラーム言説の革命化の相互過程は、時差を伴い世界各地で起こった。そのような20世紀後半の〈イスラーム現象〉は、かつてのマルクス主義が初期においてそうであったように、新たな政治と政治学とを再構築していく(いわば新たなる〈イスラーム政治神学〉となる)可能性を秘めているかのようにみえたのだが、現在ではその実現は頗る困難な状況に陥っている。ナショナリズムの流行とイスラームの言説が交錯する場合、それはある意味で必然的帰結なのではあるが、理論上原理的には実現不可能な「イスラーム国家」というプログラムの袋小路に入り込んでしまったからである、と私は考えている。
なぜ、「イスラーム」と「国家」との接合は理論的に困難なのか。「近代国家の重要概念はすべて世俗化された神学概念である」(Carl Schmitt)であるとしても、イスラームの教義体系には、そもそも「国家」や「世俗化」という西洋近代に特殊独特な原理主義現象を導出していく基盤が乏しいからである。これについての詳細は、続く各章で検討されることになるが、今後「イスラームの名の下に」新たな可能性が開けるのは、西洋近代というすべての単一化していく「魔術的世界」に、より根本的な次元での変更をもたらす、ハイブリッドな言説が十分に流通できるようになってからであろう。
換言すれば、十数年後におとずれるポスト・アメリカン・インペリウムの時代に、「イスラームの名の下に」世界秩序が構築される可能性があるとすれば、それは「国家」や「世俗化」ばかりでなく、「主権」や「デモクラシー」などについて、イスラーム的言説がどれほど〈政治的なるもの〉の概念上の革新をもたらしうるのかにかかっている。イスラーム金融理論が世界金融システムそのものを変えるものとなるのか、ただ単に新手の金融商品の変種に過ぎないのか未分化な段階であるように、政治的イスラームの諸言説が現代政治理論に再構築再接合されうるのかどうか、未だはっきりしてはいない。
たとえば、現代中東諸国の中で投票行動による政治制度としては最もデモクラティックなイランは、上述のようにモタッハリー師に影響を受けたホメイニー師の〈法学者の統治〉という実験によって一つのネイション・ステイトとして小さくまとまってしまった。この〈法学者の統治〉が陥る自己矛盾は、イスラーム的言説の新たな〈政治的なるもの〉の概念上の革新を経なければ解決不能なのであり、「イスラームの名の下に」イランに何が起こりうるのか、実はまだ明らかではない。
本書では、以上のような問題意識を基礎に、約40年に及ぶサイクルをもつ20世紀後半の〈イスラーム現象〉が遺した、現代世界における被抑圧者解放への理論的諸課題を、そのサイクル収束期の位置づけを含めて、探っていくことにしたい。そして「イスラーム = テロ」の文脈を作為して「恐怖」によって〈イスラーム現象〉を世界政治にコミットしようとする勢力と、イスラームの再解釈により民族主義、国家主義の紛争に疲れ果てた別の世界を構築しようとする「希望」を語る勢力との拮抗において世界政治を捉えたいとも考えている。もっとも、問題は、「恐怖」は人々の耳目を引くが、〈穿たれた理想の歴史〉をもつイスラームにおいてこそ相応しい「希望」はなかなか素直に受容されにくいことにある。
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