グローバル化によって国際移動・交流が進むなかで、世界は、再び、流行病の脅威に曝されている。これまでに抑制してきたコレラ、ペスト、黄熱病だけでなく、エボラ出血熱、エイズ、狂牛病、 SARSといった新しい病気が登場し、最近では鳥インフルエンザが脅威となり、現在では新型インフルエンザが人々の生活をまさに脅かしている。
世界保健機関(World Health Organization、以下 WHO)は、2005年に国際保健規則(International Health Regulation)を改正し、この脅威に対応しようとしている。この保健規則は、 WHOの下で、1952年に、国際衛生規則(International Sanitary Regulations)として締結され、1969年、国際保健規則として改正されていた。今回の改正は、基本的な部分を維持したまま、迅速な対応のために各国の個別の能力を向上させることを目指している。
WHOの活動をみると、規範的な活動の大半は、国際基準を設定するといった法的拘束力を持たない勧告である。したがって、国際保健規則は、 WHOの関与によって、各国の権利義務を定めた数少ない国際条約の一つといえる。この規則が改正されながら、21世紀にいたってもなお基本的な事柄を維持しているのは、そこに確固とした国際的合意の基礎あるいは国際文化のようなものが存在するからである。実際に、この規則は、いくつかの国際衛生協定(International Sanitary Convention)を基礎にしていた。
国際衛生協定は、国際衛生会議(International Sanitary Conference)の産物である。この会議は、公衆衛生と国際移動を調和させるために、1851年から1938年まで計14回開催された保健行政に関する国際会議である。
19世紀のヨーロッパでは、交通手段の発達(蒸気船、鉄道)によって国際移動が活発になり、それに伴ってこれまで特定の地域(アジア、アフリカ)の風土病でしかなかった病気が世界各地に伝播するようになった。しかし、当時は、流行病の性質およびその抑制方法について科学的知識は確立されておらず、検疫措置と衛生措置が対立していた。
検疫措置は、伝染説を基礎とし、流行病の発生した国からきた人または船を、国境または港で一定期間留置し、この間に病気が発生しなければ入国を許可する措置である。衛生措置は、瘴気説を基礎とし、国内の環境衛生を改善することによって、流行病が発生しないようにする措置である。
他方で、衛生行政は、原則として国家によっておこなわれてきたが、オリエント諸国では事情が異なっていた。トルコとエジプトは、治外法権によって検疫・衛生措置を外国の船または外国人に課すことができなかった。この不都合を解消するために、国内の一機関である協議会に外国の代表が参加することによって、この機関に衛生行政が委ねられた。
しかし、約1世紀にわたる国際衛生会議の結果、流行病に対する科学的知識が明らかにされ、国際的な予防措置が確立され、他方で、協議会は廃止され、国際公衆衛生局(Office international d'hygine publique、以下 OIHP)と連盟保健機関(Health Organization of the League of Nations)が設立されて、 WHOの国際衛生制度の基礎が形成された。
国際衛生会議について、これまでにも様々な角度から研究がおこなわれてきた。
まず、1971年のグッドマン(N. M. Goodman)の著作、『国際保健組織とその活動(International Health Organization and their work)』がある。これは、国際衛生会議から1970年代の WHOにいたる保健活動の歴史を網羅した大作である。これによると、衛生会議は、技術的・科学的な要素だけでなく、経済的・社会的・政治的な要素の相互作用の産物であるという*1。
グッドマンの研究を前提にして、科学的・医学的要因を特に取り上げたのが、ハワード・ジョーンズ(N. Howard-Jones)の1975年の著作、『国際衛生会議の科学的背景(The Scientific Background of the International Sanitary Conferences, 1851-1938)』である。
彼は、合意の基礎となりうる科学的知識は、科学的知識そのものではなく、もっと実際的なものであることを示唆している。すなわち、流行病の性質の対立は合意の成立を妨げる原因となったが、19世紀の末にコッホがコレラ菌を発見しても、合意の基礎とされたのは、細菌説そのものではなく、疫学的条件と合わせたものであったという*2。
さらに、実際的な知識の中味を明らかにしたものが、1989年のクーパー(R. N. Cooper)の論文、『マクロ経済的協力のプロローグとして、公衆衛生における国際協力(International Cooperation in Public Health as a Prologue to Macroeconomic Cooperation)』である。
それによると、国際協力の条件は、共有される目的だけでなく、実際的な知識についての合意である。コストが重く、利益が不確実な限り、または行動と結果の関係について鋭く対立する見解がある限り、各国は制度的に協力しあわない。会議において、合意に時間を要したのは、目的(病気の予防)は共有されていたのに、病気の伝播方法(伝染説と瘴気説)についての知識を欠き、それが各国のコスト計算に影響を与えたからである。後発国は、コストが安いことから、瘴気説に基づく衛生措置よりも伝染説による検疫措置を支持した。細菌学の発展によって、学説の対立が緩和されて、国際協力の枠組みが可能となったという*3。
この後、国際衛生会議に焦点をあて、詳細な研究をおこなったのが、1991年にシェーピンとヤーマコフ(C. Schepin, W. Yermakov)が編集した『国際検疫(International Quarantine)』である。
これによると、合意の形成に対する外因的影響が重視され、第1回会議から第6回会議では、政治的・経済的・科学的対立によって実際の結果はわずかであり、第7回会議から第11回会議では、細菌学の発展によって科学的対立が消滅し、三国協商によって政治的・経済的対立は緩和されて、統一した衛生協定が締結されたという。他方で、彼らは、衛生会議がロシアの予防措置に多大な影響を及ぼしたことにも触れている*4。
最近では、カルバロとザッカー(S. Carvalho and M. Zacher)の2001年の論文『歴史的観点から見た国際保健規則(The International Health Regulations in Historical Perspective)』がある。これは、国際衛生会議から WHOによる国際保健規則の形成に至る歴史を検討した後で、1990年代のこの規則の改正への動きの意味を明らかにしている。
彼らによると、 WHOによって確立された1951年の国際衛生規則、1969年の国際保健規則、さらに1981年までのこの規則の修正は、1926年協定および1944年協定と本質的にはほとんど異ならない。すなわち、それは、疫学情報システムおよび港と空港における措置である。1990年代になって新しい病気が流行すると、 WHOは、既存の規則の基本構造は有効であるが、規則の網羅する病気の数および既存の通知方法の限界に欠点があるとしたという*5。
この研究は、約1世紀にわたる国際衛生会議およびこれに関連する国際機構の活動によって、国際的な予防措置が形成され、世界の国々がこれを受容していく過程を明らかにしたものである。この研究は、次の3つの観点から分析される。先行研究は、これらの観点からの研究のひとつまたはその一部を触れているにすぎない。
第一に、国際的予防措置の形成を検討して、国際衛生・保健の本質を探ることである。すなわち、コレラの世界的流行に直面して、各国だけでなく、ヨーロッパ、さらには世界を防衛するために、どのような予防措置が構想されたのか、どのような科学的知識が基礎とされたのか、さらには、このような予防措置を支えている制度は、どのようなものかが問題となる。
先行研究では、カルバロとザッカーが、 WHOの国際協定の基本構造が衛生会議に由来すると指摘しているが、この基本構造がどのように形成されたか明らかではない。国際的予防措置は、衛生措置と検疫措置から発展したものであり、現在の予防措置を理解するために、この発展過程を検討する必要がある。
第二に、国際的予防措置に関与する様々なアクターを検討して、国際社会の発展と国際制度の成立をみていくものである。すなわち、専門家は対立する教義をどのように調和させたのか、外交官は対立する国益をどのように調整したのか、専門家と外交官はどのような協力をおこなったのか、国際組織はどのようにアクターの活動を促進したのかが問題となる。
先行研究では、クーパーは、科学的な発見によって、コスト計算ができるようになり、シェーピンとヤーマコフは、外交によって政治的対立が緩和されたという。しかし、科学的な発見や政治的な同盟だけで合意が成立するわけではない。会議や国際組織の構造、討議の態様、そのなかから生まれる交渉枠組みが、対立する主張を相対化し、合意を促進するのである。
第三に、国際的予防措置と各国の関係を検討して、国際規範の影響ないし国際文化の形成の可能性をみていくものである。すなわち、国際的予防措置は、各国にどこまで一緒になることを求め、どこまで異なることを許容するのか、各国の予防措置は固有の文化に根ざしているから、国際的予防措置は、各国の文化にどのように作用したのか、逆に、各国の文化は、国際的予防措置にどのように作用したのかが問題となる。
先行研究では、唯一、シェーピンとヤーマコフがロシアとの関係に言及しているに過ぎない。しかし、世界の海運国家であり、国際的予防措置に反対してきた英国、コレラの風土地帯があり、厳格な措置を求められてきたインド、ヨーロッパの防壁とされたオリエント諸国などの対応とその変化をみていく必要がある。これらの国は、国際的予防措置に抵抗するだけでなく、自国の文化に合わせてこれを受け入れ、受け入れたものを国際社会に認めさせて、国際文化の多様性に貢献した。
3つの観点から、国際衛生会議を総合的に分析するために、以下の理論的枠組または思考様式を、筆者なりに解釈して採用することにする。
この研究は、国際的予防措置の形成を検討して、どのように人々の健康を国際的に保障するのかを明らかにするものであり、人間の安全保障と深く関係する。人間の安全保障は、人間を対象とする点で、国家の安全保障と対立する概念である。
人間の安全保障は、人間開発を目的とする国際協力を推進する議論である。『人間開発報告書(Human Development Report)』によると、人間開発とは、「人々の選択の幅を拡大する過程」である。すなわち、人間の多様性から生じる潜在能力(capability)を発揮するために、選択の自由を保障することである。潜在能力の視点によって、福祉(例えば、健康)よりも福祉を達成するための自由(生命・身体を守る能力)に焦点が当てられる。それは、福祉を達成するための手段(所得や基本的ニーズ)に着目するのではなく、手段から福祉に変換できる選択肢を尊重することである*6。
したがって、人間の安全保障とは、「選択権を妨害されずに自由に行使でき、しかも今日ある選択の機会は将来も失われないという自信を持たせること」である。大半の人々が不安を感じるのは、国境の脅威よりも日常生活にまつわることであり、彼らにとって安全とは、病気や飢饉、失業、犯罪、社会の軋轢、政治的弾圧、環境災害などの脅威から守られることである。
ここから、人間の安全保障の特徴は、1、富める国であれ貧しい国であれ、どんなところに住んでいる人にも関わる脅威であること(世界共通性)、2、人々の安全が地球のあるところで脅かされると、それがすべての国に波及する公算が強いこと(相互依存性)、3、このような脅威に背を向けるよりも、根源にさかのぼって対応し、しかも時期を逸する前に対処するほうが出費も少なく、人道的でもあること(早期予防)である*7。
このように、人間の安全保障論は、いまだ緻密な理論とはいえないが、重要な思考様式を提示する。すなわち、それは、地球的脅威に対して、早期予防のために、各国・集団・個人の行動を全体の目的に向かわせる問題である。
この研究では、1、全体の目的のために、統一した原則に基づくシステム的な予防措置が形成されて、各国がこれを負担する方法、2、全体の目的のために、各国の予防措置が、いくつかの原則に基づいてシステム的に調整される方法があること、検疫措置が衰退し、代わりに衛生措置が発展し、国際機構が活躍するにつれて、1の方法から2の方法に移行し、多様かつ柔軟な国際的予防措置が形成されたことが明らかにされる。
この研究は、国際的予防措置に関与するアクターを検討して、彼らがどのように協力するのか、国際社会がどのように組織化されるのかを問うものであり、国際レジーム論と国際組織論に関連する。
国際レジーム論には、米国学派と英国学派の対立が存在する。米国学派は、利己的な国家が協力するのは、不確実の減少という手段(通信の促進、学習の奨励、情報・知識の伝達)によって、合理的な選択が可能になるからである。
複合的相互依存(complex interdependence)(1、軍事力の重要性の低下、2、外交問題の序列の消滅、3、国家間の交流経路の多様化)という状況において、軍事力を中心とするパワー構造だけでなく、個々の問題領域における交渉能力によって、外交問題が決定されるようになる*8。国家は、問題領域ごとに、ルール作りに参加し、国家間にレジームが形成される*9。特に、利益と知識の関係では、政治家の目標(連結・拡大か、特殊・静的か)と専門家の知識(合意の程度)の組み合わせによって、問題連結の仕方(実質、分断、戦術、断片)とレジームの種類(計画、目的設定、基準化・予定作成、情報蓄積・援助)が決定される*10。
これに対して、英国学派によると、国家が協力するのは、国際社会および国際共同体の存在を前提としているからであるという。国際社会および国際共同体から生じる利益には、第一に、国際法がある。国家が国際法システムに参加する長期的利益があるとみなすと、規則の義務と規範が具体化され、国家の直接の利益からある程度の距離を持つ。第二に、共同体の意識である。国際社会は、社会の意識を形成するのに役立ち、共通の価値と目的の意識を形成する文化的・歴史的諸力に根ざしている。第三に、正義である。規則と規範は、国内の個人の思考と情緒に直接作用する共通の道義的意識に基づいている*11。
国際組織論では、国際組織の役割に応じて、統合説、手段説、改革説、機能説がある。まず、国際組織は、集団の利益を再解釈させて、組織への忠誠を生じさせ、集団を統合するという考えがある*12。
次に、国際組織は、レジームを実施するための手段という考えがある*13。
さらに、国際組織は、レジームの改革者であり、加盟国の不満によって、共同で問題を解決する方法を学び、以前よりも満足を与えるという。それには「適応」にもとづく「漸増的成長」と「学習」にもとづく「管理された相互依存」の2つのプロセスがある。前者は、当初の支配的連合に好まれる計画を拡大して、新参者に受け入れやすいものにすることである。後者は、新たな支配連合が形成されて、以前よりも複雑で幅広い計画を行うことである*14。
最後に、国際組織は、活動する条件、そのときのニーズ、活動の性質に応じて、具体的に選択されて、個別に組織されるという。すべての利益がすべてに共通であるわけでも、共通の利益がすべての国に同程度関係するわけでもない。領域の結合体は、共通でない利益を一緒にし、共通の利益を切断する。これを回避する方法は、共通の場所で、共通する程度、共通である利益を一緒にすることである*15
これらの理論は、いずれも特定の事例をモデルとしたものか、理想の形態にすぎない。現実の国際制度は、この理論のいずれかに完全に一致するものはなく、むしろこれらの複合体として理解するしかない。そこで、レジーム論および国際組織論は、アクターが協力するために、相互の主張を相対化して、合意を形成する問題を扱うものであると捉え、この問題を解決するために、各理論のエッセンスを採用する。
この研究では、合意を形成する方法は、1、共同で行動して、問題を解決し、連帯感を喚起させること、2、様々な情報をもとに、相互の認識を拡大し、これを共有すること、3、共通の規範によって、国際社会のために、勝手な行動を自制することであり、この方法によって、しだいに専門家と外交官の協力が実現するようになること、会議と国際機構はこの協力を促進するが、やがて会議は、連帯感の強さ、認識の広さ、権威の高さの点で、国際機構に取って代わられることが明らかにされる。
この研究は、国際的予防措置と各国の関係を検討して、国際規範の影響および国際文化の形成の可能性を明らかにすることである。国際的合意がどのように各国の文化に影響を与えたかをみるには、文化触変論が有効である。
文化触変論は、外来文化要素の伝播、呈示、選択、受容、抵抗、文化要素の再解釈、文化の再構成、結果という一連のプロセスに着目する。このプロセスの結果、1、外来の文化要素を受け付けない(拒絶もしくは黙殺)、2、外来の文化要素が完全に在来の文化要素に置き換わる(置換)、3、外来の文化要素優位に在来の文化要素が変化して、両者が合体する(同化統合)、4、在来の文化要素優位に外来の文化要素が変化して、両者が合体する(編入統合)、5、両者が対等に変化して合体し、第三の新しい文化要素となる(融合統合)、6、両者が無関係に並存して、二重性を作り出す(隔離統合)、7、在来の文化要素が存在しないので、外来の文化要素がそのまま受け入れられる、の7つのパターンが考えられるという。
他方で、国際文化が形成されるにつれて、文化の多様性が維持され、増加していかなければならないという*16。
この研究では、既存の文化要素のなかでも、特に、その国の核となる価値は強固であり、1、この価値のために、外来の文化要素が拒絶されるか、2、この価値を壊さない範囲で、外来の文化要素が受け入れられ、さらに外来の文化要素と既存の文化要素が合わさって新しい文化要素が形成されるか、外来の文化要素の代わりに、国内で新しい文化要素が形成されるか、3、大事件で突然この価値が変化するか、徐々にこの価値が変化することによって、外来の文化要素が受け入れられることが明らかにされる。
他方で、このような過程によって生じた多様な文化が共存するためには、1、活動を共にするか、2、同じ手続きを踏むか、3、価値を共有することによって、自己と他者を包含する文化への一体感と他者の文化を認める寛容な態度が育まれる必要のあることが明らかにされる。
個々の国際衛生会議の検討にはいる前に、国際衛生会議の以前の現状を把握しておく必要がある。
ペストは、ペスト菌によって発生する急性伝染病の中でも最も危険なものといわれている。元来ペスト菌はノミを宿主とし、このノミが寄生するネズミなどのげっ歯類がペストの本来の保菌者であった。このネズミとノミとペスト菌の三角関係に、人間が巻き込まれた結果、この菌は人から人へと伝播するようになった。
ペスト菌は、フランスのイエルサン(A. Yersin)と日本の北里柴三郎によってそれぞれ独立に香港で発見されたが、それは19世紀末の1894年のことである*17。
ペストは、インド・アジア南部から次第に北上し、アフガニスタン・イランからカスピ海沿岸へと進み、さらに西進して、13世紀の半ば、東西交流の盛期に相当する時期に、ネズミとともに蒙古の後を追ってヨーロッパに侵入した。14世紀、1400万から1500万人が犠牲になり、それはヨーロッパ人口の5分の1から6分の1に相当した。しかし、17世紀後半から18世紀初期までに、西ヨーロッパの大半の諸国で大流行は終わり、その後は、様々なヨーロッパの港で突発的な事例が記録された。1720年のマルセイユのペストは特に重要で、厳格な検疫措置にもかかわらずに、約87万人が死亡した。19世紀には、南ヨーロッパ、中近東、北アフリカの地方と町で記録されたが、ペストの問題は、もはや主要な衛生学(sanitary science)の仕事ではないという意見がヨーロッパで徐々に有力になりはじめた。もっとも、多数の人々が、この病気の侵入する危険がまだ相当現実的なものであると信じていた*18。
19世紀末になると、満州を起源とするペストが再び世界的に流行し、再び国際問題としてクローズアップされる。
黄熱病は、サルに対する病原性を持ったウイルスによって起こる伝染病である。アフリカと南アメリカのジャングルで、ウイルスはサルに寄生して存続し、森林の蚊によってサルからサルへと伝播されていた。そこへ人が介入して、ある蚊を媒介にしてこのウイルスは人から人へと伝播するようになった。
1900年に、アメリカ黄熱病委員会によって、この病気が蚊によって媒介されることが証明された。このウイルスが発見されたのは1929年になってからである*19
黄熱病は、アフリカ西海岸を発祥地とする。黒人にはこの病気がほとんど見られないのに、ヨーロッパ人には酷い被害を与えていたことから、この地域は「白人の墓場」という悪評を受けていた。この地域から、黒人奴隷がこの病気をアメリカにもたらし、黄熱病は、カリブ海地方の流行病になった*20。
黄熱病は、アメリカおよび西インド諸島から到着する船舶で、ヨーロッパに侵入し、海岸地帯または主要な海港で発生した。1649年に西インド諸島からジブラルタルに侵入し、1723年、リスボンで大発生し、1730年、カディスで記録され、その後、スペインの多数の町で記録されている。
もっとも、19世紀の半ばまでに、黄熱病は、南ヨーロッパ諸国(スペイン、ポルトガル、イタリア、フランス)で散発的な流行が記録されるだけで、ヨーロッパの関心をほとんど引かなくなっていた*21。
しかし、西半球では、依然として、黄熱病は恐ろしい流行病であり、20世紀になってパナマ運河が開通すると、この病気はヨーロッパだけでなくアジアの国の関心を引くことになる。
コレラは、コレラ菌の感染によって起こる消化器系急性伝染病である。病原体のコレラ菌は口から入り、糞便とともに排泄される。それが再び何らかの経路で口に入り、人から人へと伝染していく。
コレラ菌は1884年コッホによって発見され、顕微鏡下の形状からコンマ菌と名づけられ、後に細菌学の分類でビブリオと呼ばれた*22。
コレラは、主に中央アジア、特にベンガルに限定される病気と考えられていた。しかし、19世紀、交通の進歩とともに、国際交流の波に乗って、世界的流行を繰り返した。第1回の世界的流行(1817-1823年)はヨーロッパに達しなかった。第2回の世界的流行(1826-1837年)では、インドからペルシャに移動して、ヨーロッパ諸国に侵入した。第3回の世界的流行(1840-1860年)では、インドから中国、ヨーロッパ、アメリカまで拡大した。この流行は、ヨーロッパとアメリカで、中世のペストの時期に相当する犠牲者を出した。第4回世界的流行(1863-1875年)では、地中海沿岸と東ヨーロッパで大きな被害をもたらした。しかし、第5回世界的流行(1881-1896年)以降、北西ヨーロッパではほとんど被害をもたらさなくなる*23。
19世紀半ばのヨーロッパでは、流行病に対して2つの見解が対立していた。瘴気説は、流行病は大気のある特定の条件下で生じると主張する。この見解は、中世疫学の原理の1つであって、ヒポクラテス(Hippocrates)にさかのぼる。彼は、流行病の消長とその相異を決定する要因として、気象学的変異と季節的特性を強調した。17世紀になって、英国のシーデナム(T. Sydenham)が、特定の大気の状態が続くかぎりその流行病が発生し拡大すると考えた。この大気の変化は、地上に発生する瘴気に基づくものと信じられた。19世紀には、この説は一般に、悪化した環境衛生状況が、流行病を起こす局地的大気状態を生み出すという変形説になって主張された。この説を基礎として、環境衛生の改善が奨励された*24。
伝染説は、病原体が人から人へと伝播すると主張する。この見解は、1546年、フロカストロ(G. Fracastro)によって体系的に打ち出された。彼は、感染が原因で流行はその結果であるとし、流行病は、伝播性と増殖力をもつ微細な伝染性物質に起因すると理解していた。さらに、疾病のこのような因子は、個々の疾病に特定的であり、同種の因子が同種の疾病を生み出すとみていた。19世紀になると、生物に似た何らかの因子による特定的な感染こそ、伝染病の唯一の源泉であると主張された。英国のスノー(J. Snow)は、組織的な調査をおこない、コレラの原因は水によって運ばれるとしたが、その感染因子の確認はできなかった。この見解は知られていたが、コッホがコレラ菌を分離してはじめて、その正当性が立証された。この見解から、一般に検疫による障壁が求められた*25。
検疫措置は、歴史的に古い予防措置である。中世において、共同体の完全な隔離が試みられたが、恐怖による逃亡や特権・賄賂・非効率性によってほとんど成功しなかった。
そこで、貿易と交流の形態を考慮した共同体を保護する衛生的障壁の可能性が模索された。14世紀に、共同体に人または商品の流入を許可する前に、一定期間隔離することによって、潜在的な病気の侵入から共同体を保護する措置が導入された。この措置の根底にある考え方は、時間の推移が潜伏期間にある病気を明らかにし、感染地域からきた人または商品がもたらす感染を追い払うことである。このような衛生的障壁が検疫として知られるようになった。検疫(quarantine)という言葉は、1403年ヴェニスで強制された40日の隔離期間に由来する。
検疫措置には、交通路に応じて海路検疫と陸路検疫が存在する。海路検疫は、14世紀、当時の海洋国家であるヴェニスによって常設制度として確立された。この検疫制度が他国のモデルとなり、19世紀までにほとんどすべてのヨーロッパ諸国で採用された*26。陸路検疫は、暫定的な措置として、ヴェニスで開始され、18世紀に、オーストリアによって常設制度として確立された*27。
16世紀の半ばには、検疫を回避して自由航行を獲得する手段も発展した。それは、健康証明書(bill of health)を到着港の衛生当局に提出することである。この証明書は、出発港が流行病から免れていることを証明する公的文書である。通常、出発港の衛生当局が発行し、目的国の領事が証明書の情報が正しいことを保証するために査証(visa)する*28。
19世紀前半まで、検疫措置は、オリエント諸国からもたらされた流行病に対して、自国を保護するという国家的意思の表現であった。したがって、検疫措置は、国家安全保障との類似の視点から整えられた。海路検疫では、オリエントから来る船が寄港できる都市は限られていた*29。これらの都市には検疫所が設置され、それは軍事的拠点ないし要塞として、大砲を配備していた*30。陸路検疫では、オーストリアは、オスマン・トルコとの国境沿いを監視するために、その地域を郡ではなく連隊に編成して、特別な軍事制度を確立した*31。オスマン・トルコから独立したバルカン諸国で、国境沿いに独自の陸路検疫が確立されたことは、検疫措置が国家的性格を持つことの典型的な例である。
衛生措置は、ヒポクラテスの頃から始まっている。しかし、それは、養生という個人衛生的なものであり、科学的な知識にもとづいたものではなかった。絶対王政の頃に統計の技術が発展し、19世紀の英国においてようやく、科学的な知識にもとづいた公衆衛生の運動として、環境衛生改革が開始された。
英国の都市は、産業革命によって、人々が集中し、衛生状態は悪化し、病気が蔓延していた。1839年、チャドウイック(E. Chadwick)を中心とする救貧法委員会(the Poor Law Commission)は、イングランド・ウェールズ全体の労働人口の健康調査をおこない、伝染病は、不潔な環境をもたらす排水、給水、家屋や街路からのゴミ収集の欠如と明らかな関係にあることを立証し、一切の有害な汚物を町から除去するには、土木工学者の助言によって、予防計画を担当する行政機関が必要であると主張した。
この報告を受けて、1843年、都市と人口過密地区の状態を調査する王立委員会(Royal Commission)は、大都市の環境衛生を規制する基本措置の実施を指導監督する権限を中央政府に与えること(保健省の設置)、および各地方における排水、舗装、清掃および十分な上水の供給は単一行政庁の管轄下に置かれることを勧告した。しかし、当面の政治的理由と私有財産不可侵の要請のために、政府側は状況改善を急ごうとはせず改革は遅れた。
その間、全国に都市と町の住民の健康、特に労働者の福祉への関心が次第に増大した。183040年代に指摘された状態を改善しようと、多数の様々なグループが種々の活動を開始した。とりわけ、都市保健協会(the Health of Towns Association)は、都市の実態を周知することにより、公衆衛生改善のための立法を促進する世論を組織化して環境衛生の改善に献身的に働いた。
やがて、政府は、事態の圧力に譲歩せざるを得なくなり、制限された範囲でいくつかの立法措置をとった。1848年のコレラ流行を契機に、5年の有効期間を条件として公衆衛生法(the Public Health Act)が成立し、保健総省(the General Board of Health)が設置され、都市に医務官(medical officer)が任命された。しかし、保健総省の中央集権的傾向は、人々の反発を買うことになった。
1871年に、イングランドの環境衛生行政を研究する王立委員会の勧告を受けて、自治省(Local Government Board)が創設され、すべての保健事業がここに移管され、1875年に、公衆衛生関連法の統合と地方衛生機関の性格の統一化が実現された。こうして、英国の公衆衛生行政は、初めて国家的に整えられる型をとった*32。
国家検疫制度では、政府の保護の下で、しばしば規制もなく、活動の手段・方法が選択されていた。多数の検疫立法によって、感染した国から来る個人・船舶だけでなく、その国全体に対しても、最も野蛮で過剰な措置が許されていた(衛生当局の濫用)。出発港の衛生・疫学的状態に関する主観的判断のために、健康証明書の情報の真偽をめぐって、関係国の商人と衛生当局間に深刻な紛争が生じていた(正確な情報の欠如)。科学的知識が確立されていないために、個々の国だけでなく同じ国の港でも、検疫措置は相当恣意的であった(科学的知識の欠如)。被検疫者は、他の人々から鉄格子で隔離され、検疫所自体は医療施設というよりも牢獄に似ていた(検疫所の不適切な待遇)。検疫料金は、しばしば貨物の35%にまでのぼり、船主に重い負担を負わせていた(莫大な検疫料金)。最後に、19世紀において人・商品・船の移動が活発になるほど、商人・船主・政府の負担は増大していった*33
衛生措置は、単なる不潔の除去ではなく、病気の原因を探るために科学的裏づけがなければならなかった。この措置には、環境を変革するものであるから、強い行政機関の介入が必要とされた。同時に、この変革を支えるために、関係者の意識改革が不可欠であった。したがって、衛生制度を確立するには相当な時間と費用がかかった。
実際に、この条件を備える国は数少なかった。例えば、ドイツがこの衛生措置に本格的に着手するのは、1892年のハンブルクのコレラのときからである。それまでは、コレラは汚染された土地や不道徳な生活態度から生じると考えられ、国家の市民生活への介入も強くなく、環境の改善に対する大衆の運動も生じなかった*34。
他方で、国際的移動が進展するなかで、船舶・港湾では、都市の最も不潔な地区の住民の死亡率よりも、船員の死亡率が高かったのに、当時の衛生措置は、都市・家屋に限定されていた。1849年に保健総省が発行した『検疫措置に関する報告書(Report on Quarantine)』によると、商船の乗組員室の水夫は、地上の穴蔵と同様に、汚く風の通らない地下の住居におり、チフスや他の流行病は、この海を移動する穴蔵で発生していると推察され、嵐のために乗客・移民などが地下の寝室に閉じ込められるときは、何らかの悪疫がほとんど必ず発生しているという*35。このように、都市・家屋だけでなく、船舶・港湾の衛生措置が必要とされていた。
オスマン・トルコとエジプトは、予防措置を実施するうえで、ヨーロッパにはない顕著な特色を持っていた。
オスマン・トルコは、イスラム医学を発展させていたが、19世紀になるとその繁栄も衰えて、衛生状態はヨーロッパのそれよりも酷いものになっていた。その上、トルコは治外法権から外国の船に対して単独で検疫措置を実施することはできなかった。したがって、流行病に対する予防措置を講じるためには、ヨーロッパ諸国の協力が不可欠であった。
1838年、コンスタンチノープルに衛生協議会(Council Sanitaire)と衛生当局が設立された。この協議会にヨーロッパ諸国の領事が参加し、1840年に検疫業務の関する規則が作成された。1844年、協議会には、検疫業務だけでなく、衛生業務に関するすべての点についても議論し、多数決によって決定する権限があると明確に宣言された。こうして、協議会の権限は、港の検疫措置だけでなく、トルコ国内の衛生業務にも及び、1871年、ヨーロッパ諸国との合意によって、衛生制度の基礎を変更するまで、この協議会がトルコの衛生警察、国内の流行病の監督、医師の国内派遣を取り仕切った。
協議会の構成は、8名のトルコ代表と13名の外国代表(英国、フランス、プロシア、イタリア、オーストリア・ハンガリー、ポルトガル、ギリシャ、スペイン、オランダ、ベルギー、スウェーデン・ノルウェー、米国、ペルシャ)からなり、協議会では、多数決がとられた。さらに、協議会の決定に対して、スルタンには拒否権があった。この構成と権限から、協議会はトルコの国内制度といってもおかしくなかった*37。
エジプトも、トルコと同様の理由で、1843年、アレキサンドリアの衛生庁(Intendance sanitaire)を設立し、7名(オーストリア、フランス、英国、ギリシャ、ロシア、サルディニア)の領事を参加させて、検疫協議会を形成した。彼らは諮問権を持つに過ぎなかったが、1855年、検疫問題に限って議決権を持つようになった。
この時期、この衛生庁とは別に、カイロに、エジプトの医療業務をすべて管轄する衛生協議会が存在した。1856年、この協議会が解体されて、衛生庁にその権限が付与された。しかし、それは長続きせず、1857年、再び、カイロに、検疫以外の国内の医療業務をおこなう協議会が設立された。
しかし、2つの協議会の分離によって、これらの機関はしばしば対立したので、1868年、2つの協議会は、アレキサンドリアのエジプト衛生総合庁に統合された。
統合後、庁の検疫協議会は、12名の領事代表(オーストリア、フランス、英国、イタリア、ロシア、ベルギー、ノルウェー、スペイン、ポルトガル、プロシア、スウェーデン・ノルウェー、ギリシャ)、2名の衛生官(英国、フランス)、3名のエジプト代表からなっていた。
もっとも、アレキサンドリア協議会がこの庁の一部になっても、領事代表には、すべての国内問題に介入することは許されず、海路検疫についてのみ議決権が与えられた*38。
全体の構成は、序章、第1部、第2部、第3部、終章からなり、問題ごとに論述していく。
第1部(国際的予防措置の形成)では、国際的予防措置が形成されていく過程を検討する。特に、各国の検疫措置と衛生措置が変化して国際的予防措置になる過程、および衛生行政に国際機関が関与していく過程に着目する。
第1章(統一した原則を基礎とするシステム的な国際的予防措置の形成)では、コレラの世界的流行に曝されて、ヨーロッパを守る国際的予防措置が、病気に曝される危険、国際貿易の発展、国内衛生の整備の程度に応じて、オリエント、南ヨーロッパ、北ヨーロッパと徐々に考案され、やがて統一した原則を基礎とする国際的予防措置ができあがったことを明らかにする。第2章(一般的・客観的基準の確立と協議会の国際化)では、構想された国際的予防措置は厳格すぎ、統一した原則は一般性・客観性にも欠けるために、新しい原則を基礎とする国際的予防措置が確立され、他方で、オリエント諸国の協議会の国際化が会議でもすすめられたことを明らかにする。第3章(各国の予防措置に対する国際機構のシステム的な調整)では、新しい状況に対して既存の国際的予防措置が修正され、各国の予防措置が、いくつかの原則に基づいて、国際機構によって調整されるようになったことを明らかにする。
第2部(国際的予防措置に関与するアクター)では、国際的予防措置の合意形成における各アクターの活躍を考察する。一方で、会議において、専門家および外交官が合意を形成していく過程を、他方で、国際機構が彼らの活動を促進する過程に着目する。
第1章(専門家)では、技術的な会議の下で、専門家が科学的知識を基礎として、実際的な予防措置を考えるようになり、重要な交渉の枠組みが形成されたことを明らかにする。第2章(外交官)では、外交的な会議の下で、外交官が国家主権を克服し、専門家の協力をえて、合意を形成したことを明らかにする。第3章(国際機構)では、衛生会議が硬直化するなかで、様々な国際機構がアクターの活動を促進し、国際組織の構造が変化したことを明らかにする。
第3部(国際的予防措置と各国の関係)では、国際的予防措置と主要な国の関係を考察する。国際的予防措置が、各国の文化触変にどのように作用したのか、他方で、この文化触変が国際的予防措置にどのように作用したかに着目する。
第1章(英国)では、世界の海運国家であり、国際的予防措置の形成に不可欠な英国をみていく。第2章(英国インドと他の英国植民地)では、コレラの風土地帯であり、多数の巡礼者を送り出す英国インド、および衛生会議に発言する機会を持たない植民地を取り上げる。第3章(トルコ)と第4章(エジプト)では、ヨーロッパの防波堤であり、外国代表が参加する協議会をもつトルコとエジプトを検討する。第5章(米国と日本)では、遠方のために独自の予防措置をおこなってきた米国と日本をとりあげる。
*1: N. M. Goodman, International Health Organization and their work, nd ed., Edinburgh: Churchill Livingstone, 971, pp.16-19, p.80.
*2: N. Howard-Jones, The Scientific Background of the International Sanitary Conferences, 8511938, Geneva: World Health Organization, 975, pp.99-100.
*3: R. N. Cooper, International Cooperation in Public Health as a Prologue to Macroeconomic Cooperation, in R. N. Cooper eds., Can Nations Agree?, Washington: Brookings Inst Pr, 989, p.180, pp.244-245.
*4: C. Schepin, W. Yermakov, eds., International Quarantine, Madison: International Universities Press, 991, p.122, p.132, pp.171-172, p.181.
*5: S. Carvalho and M. Zacher, The International Health Regulations in Historical Perspective, in A. T. PriceSmith eds., Plagues and Politics Infectious Disease and International Policy, New York: Palgrave, 001, pp.255-256.
*6: アマルティア・セン(池本幸生、野上裕生、佐藤仁訳)『不平等の再検討―潜在能力と自由』岩波書店、1999年、54頁。
*7: 国連開発計画『人間開発報告書』国際協力出版会、1994年、22-23頁。
*8: R. O. Keohane and J. S. Nye, Power and Interdependence, Boston: Little, Brown and Company, 977, pp.24-29.
*9: R. O. Keohane, After Hegemony, Princeton: Princeton University Press, 984, p.57.
*10: E. B. Hass, Why Collaborate?: IssueLinkage and International Regime, World Politics, 980, pp.379-385.
*11: A. Hurrell, International society and the study of regimes: a reflective approach in V. Rittberger ed., Regime Theory and International Relations, Oxford: Oxford University Press, 993, pp.58-73.
*12: E. B. Hass, The Uniting Europe, Stanford: Stanford University Press, 958, pp.13-14.
*13: E. B. Hass, 980, op. cit., p.397, pp.404-405.
*14: E. B. Hass, When Knowledge Is Power, Berkeley: University of California Press, 990, p.14, pp.92-96.
*15: D. Mitrany, A Working Peace System, Chicago: Quadrangle Books, 966, pp.54-78.
*16: 平野健一郎『国際文化論』東京大学出版会、2000年、116頁、187頁。
*17: 人間が皮下にペスト菌がもちこまれると、1日から6日くらいの潜伏期を経た後、発病する。3941℃前後の高熱が続き、頭痛・悪寒が始まり、眩暈・随意筋麻痺がおこり、脈拍が弱くなり、強度の虚脱、精神錯乱となる。やがて、腋の下や股の付け根などのリンパ腺に腫脹がおこり、この腫脹は破れ化膿し、皮膚が乾き、黒紫色の大きな斑点ができ、やがて死に至る。これが流行の初期に現われる腺ペストである。流行が長引くと、血液中に入った菌が肺に達し、そこで増殖し、血痰・喀血を伴う肺ペストを起こす。これが腺ペストから続発する二次的肺ペストであるが、さらに飛沫感染によって人から人に菌が感染し、発病することもある。これは人の病気中の中で最も致命率が高い。普通、死亡する場合は3日ないし5日目で、死亡率は腺ペストで5070%、肺ペストはほとんど100%である。今日では血清療法・抗生物質が開発されて、治療率は80-100%といわれる(バーネット(新井浩訳)『伝染病の生態学』紀伊國屋書店、1966年、268頁、271頁、274頁)。
*18: C. Schepin and W. Yermakov, op. cit., pp.2-4, p.30.
*19: この蚊は、主として家の中に見られるもので、吸血後は家から出て行くことはほとんどない。蚊が感染するのは発熱後3-4日以内の患者の血液を吸った場合であり、伝染力を持つようになるまでには約10日間の潜伏期がある。患者の血液中にウイルスが存在する期間が短いために、黄熱病は、長い間病気の全くない時期の後に、突然流行が始まる。感染した蚊に刺されると、ウイルスが血液中に侵入し、血液を介して全身に広がる。好んで増殖する場所は肝臓で、これが障害されることによって黄疸が起こり、このために「黄熱」という名がつけられた。もしその患者が回復するものであれば、発熱後3、4日のうちに抗体があらわれる。この抗体は、はじめのうちは血液中のウイルスを除くには不十分であるが、その血液を吸った蚊から感染を防ぐには十分な量である。患者が完全に回復すると、血液中には大量の抗体が出現し、それは非常にゆっくりと減少しながら、ほぼ一生涯にわたって存続する。この病気は蚊の退治と予防接種によって予防されている(バーネット, 掲書、94頁、146頁、292頁。)。
*20: 同前書、 p.291.
*21: C. Schepin and W. Yermakov, op. cit., pp.4-6, p.30.
*22: コレラ菌は、普通、飲食物を介して人の口に入る。口から侵入したコレラ菌は胃を通過すると小腸の中で増殖を開始、それが大腸に送りこまれ、異常に増殖する。腸内常在菌でこれに対抗できるものはない。このビブリオによって生み出された一種の内毒素が長官壁の粘膜細胞にある種の傷害作用を及ぼし、それが激しい下痢を引き起こす。さらに腸管からのナトリウム再吸収が不能となり、細胞内の水が腸管腔内に排出され、いわゆる脱水症状を起こす。こうした水分欠乏が進行すると体力が急速に消耗し、血行が傷害され、血圧が低下し、脈拍が減弱し、虚脱状態から死に至る。放置しておけば約75%の致命率となる。今日、コレラワクチンなどによる予防・治療法が進歩し、施設の良い所であれば致命率12%に過ぎない。しかし、今日でも、伝染経路の巧妙さと伝染速度の迅速さが脅威の原因となっている(バーネット、前掲書、275-276頁。)。
*23: C. Schepin and W. Yermakov, op. cit., pp.29-35.
*24: ジョージ・ローゼン(小栗史郎訳)『公衆衛性の歴史』第一出版株式会社、1973年、66-67頁、205頁。
*25: 同前書、68頁、203-204頁。もっとも、学説と予防措置の関係は必然的なものではなく、英国は、伝染説から衛生措置を導き出した。第3部第1章第2節参照。
*26: N. M. Goodman, op. cit., pp.27-31.
*27: D. Panzac, Quarantines et lazaretes: l'Europe et la peste d'Orient, Aix-en-Provence: Edisud, 986, p.62, p.67.
*28: N. M. Goodman, op. cit., p.31.
*29: オリエントから直接来る船が寄港できるのは、検疫所のある特定の港(マルセイユ、ツーロン、マルタ、ジェノア、ヴェニス、トリエステ、ラグーサ、メッシナ、アンコナ、リボルノ、バレンシア、バルセロナ、カディス、ジブラルタル)に限られていた(D. Panzac, 986, op. cit., p.80.)。
*30: Ibid., p.36.
*31: G. E. Rothenberg, The Austrian Sanitary Cordon and the Control of the Bubonic Plague:1710-1871, Journal of the History of Medicine: January, 973, p.17.
*32: ジョージ・ローゼン、前掲書、157-159頁、161-162頁、167-168頁。
*33: C. Schepin and W. Yermakov, op. cit., pp.24-27.
*34: R. J. Evans, Death in Hamburg, England: Penguin Books, 987, pp.226-256.
*35: General Board of Health, Report on Quarantine, London: H. M. S. O, 849, pp.86-87.
*36: この他にも、ペルシャではテヘラン協議会、モロッコではタンジール協議会が存在した。しかし、テヘラン協議会は1867年から存在したが、ほとんどペルシャの制度であり、多数のペルシャの医師からなり、資金も少なく、会合もまれだった。1904年にシャーによって改革され、ヨーロッパの医師も参加するようになった。これに対して、タンジール協議会は、外国の代表によってのみ構成されていたが、十分機能していなかった(N. M. Goodman, op. cit., pp.322-325.)。
*37: A. Proust, La dfense de l'europe contre le cholra, Paris: G. Masson, diteur, 892, pp346-347, p.349, p.352.
*38: Ibid., pp.380-382.
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