この論集は、二つの企画が融合して成り立ったものである。一つは、武者小路公秀先生を囲む会(通称: 武者研)という、ここ数年来不定期ではあるが継続的に研究会をもって、実に濃い交流をしている、政治学を基調とする研究者の緩やかでノマディックな集まりの、一種物騒なメモワールの作成という企画である。今ひとつは、その囲む会の形成を呼びかけて、武者小路先生と若い世代の研究者たちとの繋がりに尽力されてきた佐藤幸男先生の還暦を言祝ぐ何かという企画……である。
実は、前者の企画は十分に物騒なものになりきれそうになかった。世界政治をめぐる武者小路先生のラディカルで戦略的な思考に同伴者たらんとするには、やはりある程度、見るべきほどのことは見つ、といった達観が必要とされ、船脚の遅いわれわれに未だ一定の「秩序ある艦隊行動」をとることが難しかったのである。後者は、幸運なことに佐藤幸男先生のクロノスと事態のカイロスとが絶妙のタイミングで交錯して、エイレーネーを含むホーライの如き様相でこの一書に実を結ぶことになった。
思考する実存として、多少なりともエヴァの林檎のような学問を齧ってしまったわれわれが、「世界政治を思想する」には、十分な「試走」が必要である。日本の高等教育機関でそれは「国際政治学」や「国際関係論」などと呼ばれてきたものは、おそらくそれに当たるだろう。
なぜ「世界政治」なのか。それを考えるために現在、「試走」としての「国際関係論」が直面している問題が何であるかを、ここでまず垣間見ておくことにしよう。
われわれが相対化しようとしている「国際関係論」は、これまでとりわけ社会科学の一部として位置づけられてきた、国際関係論も他の学問分野の例に漏れず、内部での「細分化」と「脱政治化」が進んできた。これは決して無視することのできない深刻な問題である。というのも、一方で、学問の組織化が進んできたことで、社会科学が抱えている根本問題に真正面から取り組む研究はめっきり影を潜め、他方で、グローバル化がますます進展してわれわれの生活に直接関わるような世界的出来事が増えてきているにもかかわらず、やはりわれわれの「生」に引きつけて語る学問を見つけることは難しくなってきているからである。そしてわれわれは、ネオリベ的発想で能天気に進行する、ノウハウやテクニックの向上、さらには資格につながる学問といったものの台頭を日々目撃せざるをえないわけである。考えることへの重力を剥ぎ取った果てに、「思想すること」が根源的な生の意味を問う地平に繋がらない空虚に漂うようになってしまったのである。
もはや、日本の大学は、生の意味を問い直す教養を育む使命を半ば放棄して、職業訓練校への道を辿るように飼い馴らされてしまっているようにすら見える。しかし、それでもわれわれは生体を維持していかなければならない。生きること=思想すること、を離れて単なる生体維持に向かうこともできるところが哀しいのであるが、そうこうしているうちに、「生きる意味」をいつのまにか喪失していくことになってしまうだろう。
本書は、そうした喪失に陥る前に提供される一種のサヴァイヴァル・キットであるといえる。その意味において、真相の教科書でありたい。
本書はまた、国際関係論にある無数にある論点の中で、いかにしてそれらをさらに深く掘り下げるのか、その作法・構えを自らに示すためのワークブックでもありたい。われわれが共有する姿勢とは、「人々が自明であると思い込んでいることを一から問い直さなければならない」(芝崎)面倒臭さを厭わない点であろう。
学問の「細分化」と「脱政治化」に抗して、例えばわれわれは第I巻では「国際関係理論」(南山、芝崎)を、「開発」(佐藤・峯田)を、「政治理論」(五野井)を、「日本の思想」(土佐)を、「表象」(野崎)を、「宗教」(鈴木)を、「都市」(前田)を、第II巻では「収容所」(北川)を、「労働」(大貫)を、「送金」(櫻井)を、「コーヒー」(妹尾)を、「ジェンダー」(和田)を、「平和構築」(鶴見)を、「海域島嶼」(佐藤)を、掛け金としてあえて掘り起こし、「政治問題化」し、無味乾燥な記号であったものに、言の葉の生の息を吹き込んでいる。
なお、本書は各章が有機的に連動しているが、一応の整理のためにI、IIの二巻四部構成としている(第一部と第二部が第I巻。第三部と第四部が第II巻。)。第一部は既存理論の検証(「世界政治における様々な潮流:国際政治理論を越えて」)、第二部は「世界政治における文化的次元」、第三部は「グローバリゼーション時代の時間/空間の再編成」、そして第四部は「世界政治と平和」である。この四部で構成された柱に、それぞれのテーマが吸い寄せられるようにまとめられている。
まず第一部では、これまでの国際政治理論の越え方をそれぞれに提示している。
その手始めとして、第1章の南山論文は「国際政治理論」就中リアリズムに向けて語っている。1980年代に国際政治学は国家中心主義であるとして批判されて久しいが、国際政治理論は「国家と脱国家の往還運動」を繰り返す歴史をもつ、といっても過言ではないだろう。他方で、この問題とは別のラインで1990年前後に、コンストラクティヴィズム(社会構築主義)の理論化がはじまる。そこでは、そもそも「世界と個人はどのような関係におかれているのか」という問題が、社会理論における構造-主体関係の議論を利用しつつ応用発展された。例えばアレクサンダー・ウェントの場合、行き着いたのはこのコンストラクティヴィズムの方法論を用いながら、国家がどのようなアイデンティティを持つようになるのか、という議論だった。そこで彼は「観念」を「権力」とは別物として扱い、国家はその観念の内容を時代とともに取り替えていくという議論を展開する。しかし、国家のアイデンティティはそうした安定的でとってつけたような代物ではない。南山論文はこれをジャック・ラカンの精神分析を利用することで説明している。まず、幼児が鏡を見て自分の姿を完全に把握しようとするが左右逆転であることからそれが必ず失敗するという不安定期を経過した後、できないはずの自己の鏡像への同一化をみずからの「想像界」を通して実現する。しかしその後、媒介項としての他者が登場し、他者との相互作用の中から「象徴界」へと移行していく。しかし、象徴界の構造的不安定性を回避するために、客観的な参照点として(「現実的なるもの」を欲望する。ただし、これはわれわれの考える「現実」ではなく、そうした現実を完全に知りうるなど不可能であるという立場をとっている。そして、現実界とは、あくまで想像界と象徴界の外部に位置する表象不可能なトラウマでしかなく、それに遭遇しても、主体はその後また象徴界と想像界との間を不安定に移動することとなる。こうした主体内部で起こっている往還運動が、国際政治を展開する国家の内部で展開されているとすればどのような主体イメージが描かれるだろうか。そこでは極めて不安定な主体が立ち現れていることがわかるだろう。というのも、主権とは常に欠如した主体なのだから。
次に、第2章の芝崎論文は、国際政治ではあまりに有名になったジョセフ・ナイの「ソフト・パワー」論を一から検証している。そこでは「ソフト・パワー」という言葉を使うが意図する内容は異なる場合を「同床異夢」、逆に言葉は異なるが意図する内容が同じ場合を「異床同夢」とする。加えて、その言葉をイメージに置き換えて同じ作業を行っている。その上で、芝崎はなぜここまで「ソフト・パワー」という言葉が普及したのかについて「カセット効果」という概念を使って考察を進めている。その言葉自体が専門用語であり、日常ではほとんど使用しないが、学問の世界では使用は不可避となる(日本語に翻訳される際、カタカナ表記となりやすい)。こうした機能を持つ言葉を「カセット効果」をもつ言葉としているが、そうした用語は濫用されやすいという。こうした分析を展開するのも、芝崎が「国際文化現象」とは言葉とイメージの関係であると考えているからだ。この視点は重要である。なぜなら、世界政治はこの「言葉とイメージ」の一致とズレをめぐって展開されているからであり、往々にしてそのズレが紛争を生むことがありうるからだ(この点について、言説の一致/不一致をめぐる争いの問題は6章(野崎)とも通底する。両者の比較通読を薦めたい)。
「思想する」とは、つまり「「同床異夢」や「異床同夢」の「床」に幻惑されることから逃れて、「夢」の側を問わねばらならない」(芝崎)ということなのかもしれない。この点、「平和」という概念がまさに濫用されていく様を描いた14章(鶴見)は、芝崎が提起した問題の具体例として読み解くことができる。他方で、5章(土佐)で西田幾多郎が「ヘーゲル的歴史哲学を乗り越えようとして、逆にヘーゲル的罠に嵌っ」たという指摘は、芝崎の論点との関係でいえば、「同床異夢」あわよくば「異床異夢」を目指したが、結局「同床同夢」もしくは「異床同夢」になった例としても読めないだろうか。
第3章の佐藤・峯田論文では、国際政治理論との関係でかつて構造主義として紹介された従属論・世界システム論をより文化的方向に引きつけながら再検証している。ここでは植民地主義の問題とネグリ&ハートの〈帝国〉的な視点との関係や、ドゥルーズ&ガタリの『千のプラトー』における資本主義と戦争の関係の中に第三世界を位置づけるなど、新たな問題設定に取り組んでいる。しかもここではかつての南北問題が「経済的格差の総称」の問題として矮小化されていたことを問題の俎上に載せ、まずは南北という二分法が強烈な空間的イメージを人々の脳裏に刻印し、第三世界を未知なる他者と措定してしまうことの問題を指摘している。さらに、こうした問題はそもそも「近代」自体が孕んでいる進歩思想や二項対立思想のもつ暴力性にまでさかのぼることが可能であり、その意味で第3章はメタレベルでの西洋近代批判を企図しているといえよう。というのも、ここでの基本的姿勢が、近代諸体系の生み出した「理念」や「記号」の衣によっては、「生々しい人間の直接的な生活経験の世界」(佐藤)は絶対に捉えられないという存在論に依拠しているからである。そして、その構えは例えば、4章の歓待を論じるくだり(五野井)と問題関心を同じくしているし、また5章の日本の「近代の超克」プロジェクトの失敗を精査する土佐論文とも通底する。そして近代が「植民地化される以前の社会構造を完璧に打ち壊してきた」(佐藤)点を問題化する姿勢は、帝国主義とキリスト教の関係を糸口に宗教の意味を根源的に問い直そうとする7章(鈴木)に直結してくる。いずれにせよ南北問題の組み換えというテーマは、アプローチは様々だが、ポストコロニアリズムとも関わる4章(五野井)、5章(土佐)、7章(鈴木)、8章(前田)、9章(大貫)、10章(櫻井)、11章(北川)、最終章(佐藤)の各章を貫いており、3章がひとつのメルクマールになっているといえる。
次に第4章の五野井論文では、なぜ、世界はこうも不平等に満ちているのだろうか、という問題提起を導きの糸として、その非対称性の改善は特定の国籍を持って特定の国のなかでなされるべし、という回答に対してあえて疑問符をつけ、コスモポリタニズムの可能性と「その先」を論じている。その中で、コスモポリタン・シティズンシップの検証をする場面で、先進国のエリートや実践を標榜する学者らによる抽象的な語りの競合が、結果的に見据えるべき人々を不可視化してしまうことに警鐘を鳴らす。力ある議論を戦わせる強者同士の格闘の後ろで取り残され、何重にも排除された人々と向き合うにはどうすればよいのか、と問いかけるのだ。ナショナリズムかコスモポリタニズムかの抽象的な二分法、さらにはコスモポリタニズム内部での抽象的遊戯の「思考/嗜好」を全部ひっくり返す、そんな構えが必要なのだろう。つまり、われわれは五野井論文が「ないものねだり」な「思考実験」――これを五野井は「コスモポリタニズムの裏側」と表現しているが、さしあたり「裏コスモポリタニズム」とでも呼んでみようか――に向き合う必要があるのではないだろうか。すなわち、コスモポリタニズムは会議室で起きているのではない、現場で起きているのだ、と。国際関係思想という分野にコミットする際に、気を抜けば一瞬にして陥ってしまう抽象的で「凡庸なフラットさ」(五野井)を払拭しなければ、思想は命を吹き込まれるどころか、即刻、死を宣告される。
われわれがコミットする学問対象を「国際関係論」と呼ばず「世界政治学」と呼ぶ理由はそこにある。国際関係論では光が当たるどころか無視されている人々の日常生活に目を向けて「思想する」というテーマは、例えば南北問題を扱う3章(佐藤・峯田)、表象を扱う6章(野崎)、宗教を扱う7章(鈴木)、移民を扱う8章(前田)・9章(大貫)・10章(櫻井)・11章(北川)、海域島嶼を扱う最終章(佐藤)とも連動しており、交互に読むことで不可視化されている問題群を可視化するための新しい地平を拓くことができるだろう。
次に第二部では、人々の思考をつかさどっている文化的次元を通した世界政治の読み解き方がそれぞれに開示されている。
第5章の土佐論文では、かつて日本が構想した「近代の超克」プロジェクトとしての汎アジア主義を詳細に検討している。ここでの射程は、明らかに現代へと逆照射されている。なぜなら、乗り越えようとした西洋近代が今日も依然として生き残っており、その課題は残されたままであるからだ。その中で、当初その思想をヘーゲル的オリエンタリズムに対抗して構想した京都学派は、国家も帝国も否定した水平的広域圏としての政治的共同体を目指していたが、結局、日本は西洋的な帝国主義・国家主義が内在する「覇道」と競合する中で、力には力で対抗するという帰結を生み出したと論じている。ここから土佐が、現代ネオリベラリズムの問題を眼差すとき、このアジア地域主義という問題が今日にも連続する地平を提供しているという認識が読み取れる。5章は、問題が極めて根深く、一朝一夕に片付くような問題ではないということを覚知させてくれる。
かつてのあまりに悲惨な日本の経験を踏まえて土佐は、近代を超克できるとすれば、スピヴァクを引きながら「批判的地域主義」という形になると示唆している。つまるところ、「「ナショナルなもの」を超えるのに、「ナショナルなもの」を軸に対抗しても、同じ問題を再生産するだけ」(土佐)なのであり、この場面では「ナショナリズム」を戦略的本質主義として称揚するという方向性はまったく有効ではないのだ。二項対立の罠に陥らない方向で、「近代」そのものに肩透かしを食らわせるような、そんな非暴力で、共感的で、創造的な構想力が今こそ要求されているのではないだろうか。「批判的地域主義」というとき、例えば、「「ナショナルなもの」で囲い込まれないようにしながら、「社会的なもの」を守るために地域を軸に連帯していくトランスナショナルなネットワークの思想・運動」というものを挙げている。これは、4章(五野井)のラディカルな裏コスモポリタニズムの可能性とも通底する。なぜなら、土佐が指摘している、西洋近代との関係で「覇道と覇道」、「力と力」の戦いへと堕した日本の汎アジア主義の失敗が、五野井の問いかけるマスター・ナラティブに対するカウンター・ナラティブという構図の典型的な失敗例が京都学派だからだ。こうした二項対立でない文化のあり方の模索という意味では、7章(鈴木)で提示している西欧近代とイスラーム世界の融合としてのヨーロピアン・ムスリムは注目すべき営みである。さらに草の根ネットワークという意味では、5章は人の移動との関係で文化研究的アプローチの8章(前田)や政治経済学的アプローチの10章(櫻井)とも連動し、さらには群島論的世界を描いた最終章(佐藤)とも通底する。収容所が世界中のいたるところに散らばっているということを思い描くことで、逆に対抗的なネットワークの作動のためにその問題を備給させるという意味では11章(北川)も参照可能だろう。
第6章で、「表象」に焦点を当て、その事例として1989年におきたリビア空軍機撃墜事件を取り上げているのが野崎論文である。国際政治においても、世界政治においても、「言説」の問題が大きなアジェンダになりつつある中で、「出来事についての語りの現れ方」に野崎は注目する。「表象」は、「私たちの認識に働きかけ、解釈を一定の方向に誘導する」(野崎)よう作動するという意味であなどれない。いやむしろ、権力を作動させる掛け金として「表象」は、中心にすえて取り組むべきテーマだといっておこう。それはもちろん、メディア報道や映画、映像、写真、それらに付随する解釈や論評にいたるまで、対象とする射程は広い。「表象」の問題をあえて軍事問題とカップリングすることで、国際政治はマッチョな「力」(strength)以上に、〈事実〉の確定をめぐる「表象」を通した「権力」(power)の作動にこそ依拠しているということ、ひいてはその「表象」の精査にはだれしもが批判的にコミットできるということを、われわれに想起させてくれる。しかし他方で野崎は、表象への過度の期待に陥ることの危険性と、批判的にコミットできない勢力の存在という問題への目配りも忘れてはいない。とくに後者については、今日のメディアの劇場化の問題に引きつけながら、若者を中心とした「政治のサブカル化、サブカル国家化」がなぜ起きているのかについての考察へとつながっている。
野崎論文の問題構成の斬新さは、事例選択の時点で「国際政治(=ハイ・ポリティックス)」を選びながら、そこでの批判的検証という姿勢がもつ問題点を紐解きながら、今度はその視点を、今日の日本において「空虚な表象」に踊らされているネット右翼の問題へと展開し、見事に「日常生活と世界政治」という問題系へとわれわれを誘っている点である。つまり、一見遠くで起きている出来事のように見える「国際政治」が日常生活にがっちりと組み込まれているという意味で、われわれのあまりに身近すぎる問題へと転換しているということを示しているのだ。国際政治の世界政治化に向き合うときがきているのだろう。野崎論文は国家アイデンティティの脆弱性という観点でいえば1章(南山)と連動するだろうし、同じ表象をめぐって異なる解釈が飛び交うという意味では「同床異夢」を論じた2章(芝崎)とも関わってくるし、ネット右翼がアジア諸国を叩くという観点からは、かつての京都学派が汎アジア主義の問題を論じた5章(土佐)と連動させた読解が可能だろう。
第7章の鈴木論文は西欧近代と宗教の共犯関係を根源的なレベルから問い直そうとしている。重要な論点として、非西欧地域に「キリスト教を受容させる」ということが含意していたのは、国家などのその他の西欧近代を成り立たせている諸々の装置の受容に対して、「物分りのよい」相手に仕立て上げるという意味が伴っていたということだ。鈴木は、M.ゴーシェに拠りながら、キリスト教が「「宗教からの離脱」を教えに行く」宗教であったと指摘している。この観点に従って、植民地支配が猛威を振るった19世紀の国際政治という視点から捉え返せば、宗教的なるものをその土俵から排除するためには、非政治的領域へのキリスト教の浸透が成功するかどうかにかかっていたということになる。そして、宗教に「政治経済の残余」という意味があるとすれば、それこそ西欧近代がうまく機能している証左となるが、しかし鈴木論文が示しているように、21世紀に入り現実の出来事は、ラディカルな意味で政治化された〈宗教〉の問題であふれかえっているのだ。
それは一つには、ある意味で西欧近代が世界中の隅々に浸入しており、グローバル化による情報の拡散がその浸入をさらに加速させ、それに対する抵抗があちこちで起きているということが理由としてあげられるだろう(もしくは人によっては「豊かさ」を手に入れたいが、手にいれることができないことへの爆発も含まれるかもしれない)。また抵抗が頻発するということは、それだけ西欧近代を以前よりも近くに感じるからだといってもいいだろう。ここで明らかなのは、現代の世界政治において重要なテーマの一つが、「アイデンティティをめぐる政治」だということである。その意味で、情報として浮遊する日々の出来事に対して一喜一憂して感情を爆発させる行為を分析している6章(野崎)の表象の問題系とも密接に連関しているというべきだろう。もちろん植民地主義との関連で、西欧近代そのものを議論の中心に据えているという意味で、3章(佐藤・峯田)、5章(土佐)、最終章(佐藤)と相互参照が可能なのはいうまでもない。さらに、鈴木論文の中で取り上げられていたアイデンティティの「〈雑種混交性〉hybridity」の具体的な現れについて、考察していくことが重要になってくるだろう。言い換えれば、それは理想としてのアイデンティティとそれへの執着から生ずるアイデンティフィケーションが争いをうみだす一方で、日常生活の場面で調和をとって生活する人々がいかにして多様なアイデンティティを自己の内面に並存させているかということにも注目することの重要性である。それは続く8章(前田)のグローバル都市ロンドンで生活する労働者のアイデンティティ形成の物語を参照することが、この雑種混交的アイデンティティへのヒントになるだろうし、また国連の平和維持活動に参加する要員のアイデンティティの分析を綿密におこなっている13章(和田)の議論の中にも求めることができる。
第8章の論文の構成(仕掛け)は、「グローバルなフロー」と「人の統治」と「人びとの抵抗戦術」という三つの問題系を一つの舞台に連動させる形となっている。まず前田はグローバリゼィションによって国際関係は、「領土と領土の関係」がベースになっているのではなく、「フローとフローの間に領土が挟まれた関係」として捉えられるということ(T-F-T'からF-T-F'への認識の転換; T=領土、F=フロー)を確認する。その上で、このフロー時代の統治性のあり方として移民の受入れ側であるイギリスの選択的移民政策の問題と、移民の送出し側の戦略との交錯という二重の「統治性」問題という論点を差し込む。しかしその趨勢と一致したり、また出し抜いたりするような庶民の知恵(=抵抗戦術)を見るために、ミシェル・ド・セルトーを引き合いに出しながら、逞しく生きる労働者たちのたち所作を開陳している。この8章は、公共圏/親密圏の異種混交性を扱っており、裏コスモポリタニズム的観点から4章(五野井)と親和性をもつし、ソフトなアイデンティティの問題、とりわけヨーロッパ・イスラームというアイデンティティに目を配る7章(鈴木)とも親和性をもっている。またミシェル・フーコーの「統治性」の問題と絡めているという点で13章(和田)とも接合している。他方で、8章はフロー時代の南北問題をドゥルーズ・ガタリの視点から捉えなおそうとしている点で3章(佐藤・峯田)、最終章(佐藤)と蝶番の関係をもっている。しかも、グローバリゼィション時代の移住労働者の生活に焦点をあてているという意味で、第3部の「グローバルな時間/空間の再編成」の問題系の中で扱われている9章(大貫)、10章(櫻井)、11章(北川)への橋渡し的な位置にあるといえる。
第II巻、第三部ではグローバリゼィションとともに起きている時間/空間の変容と、それを認識するわれわれの知覚のダイナミックな再編成を扱っている。
第9章の大貫論文では、ネオ・グラムシ派のアプローチを使った、「グローバル政治経済学」の視角とその限界を踏まえた上で、フィリピンの移住労働者の日常生活に光をあてている。一つの軸は、国際政治理論の分野で語られていた「構造-主体問題」へどのように回答するのかというところから議論は始まる。この点、ロバート・W・コックスはかつて「観念、制度、物質的な能力」という3つの視点を、「生産の社会関係、国家形態、世界秩序」の弁証法の中に位置づけ、それらが歴史的ブロックを形成するとしているのだが、このツール・セットを、トランスナショナルな管理階級の問題に矮小化することで見えなくなる主体の問題を救い出そうとしているのが本章である。
ここでの海外移住労働者へのフォーカスは、アンリ・ルフェーブルの資本の空間に対置される「生きられる空間」を通しておこなわれているが、その中でも労働時間からみる日常的抵抗、余暇時間の主体的利用といった点を掘り下げて、その可能性について論じている。この章は、例えばマクロな南北問題という枠組みを下から検証しているという意味で3章(佐藤・峯田)と連動しており、またミクロには家事労働の商品化という視点の共有という点からは統治と文化研究に力点を置いている8章(前田)とも接合可能であるし、またその家事労働者とグローバル経済との関係を「送金経済」という観点から捉えなおせば10章(櫻井)と連動してくる。さらにフェミニズムの問題として男/女の権力関係の問題として考えれば、もちろん11章(和田)とつながってくる。
次に第10章では、とくに政治経済学という視点をベースに、「移民による送金と開発」というテーマを扱っている。近年、グローバリゼィションとの関係で海外送金経済の規模が膨らんできたことから、にわかにこの問題の重要性が認知され始めているのだが、櫻井論文はここにいたるまでの19世紀型、20世紀型グローバリゼィションの道程から説き起こし、「移民と送金」の問題をこうした構造的な関係性の中に位置づけている。その際、もちろん生産の国際化との関係で労働市場も国際化したことで人の移動も活発になってきたという視点を保っているわけだが、こうした経済的視点だけでなく、安全保障の論点とも密接に関係しているという点を強調することにも注意を怠っていない。それは例えば組織犯罪マネーロンダリングと送金経済というトピックであったり、テロ資金規制との関係であったりするのだが、このことから伝統的に古くから使用されていたインフォーマルな送金の検討が始まる。なお10章はグローバルな移住労働者、また「移民の女性化」現象といった問題系を意識するならば8章(前田)や9章(大貫)がまさに表裏の関係として位置づけられる。他方で、移動という行為の結果、送金経済に従事できる人々と従事できずに収容所に入れられる人々という絶望的なまでの非対称性について考察するためには11章(北川)との比較通読を通した考察がなされるべきだろう。そして、ネットワークというテーマについていえば、「送金」というマテリアルな事実を通して、「家族その他の社会的ネットワーク」について考える契機ともなり、それが3章(佐藤・峯田)や最終章(佐藤)で語られているネットワーク、5章(土佐)で扱っていた「批判的地域主義」の足がかりとしてもよい素材を提供しているといえる。他方で、イスラーム金融という意味ではもちろん7章(鈴木)ともあわせて考える必要があるだろう。
第11章は、読者に語りかけるようなトーンで「収容所(Camp)」について考察している。国際関係論ではグローバル・ガバナンスについてこれまで散々語られてきたにもかかわらず、集合としての人々(もしくは人口)の統治の問題は一部を除いて、ほとんど無視されてきたといってよい。まして「収容所」の持つ意味などは、グローバル・ガバナンスとの関係でいえば、予め排除されたテーマであった。まれに難民や移民をテーマとする場合に論じられることはあっても、その思想的意味についての深い考察はほとんど登場してこなかった。その意味で、北川の「収容所は、近代のグローバルな秩序化が、いつも自らのうちに孕んできた空間なのである」というメッセージは根源的で衝撃的だ。というのも、それは近代そのものが生み出す秩序と、それを脅かすあらゆる試みを封じ込める空間として「収容所」が立ち現れると主張しているからである。
第11章の構成は、前半で主権国家が作り出す法秩序の例外として登場する「収容所」についてアガンベンを引き合いに出しながら論じているが、それではグアンタナモのようなグローバル化時代の収容所については説明できないとして、後半へとシフトしていく。後半は「収容所」の起源を、むしろ宙吊りにすべき通常の法なるものがそもそもなかった無法地帯である植民地に求めつつ、そこを超えてくる危険な存在が立ち現れたときに、ヨーロッパ主権国家秩序総体が「収容所」を用意するという点に注目する。カール・シュミットの考えるヨーロッパ公法という空間の狭隘さには、それなりの理由があるということをこの「収容所」の問題系は物語っている。もはや明らかなのは、ポストコロニアリズムからみる「収容所」という暴力装置が、「主権国家」ひいては「近代そのもの」までを根源的に批判しているという点であり、それは3章(佐藤・峯田)、4章(五野井)、5章(土佐)、7章(鈴木)、最終章(佐藤)の各論点を補完している。しかもその補完は斬新な地理的接近方法を通してであり、言い換えれば「中心による周辺の支配と収奪」(3章、佐藤・峯田)という問題を、今度は「周辺による中心への侵犯と奪還」という視点で捉え返しており、その構えは7章(鈴木)、8章(前田)、9章(大貫)のメッセージと親和性をもっているといえる。
人の移動は必ず起こる。そして世界の中心(nodes)を縦断していく人々を「冬虫夏草」と呼ぼうと考える、そんなところまで、このあたりの相互参照される各章の論者は問題意識を共通しているのだ。なお、北川はイタリア思想に造詣が深い点でもユニークだが、そうしたイタリア現代思想と生権力論・統治性論との突き合わせをおこなっているという意味では、フーコー的視点を共有している8章(前田)、13章(和田)とも深く関係している。
最後に第四部では世界政治のダイナミックな再編成の中で平和のあり方を多角的に論じている。
第12章の妹尾論文は、国際政治経済学的手法で「農業」と「税」と「平和構築」をつなげつつ、一次産品(ここではコーヒー豆)の生産とその収益の安定が、国家を支え、平和を構築すると論じている。そして2種類のコーヒー豆(アラビカ種とロブスタ種)の国際価格を見据えながら、1989年以降二度にわたって、主たる輸出品の実質価格が崩壊した理由を探りつつ、ロブスタ種を大量生産するベトナムとアラビカ種の増産に成功したブラジルの存在が大きく、そのこともあいまって、アフリカの平和構築をコーヒー豆生産で行うことの困難が多角的に検証されている。この12章ではコーヒー豆という具体的で私たちの日常生活の中に存在している「商品」を素材に、国際価格の崩壊-国家-税-平和構築というキーワードを見事につなげている。世界政治論とは、スケールが世界大である以上に、ローカルからグローバルまでのレベルをせりあがっては、降りていくようなダイナミックな議論であることをここでは感じさせてくれる。それは単にモデルを作ってみただけの遊戯としての学ではなく、思考し、因果関係をつまびらかにしようとしているという意味では、スーザン・ストレンジの系譜の国際政治経済学であることが確認できる。
また、他章との関係でいえば、主要輸出品の実質価格が6~7割も下がれば、その専業に従事して働く人間が仕事をやめ、移動を始める要因になるかもしれないと考えると、まずは農村から都市へ移動し、極端な場合アフリカからヨーロッパへ移動するかもしれない。そうなると8章(前田)、9章(大貫)、10章(櫻井)、11章(北川)との関係が見えてくる。つまり、人々は、国際価格の崩壊ということが引き金となって、カール・ポランニーでいうところの擬制商品としての労働から解き放たれ、移動を通して「秩序」を脅かす存在になるとき、それを国家は恐れるということを想起させるのである。もうひとつは、現在コーヒー豆もブランド化戦略を世界各地でおこなっているという指摘があり、それを「コーヒーのワイン化」と呼んでいる。この現象は、純粋に経済学でいうところの商品の差別化(不完全競争や独占的競争の問題)の話だけでなく、言葉やイメージを通したラベリングの問題にもなってくる。つまり、消費のスペクタクルの問題系(ギィ・ドゥボール)としても捉え返すべき論点であり、その意味では言葉の濫用に関して論じている2章(芝崎)、多様な表象の錯綜について論じている6章(野崎)と問題がつながってくる。つまり、政治経済学と現代思想との接点がそこには秘められているということだ。
第13章は、平和構築の問題をジェンダーの視点から扱った和田論文である。2000年10月に採択された国連安保理決議1325は、ジェンダー訓練のプログラム化に向けたガイドラインの提供や財政および技術支援を関係各国に要請した(PKOのジェンダー主流化)。その背景には、平和維持要員による「性的搾取と虐待(SEA: Sexual Exploitation and Abuse)」があった。つまり、要員と現地住民との接触は、売春宿の増加、レイプや性的虐待、人身取引、子どもの権利の侵害、HIV/AIDSの蔓延などの問題を引き起こしたのである。そうした要員の「生/性」を管理する必要から、主権権力をもたない国連は非主権的な方法、つまり「普遍的な」行動規範の適用によって平和維持要員の行為を「統治する」のである。この方法が、個人の行為を禁止する否定的な形式をとるというよりも、むしろある行為を進んで行う主体にさせるという意味で、ミシェル・フーコーの統治性の問題から読み解くことができるとしている(8章と関連)。しかも、ジェンダー訓練を構成する権力/知は、SEAの原因を「第三世界」から派遣される要員の文化的差異へと還元する一方、その解決策として「効率性」という西洋的基準の普遍化を推し進めつつ、西洋の暴力性を同時に隠蔽する。しかも、平和維持要員は様々な国から提供されており、出身国の文化的差異によってSEAが発生する場合があり、これを回避するために任務の「効率性」を謳うという構成をとっている。国連の問題というと(たとえそれがPKOの問題でも)、機構論が多い中で、和田の着眼点は、安保理決議1325の「先」に「ジェンダー」と「教育」と「グローバル・ガバナンス」と「その内部での文化的軋轢」という諸問題を連動させるという荒業をやってのけているのである。こうした問題は、西洋近代とその外部という問題をどう捉えるかという議論が孕まれており3章(佐藤・峯田)、4章(五野井)、5章(土佐)、7章(鈴木)、11章(北川)、最終章(佐藤)と接合してくるだろう。また、国連による平和構築の背後に「各国が提供する要員」というファクターがあることから、これを日本の文脈で捉えようとしているのが14章(鶴見)であり、他方で脆弱な空間(例えば国家や地域)をどのように「統治」するのかという観点から見れば、それを政治経済学的に思考しているのが12章(妹尾)だといえるだろう。
第14章は「平和」という言葉の氾濫状況について、国際社会と日本の受容という両面から検討を加えている。国際社会面では国連での言説として、ブトロス=ガリによる報告書『平和への選択』、ブラヒミ・レポートとして知られる「国連平和活動検討パネル」、そしてコフィ・アナン事務総長時代のハイレベル・パネル報告書『より安全な世界』等をとりあげ、政策論が技術論へと推移し、再度政策論へ回帰していると分析する。他方で、日本に関しては国連での一般討論演説を検討している。その中で、かつては含意されていなかった、国家建設のための「平和構築」が国際協力として認知されていくプロセスを把握する。このことは、戦後日本の国内的文脈で「平和」といえばパシフィズム(絶対平和主義)が主流だったのに対して、上記のような別の「平和」が差し込まれてきたことを示唆している。そして「平和のための戦争」という極北とパシフィズムの間のグレーゾーンが膨張してきていることに警鐘を鳴らしているのである。
他の章との関連でいえば、言説の重要性に着目している2章(芝崎)、6章(野崎)との比較検討が有意義といえる。また、国連を中心とする介入と国家の関係というテーマを考える上では、12章(妹尾)と13章(和田)がひとつの問題系を形成しているといえる。加えて指摘しておかなければならないのは、鶴見論文は「なぜ近代国家は重宝されるのか?」ということについて読者を深い思索へといざなう。この大問題の提起という補助線を引いた上で、「平和構築」が「国家建設」を当然の了解事項としてきたということの含意を考えるべきなのだ。すなわち、「平和構築」が、「国家による暴力手段の独占」、「市場経済の安定」、「国籍ベースでの人民の統治」を首尾よく実現し、ひいては「その資格要件を満たした「国家」が国際社会に受け入れられる」というところまでの物語を射程に入れているとすれば、「国家という鋳型」が人々の脳裏にいっそういや増して深く焼きついているということをある意味で示唆しており(こんなグローバル化の時代に!)、そのことはわれわれが依然として近代的思考のなかにどっぷりと浸かっているということを意味している。もっと露骨にいえば、近代のシティズンシップは戦争への人民の動員を可能にした装置なのであり、「戦争-シティズンシップ」という枠組みを傷ひとつつけることなく温存しつつ、われわれは「平和」の構築について語っているということを肝に銘ずるべきなのだ。近代の超克は、先送り、先送りという形で今日まで来ている。もしかしたらわれわれもその先送りの立役者かもしれないという不安感をもち、3章(佐藤・峯田)、4章(五野井)、5章(土佐)、7章(鈴木)、11章(北川)、13章(和田)あたりが論じている近代批判のモーメントと、この日本の国際協力の危機的状況を照らし合わせて、是非とも今後の行方について思索してみてほしい。
最終章は、「国際政治」を「世界政治」と置き換えた理由のひとつを確認できるような構成となっている。すなわち、世界は国境で区分けされた地図にみられるような形では存在していないということである。そのことを佐藤論文はわれわれに教えてくれる。つまり、「流れ」を基にして世界を眺めよ、というメッセージだ。領土や大陸が中心なのではなく、むしろそれは海や流域にはさまれた存在でしかないと。有り体にいってしまえば、それは認識の完全な逆転なのだ。「それは奇妙だ」とのたまふ人間はよく現代世界の尺度が身についている証拠だ。
ところで、佐藤が指摘する「惑星全体をひとつの流域であると考え、そこでは相互に依存し、活力にあふれた多様性を育てる」(佐藤)という視座(ここでは「群島論的世界観」)に立てば、これまでの支配的語りはオセロのようにすべてひっくり返っていき、メタレベルでの認識の転換を果たすことになるだろう。これを「空間的常識の転覆」と呼んでいいのかもしれない。それを受け入れれば、われわれは固い領土から解き放たれ、途端にネットワーク、フロー、フラックス(とうとうと流れ出ること、あるいは流転)といった事柄について思考することが可能となる。その意味では、その意味では、もしかしたら西洋近代の超克というテーマは、正面から取り組まないことが、超克への近道なのかもしれない。
他の章との関連を指摘すれば、本章が「海と島嶼(ひいては生命)」を流れの中で捉えようとしているのに対して、「人と都市(ひいては光やエネルギー)」を流れとして捉えようとしたのが8章(前田)だといえる。また、「辺境」を眼差すその姿勢は、世界のいたるところに「収容所」が存在していることに自覚的な11章(北川)とあわせて読むことができる。それによって意識の中で辺境が無限増殖していくことを実感できるだろう。ちょうどマイナー文学が無限増殖するかのごとくに。
他方、「危機的情況にある平和学を新たにインキュベーションする可能性」を見出すための島嶼・平和学であると指摘している点は、危機的状況の一翼を担いでいる「平和構築」という名のパシフィズムの処刑を問題化している14章(鶴見)と蝶番の関係にあるといえる。また「島嶼」という視覚から「地域連関」を構想する姿勢は、例えば5章(土佐)の「批判的地域主義」のテーマや7章(鈴木)の国境を越えて生き抜く「ヨーロピアン・ムスリム」の問題にもつながってくる。
いずれにせよ、一定の意義を認めつつも、国家や制度などを形成する近代そのものが持つ暴力性に敏感さを保っているという意味では、ほぼすべての章が共有していることは明らかだ。
死せる国際関係学のコモンセンスを世界政治学の新たに生けるコモンセンスへ組み換えていくことが、本書の狙う日常の転覆の意味に他ならない。さらに物騒な書物となるはずの、次なる武者研メモワールへ本書をもって備えて頂くことがかなえば、執筆者一同望外の喜びとするところである。
2009年10月31日
鈴木規夫/前田幸男
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