眞田芳憲
生命体を対象とする研究や生死にかかわる医療技術の開発は、今日、加速度的に進展し、人間の生と死についての伝統的な価値観に変更を迫る事態が次々と出現している。例えば、生殖医療技術・遺伝子技術・性転換手術・出生前診断・妊娠中絶・新薬開発と臨床試験・脳死と臓器移植・安楽死・尊厳死等々、さらには自然の生命まで視野に入れれば、環境倫理にかかわる諸問題が私たちの日常生活と社会全体に深刻な問題を投げかけている。こうした事態は、現に哲学・倫理学・医学や法学等々の分野に多くの困難な課題を生み出している。そして、これらの課題は、時には時代の要請に十分に対応し切れずに、未解決の問題をますます蓄積させている。
人間の生と死の問題は、もちろん、その人個人の問題であると同時に、それを超えて、その人と家族との関係、その人と地域共同体との関係にかかわる問題でもある。それに加え、人間の生と死は、単に医学・医療にとどまらず、倫理・宗教・慣習など、人間の生死の営みにかかわる多くの社会規範、とりわけ法規範と深くかかわっている。換言すれば、人間の生と死は、幅広く学際的・総合的な見地から取り組まねばならない問題であるのみならず、その人を取り巻く時間的・空間的伝統文化と不離不可分の関係にあると言えるであろう。その意味において、生と死にかかわる今回のテーマはわが「法文化学会」にとって最もふさわしいテーマの一つということになろう。
かつて私は「生命尊重センター」の月刊誌『生命尊重ニュース――小さな生命を守るために』の「いのちと法のはざまで」および「法と倫理」と題するコラムに小文を連載したことがある。社会に広く「生命尊重」を訴えるこの啓蒙雑誌に掲載した一文を学会の学術叢書の序文に用いることは、いささか非難を免れ得ないかもしれないが、それを十二分に認識したうえで、「生と死の法文化」の意味するところの理解を深めるために、あえて二つの小文を転載することをお許しいただきたいと思う。一つは、「生命の私物化」(vol.24, No.264, 2007年1月1日)と題する小文である。
「臓器移植と掛けて、アダルト・ビデオの出演と解く。その心は、身も心も私のものは私のもの」。今、世間では目出度き元旦を祝している最中ですのに、まことに不謹慎な謎掛けでいささか不快な念を抱かれる方もいるかもしれません。だが、よく吟味してみますと、臓器移植やアダルト・ビデオに限らず、自殺や中絶や売春などにも、その根本においても何か共通するものがあるように思えてなりません。
現在、現代倫理学の主流として世界を席巻しつつある功利主義的倫理学の中心原理は、(1)判断力を持つ成人は、(2)自己の生命・身体・財産に関して、(3)他者に危害を加えない限り、(4)たとえその決定が自己自身に不利益になる場合でも、(5)自己決定の権限を持つ、というようにこれを要約することができましょう。そして、この倫理学は人間中心の、個人主義的合理主義をその本質としている点で著しい特徴を持っています。
現代の法体系も、基本的にはこの倫理観を基本として成り立っています。それは、ちょうど人間の肉体が細胞から組織されているように、権利を核としてそれに自由と意思という衣で覆ってできあがっていると見ることができましょう。
例えば、物を所有するとは、どのようなことをいうのでしょうか。民法の規定によれば「所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分をする権利を有する。」(第206条)と定められています。
そこで、「判断力を持つ成人」であれば、他人に危害を加えない限り、臓器移植やアダルト・ビデオは言うまでもなく、自殺や中絶や売春などに見られるように、自分の生命や肉体が自分のものである以上、それをどのように使用、利益、処分しようが、それは自分の自由ということになるのです。
しかし、この「判断力を持っている」というのが、実は曲者なのです。ここでは、「判断力を持つ成人」といっても、「そもそも自分とはいかなる存在か」、個人といっても「他者とは一切関係なく、自分独りで生きている存在であるのか」を自問し、自分自身を直視しうる能力を持つ人間であるかどうかが問われなければなりません。
いくら成人であっても、この能力がなければ、功利主義的倫理観はたちどころに自分勝手で我が儘な、私化された個人主義に陥ってしまうのです。ここでは、何よりも教育と世論の健全化が問われることになりましょう。
私たちの法秩序は、言うまでもなく、権利の体系として構成され、維持されている。権利の体系としての法学世界観の下では、個人は「自分自身にしか服従することない」「最高絶対の存在」であると位置づけられている。このことの憲法的表現が、「すべて国民は、個人として尊重される」(第13条)である。しかし、世界の法文化の中にはこのように「個」に閉塞された「個人」という観念を採らない法秩序も存在していることは事実である。カトリックの教会法や非西洋法圏のイスラームのシャリーア、アフリカの伝統法等がその典型的な事例と言えるであろう。ここでは、前者にかかわる私の体験を掲げておこう。
それは「マニラでプロダクティブ・ヘルス/ライツを思う」という、いま一つの小文である(vol.25, No.287, 2008年12月1日)。
10月17日朝、国際会議に参加するためマニラに向かう機中のことです。ふと気づくと、他の国際線と比べ、妙に妊産婦や幼児連れの女性客が多いかと感じましたが、それ以上考えることはしませんでした。
マニラのホテルで、すでに2日前から現地入りしていた妻と合流し、機中での印象を話しますと、「とんでもない。私の飛行機には30以上の乳母車が預けられていたそうよ」とのこと。そのときはまだ、単純に「フィリピン妻のお国帰りかな」としか思っていませんでした。
ところが、大会2日目のこと、私は棍棒で強打されたような衝撃を受けたのです。それは、会議の合間にブカス・パラト演劇グループの寸劇が披露された時です。
ブカス・パラトというのは、マニラの二つのスラム地域で「心のままに受け取り、心のままに差し上げよう」(Freely we receive, freely we give!)をモットーに「贈り物文化」の普及を目指して、貧しき人たち、病む人たち、苦悩にあえぐ人たちのための慈善活動に従事しているカトリックの信者のグループです。今年で、ちょうど創設25年を迎えたとのことでした。
その寸劇の中で、時は1983年、場所はスラムのトラモ通り、登場人物は家なき浮浪児、ブラブラ遊んでいる子どもたち、酒を飲み、賭博をし、馬鹿話をしては、街角にたむろしている連中の場面が出てきました。
子どもたちは言い合っていました。「おぉい! 知っているか。サリーの娘が、今戻ってきているってよ。ひとりでさあ。日本からだってよ。あの娘は妊娠しているんだってさ」「本当! ソニアさん、来てよ! 本当に! 妊娠しているの」。
飛行機の中、空港の中での風景が思い出されました。1983年、いや、今が1983年、時計は止まっているのかと。
カトリックは堕胎を禁じています。カトリック信者のフィリピン女性は日本に出稼ぎに行き、苦しい生活を強いられる中で何らかの理由により妊娠したが、堕胎を禁じられる身のこと、止むを得ず出産や育児のために帰国せざるを得なかったのでしょう。
私は思いました。富める日本は「いのち」を掃き捨て、貧しきフィリピンは「いのち」を拾い上げていると。スラムは病める社会の証であると言うけれど、「いのち」を見捨てる国はもっと病める国ではないかと。「いのち」抹殺の国と「いのち」賛歌の国。私はここで、かのプロダクティブ・ヘルス/ライツとは、一体、何であるか、あらためて考えざるを得なくなったのです。
今日、人間の生と死にかかわる医療技術の驚異的とも言うべき急速な進展によって、これまでの伝統文化は大きな挑戦に直面している。私たちの法文化もその例外ではない。私たちの法文化は、この新しい事態によって生み出された諸々の問題に対してどのような解決策を見出していくのか、あるいはそれを見出していこうとしているのか、その道筋の提示は果たして可能なのか。
そこで、本書では、このような問題関心のもとで、世界の諸地域での法文化を視野に入れ、時代も限定することなく、生と死にかかわる諸問題を法文化論的に考察を加えることにした。生と死の法文化という極めて包括的なテーマは、そのテーマの普遍性と多角性、そしてなによりも現実性から、さまざまな分野で、さまざまなアプローチが可能となるはずである。それは、同時に、問題の性質上、当然のことであり、問題の探求を深めていくうえでたどらなければならない必要不可欠な道程であって、むしろ歓迎すべきことと言わねばならない。
本書は7つの論文から構成されている。マシア論文、奥田論文および眞田論文は「生と死をめぐるいのちの法文化」の観点から、藤本論文は「歴史の中の生と死の法文化」の観点から、櫻井論文と古川論文は「医療技術といのちの尊厳をめぐる生と死の法文化」の観点から、宮園論文は「家族の崩壊の中でのいのちの尊厳と、生と死の法文化」の観点からそれぞれのテーマを究明している。もちろん、「生と死の法文化」という、ミクロ的にもコスモス的にも深遠かつ広大なテーマに立ち向かうには、7論文から成る本書の力は余りにも劣弱であるかもしれない。しかし、本書の刊行によって「いのちの尊厳」をめぐる時空的な法文化論的研究がより充実したものとなり、わが国の学界を裨益するものとなることを期待するとともに、かつそれを信じて疑わないものである。
本書の発刊については、諸般の事情により大きく遅延せざるを得なくなったことを深くお詫びしなくてはならない。本学会の会員諸氏はもとより、関係各位の寛恕と厚情に心より感謝申し上げるものである。
最後に、本書の出版にかかわる編集実務上の業務についてご尽力をいただいた国際書院社長の石井彰氏、および編者としての私の仕事に対して陰に陽に支援し、協力を惜しまれなかった中央大学法学部准教授森光氏に深甚の謝意を表するものである。
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