本号は「新たな地球規範と国連」をテーマに特集を組んでいる。ここで意図する「新たな規範」とは「Humane Order」を志向する規範を念頭に置いている。この「Humane Order」とは、「人や周囲への思いやりの観点から地球規模の規範を変える」ことを意味している。国際社会における規範創造の場として国連は大きな役割を果たしてきた。その規範のあり方も、ただ地球上の国々や人々を厳しく規制するだけであれば意味がない。地球上で国々、人々さらに多様なアクターが、相互に生かし合い、思いやりの気持ちを持って存在しうるような規範を模索することが、21世紀の国連および国際社会にとって肝要であろう。国際社会のナビゲーターとしての国連の規範創造活動も、仁知ある高い知見をもってなされる必要がある。本特集は、そのような視点から関連の論考を掲載している。
グローバル化がすすむ今日、国家間関係の視点からではなく、人間の視点から地球社会を考察することが重要になってきている。松隈論文は、この人間の視点あるいは、被害者や社会的弱者の視点から国際社会を再構成する概念として、「保護する責任」を検討している。同論文の引用の中にも次のような指摘がある。
アルブール (Louise Arbour) が評価したように、保護する責任の概念が「被害者の視点と利益を公正に包括する規範として考案されたもの」であるとすれば、人間の視座に立った国際社会の構築に意義を有するものとして、保護する責任をとらえていくことが可能であると考えるのである。
松隈論文はまず、保護する責任論の背景について概観し、所説を検討したうえで、保護する責任は確立した国際法と国連憲章の規定に基づく政治的概念であって、法的概念ではないと指摘する。次に2009年の国連事務総長報告書を検討し、報告書が保護する責任概念をジェノサイド、戦争犯罪、民族浄化、人道に対する罪の4つに限定したことに言及し、三つの柱を説明する。第一は「国家の保護する責任」、すなわち人々を保護するのは国家の義務であること。第二に住民を保護するために国家が能力構築をするにあたって、国際共同体がこれを支援するという「国際的支援と能力構築」の考え方。第三に「国連加盟国による集団的対処行動の責任」に関するもので、これは人道的介入論との関連で国際法上の議論となるであろう、と指摘する。さらに2009年7月の国連総会における保護する責任に関する議論について検討した後、未解決事項として見解の対立が際立った争点として、「保護する責任の適用において二重基準を懸念する見解」、「拒否権行使をめぐって、常任理事国の不一致こそが国連による対応の失敗の主たる原因であるとする見解」、「第三の柱について、これを介入の権利と同一視し、単独国家による介入に道を開くことを懸念する見解」があることを指摘する。「おわりに」人間の安全保障と保護する責任の関係について、異なった特徴を有しながらも、相互補完的なものであり、国際社会においてそれぞれが「人間中心の秩序」を構築していくための理念として有用性を認められて今日にいたっていること、今後も、国際社会においてはそれぞれの観点から、相互に協力的な手法で分析、議論が深められる必要があることを指摘する。
現在、国家間関係の枠組みとは別の次元から、すなわち人間、社会的弱者、被害者、武力紛争・大量の人権侵害の被害者などの次元から、国際社会を見直し、このような人々をどのようにして救うかが共通の課題となっている。保護する責任と人間の安全保障は、別の系統の概念と指摘される場合が多いが、「人や周囲への思いやりの観点から地球規模の規範を変える」という視座から検討した場合、共通の土俵に乗る側面もあるといえよう。
次にみる勝間論文は、グローバル化に伴って人のみならず細菌やウィルスも容易に国境を越えるようになってきた問題を扱っている。感染症の問題は、国家が一国レベルで解決できる問題ではない。地球社会が一丸となって、地球上の人々の救済に取り組む視点が必要となる。
勝間論文は、この感染症の問題を、国家の安全保障に特化する伝統的なマクロレベルの安全保障と異なり、ミクロレベルの個人やコミュニティーの問題としてとらえて、人間の安全保障の議論に切り込んでいる。人間の安全保障の概念を実践に移す際に、健康の問題は大変に有用なエントリー・ポイントとなる、健康問題は政治的ではないため多くの国が先進国の援助を受け入れやすい、病気や栄養不良は感情的にも理解しやすい、健康とそのほかの人間の安全保障の問題は関連性が高い、病気は国境を越えるため、他の国の人々の健康にも影響を与える。などの理由からである。感染症の問題は、地球村に住む人々の生存にとってのトランスナショナルな脅威となっており、地球規模の国際的な強いコミットメントが必要である。例えば、この分野での日本のイニシアチブは沖縄、九州サミット、洞爺湖サミットなどでなされてきている。また国連機関でこのコミットメントを担っているのは、世界保健機構 (WHO) である。WHOがとっている「地球公共健康安全保障 (global public health security)」は、感染症などの健康の問題にとって、重要である。人間の安全保障アプローチは、人間中心のアプローチであって、その中心は個人とコミュニティーにあること、人々の脆弱性に目を向け、人々の回復力を助けること、保護と能力強化の接点を強化すること、強いコミットメントを地球規模の健康を扱うに当たっての人間の安全保障のアプローチに適用することが、すべての人の健康の改善に貢献することになる。
感染症のような人間が被る被害から人々を救う地球規模の視点を、勝間論文は提示しているが、次にみる滝澤論文では、難民問題を、人間が被る被害の視点から検討する。
滝澤論文は、難民と被害者学との接点を探る。すべての被害者が難民ではないが、すべての難民が被害者である。その意味では難民研究が被害者学に接近する視点が見いだせるはずである、という問題提起を、滝澤論文は検討する。ではなぜ、これまで被害者学と難民研究が関係づけられてこなかったのか。その理由として、第一に被害者学は国家が想定されているが、難民は庇護する国家が存在しない。第二に、制度的な問題として、二つの人権レジームが別々に並行して存在している。すなわち国連難民高等弁務官事務所 (UNHCR:United Nations High Commissioner for Refugees) と国連薬物犯罪事務所 UNODC: United Nations Office on Drugs and Crime) の任務の相違によって、難民レジームと被害者レジームが区別されている問題がある。第三に、社会的コンストラクティビズムの問題を指摘する。
難民というカテゴリーは社会的に構成されたものであり、誰が難民か、もその時の思想、国益、経済的利益によって異なる。一方で被害者もまた社会的構成物である。従って、難民研究と被害者学が両者の壁を取り払って考察される必要がある。例えば、難民や国内避難民を被害者としてとらえて検討することで、両者の方法論が、相互に有益となり、ひいては人権の再考察に有益となる。
難民研究も被害者学にもともに、被害者に対する強い思いやりの意識を基礎とする点で共通しており、両者の協力によって今日の国際社会にさらなる「Humane Order」もたらすだろうと述べている。
「被害者の視点」は、人間の安全保障の視点からも、法の支配や正義論の観点からも、これまでの国際社会に新たな角度から光をあてた考察の視点といえる。例えば、かつては日本に売春目的で連れてこられた女性たちは、密入国者であり、かつ売春行為を行った犯罪者として罰せられ強制送還の対象とされていた。しかし今日このような女性たちが、トラフィッキングの被害者として手厚く保護されるようになった事実は、被害者の視点が国際社会の秩序のあり方に変容を迫った事例といえよう。また、南アフリカからはじまった真実和解委員会などの修復的正義の考え方も、犯罪者をどう裁くかではなく、被害者をいかに救済するかに力点をおく考え方といえよう。このことは「法の支配」のあり方にも修正を迫る可能性を秘めている問題であり、今後のさらなる研究課題ともなるだろう。
また、正義観のとらえ方も歴史とともに変化してきている。自由・平等・博愛はフランス革命の理念であるが、まさに正義観もこの順番で進化してきている。自由、すなわち奴隷解放や植民地の解放に訴える正義観から、平等、すなわちジョン・ロールズ流の配分的正義の正義観、さらに博愛、すなわち本特集号の意図する「人や周囲への思いやりの観点から地球規模の規範を変える」という視点への変化である。地球社会における規範のあり方を検討する場合、正義観や倫理観についても、常に問い直す視点が必要であることを痛感する。
次にみる菅原・前田論文も、国家間関係の枠組みとは異なる次元から、国境を超えて活動する企業の倫理観を問うものとして、国連グローバル・コンパクト (GC:Global Compact) と人権の関係を検討する。
菅原・前田論文は、第一節では、GC が発展する契機となった歴史の軌跡を確認しつつ、企業の社会的責任 (CSR: Corporate Social Responsibility) とGCの関係性について考察し、さらにGCを超えて「企業による人権保障」への取り組みが様々なところで展開されつつあることを論じる。
こうした展開の中心にある「良き実践を企業の自発性を通して実現する」という着想は、ラギーの考え方に依拠するところが大きい。彼の出した行動計画のなかでも、企業の負うべき責任は「社会的期待」によって定義されるとしている。この「社会的期待」の中身を理解するためには、彼がなぜ人権保障の問題を扱う際、問題を主体としての「個人」に落とし込まずに「社会」にこだわってきたのかを考えなければならない。特にラギーの「社会」構築主義の立場というのは、特定のリーダーシップによって社会変動が起こると見るのではなく、むしろ社会のダイナミックな営為が登場し、それが社会を転換しつつある現実を発見し、そのエネルギーをいかに転用できるかというものである。
同論文では、社会構築主義の枠組みを「企業による人権尊重」というコンセプトを使って、これがどのように具体的な実例へと結晶化しているのかを検討している。さらに、企業による現在進行中の CSR の取り組みのなかに、企業と人権の関係をめぐる構造転換のモーメントを見出すため、日本企業の最先端の実践例のひとつであるサプライチェーン・マネジメント (SCM: Supply Chain Management) に注目し、SCM とラギーの考える社会構築主義的アプローチとの親和性を論じている。最後に、CSRとGCは大きく発展しようとしているが、そのプロセスのなかで国連の人権規範と競合し、法的アプローチによる人権保障を実質的に後退させたという批判も根強いこと。加えて潜在的なルール間対立や、リスク管理の道具として利用されるに過ぎないといった問題もあること。とはいえ、ステークホルダーの「目」を多角的に意識しつつ、受動的・能動的に相手との良き関係性を構築し、社会経済の新たな地平を切り開いているという積極的な側面が存在していることも事実である、と指摘する。
GC は、国際法ではないが企業を主たる対象とした地球規模の規範である。人権、労働、環境、腐敗防止などの観点から、企業の倫理的行動を希求する意味でも「Humane Order」の担い手として重要な規範と言いうる。菅原・前田論文が検討した社会構築主義は、リーダーシップによる集権的な社会変動ではなく、むしろ分権的な視点から社会の構成員のダイナミックな営為が変動をもたらすことを指摘する。他方で、次の広瀬論文はオバマ大統領のリーダーシップが、ある意味で象徴的に社会に変動をもたらす可能性について考察している。
広瀬論文は、オバマ大統領の掲げる「核なき世界」というビジョンを「単なる理想論」あるいは「看板倒れ」と見なすのは、あまりにも皮相的であると指摘する。大量破壊兵器、特に核兵器の拡散の可能性という深刻な安全保障上の脅威に対して、最も確実な対応策は、「そのような兵器の存在そのものを廃絶すること」だからであり、圧倒的な自国の通常戦力を有するアメリカとしては、「核なき世界」という提案は、あくまでもアメリカの安全保障の将来を見据えた、現実的な計算のうえになされたという側面を見落としてはならないと述べている。
たしかに、アメリカの大統領が、公式に核兵器の廃絶の可能性に言及し、それをアメリカの掲げるビジョンとして確認し、国際社会が、安全保障理事会決議、国連総会決議、そしてノーベル平和賞の授与という形で認めたことの意義は大きいが、核兵器に代わる安全保障政策が合理的にアメリカに存在しうることも示している。核兵器保有国の安全保障に占める核兵器の重要性とその正当性が低下してゆけば、従来からの核抑止に依存する安全保障政策とは、根本的に異なる核廃絶へ向けた選択が具体的に検討される可能性は否定できない。オバマ大統領の掲げた「核なき世界」というビジョンは、そのための方向性を指し示すと同時に、根本的な安全保障政策の質的転換を促すための努力の一端であって、直接、核兵器の廃絶を規定しているものではない、と指摘する。
オバマ大統領の「核なき世界」というビジョンが、たとえ象徴的なものであったとしても、核を保有することの是非という規範的な問いに、明確に答えた事実を否定するべきではない。核拡散防止条約に基づいて、国際法上、核兵器の保有が合法的に認められているアメリカが、このようなビジョンを明示したのである。本当の意味での地球上からの核廃絶には時間がかかることも事実であろう。しかし規範が変われば、事態は変化していく。国連憲章成立当時は正当化された植民地の保有が、今日では全く認められなくなったように、善悪や正否の判断も、その規範が変容すれば、現実もまた変化する。それがたとえ遅々たるものであろうと国際社会の現実認識は規範の変容に伴って変わっていくのである。オバマ大統領にノーベル平和賞が授与されたことは、このような規範の変容にとって大きな布石となったといえる。「核なき世界」というビジョンをアメリカの大統領が示したことが、国際社会の規範に、ノーベル平和賞に値するほどの変容を迫る行為であったと理解してしかるべきであろう。
本特集号では、「現場の眼」として特筆すべき二つの論考を掲載することができた。
紀谷論文は、地球規模課題が深刻化し、多極化が進展する中で、日本にとって国連という「場」と「ツール」が重要になってきたことを指摘する。国連におけるマルチ外交の場では、むき出しの国益をナイーブにちらつかせても、周りの反発を招き、国益を実現することは到底できない。そこでは、相手側との共通利益を模索し、妥協することも必要となる。また、国連で国益を実現するためには、国際益による正当化 (justification) が重要となる。国益の追求が国際益を増進し、国際益の実現が日本の国益にもつながるという関係は、「開かれた国益」とも呼び得るものであると指摘する。
次に日本の国連外交について、日本の強みを世界に生かすための三つの課題を考察する。第一の課題は、「国連を活用する」、日本が重視する分野で、日本の強みを生かして積極的に貢献し、指導力を発揮することで、日本の国益を国際益と調和する形で実現することである。具体的には、平和維持・平和構築、核軍縮・核不拡散、開発・人間の安全保障、環境・気候変動、人権・法の支配などの分野での活用である。第二の課題は、「国連を改革する」。国連は所与の存在ではなく、加盟国によって創設された、改革が可能なものである。地球規模課題の解決のために国連というツールをより効果的に活用できるよう、国連システムの実効性と効率性を向上させることが、日本の国連外交において一つの大きな課題となる。具体的には、安保理改革、平和構築委員会、人権理事会、システム一貫性、行財政改革などがある。第三の課題は、「国連に参画する」。日本の幅広い層が実際に国連に参画し、貢献することを確保することが重要である。具体的には、国際機関選挙や邦人職員増強を通じて人材・ポスト面での貢献を強化するとともに、企業や NGO との連携を推進してオールジャパンの参画を確保することなどが挙げられる。
国連外交という「鏡」を前に、日本はいかなる答えを出すのか。それには、日本の安全と繁栄を守る、現実に根ざしたものであるのみならず、日本の志を奮い立たせ、世界の共感をよびおこすようなビジョンや理念、「開かれた国益」の内実となる哲学を広く共有し、具体化する作業が、まさに求められていると指摘する。
紀谷論文は、包括的に日本の国連外交が取り組む課題について論じているが、その底流には、「開かれた国益」いわば地球規模の公共益を希求する姿勢が貫かれている。そのような姿勢をもって国連を活用し改革を促す。また企業やNGOなどの多様なアクターの参画を促す。日本が自己の利益のみにこだわらずに、地球全体への幅広い視野を持つことの重要性を指摘している。
今回は、国連グローバル・コンパクト (GC) に関する論文を二本掲載することができた。次にみるチャン・パウエル論文は、GCの中でも平和の問題に焦点をあてている。
ダウン・チャン (Da Woon Chung) とメリッサ・パウエル (Melissa Powell) の論文は、GCの10周年にあたって、これまでのGCの発展とその方法論を説明したうえで、特にビジネスと平和の関係に注目して説明を加える。平和の問題を扱う理由は四つある。第一に平和と安定が、ビジネスを繁栄させ、持続可能な経済発展を達成するための欠かせない要素であるからである。第二に、平和の促進は、社会の責任ある構成員がなすべき正しい行動だからである。第三に、企業は、紛争に影響を受けた地域に、全面的に責任あるビジネスを実践する努力が必要であるからである。第四に、紛争に影響を受けた国々において民間セクターが重要で積極的な役割を果たしうるからである。
2005年から議論されてきた「紛争に影響を受けた地域への責任あるビジネスの実践」には次の三つの論点がある。1) 紛争に影響を受けた地域でなしうる企業の行動は、法律が基本的な道しるべとなっている。2) 企業の責任 (CR) は、企業活動によって作り出される否定的な影響のみならずビジネスのリスクをも緩和する決定的な道具となる。3) 責任あるビジネスの実践が、紛争に影響を受けた地域の長期的な価値を創成し、持続可能な平和を構築する道具として役立つ。民間セクターは経済復興や紛争後平和構築に重要な役割を果たしうることを認めることによって、紛争に影響を受けた地域の平和を構築し、積極的な社会的価値を創成する有用なパートナーとしてビジネスがみなされることを指摘する。
2010年は、GCが創設されてから10周年にあたる。10周年にあたって、GCのリーダーズ・サミットにおいて、地球上ではじめて、企業と平和責任の関係に言及した規範が採択される。「紛争に影響を受けた地域およびハイリスクな地域に対する責任あるビジネス:企業と投資家へのガイダンス」と題するガイダンス・ドキュメントである。ことに責任ある投資の分野は、企業のフィランソロピー活動の一環として議論されてきた。まさに企業が人や周囲への思いやりを持って行動する規範である。近年、グローバル化が進展し、自由競争によって貧富の格差が拡大してくると、このグローバル化の主たる推進役の企業が目の敵にされてきた。他方で、GCの活動には、企業に温かい血をふきこむ役割が期待される。アナン前事務総長が、「グローバル化の影を光にかえる」作業として位置付けた国連 GC の規範は、まさに地球を仁知ある秩序に向けた大きな試みのひとつといえよう。
将来の成長が期待される若手の論文として、小林論文は、組織学習の観点から国連平和維持活動局の体制を分析する。国連の実務では、学ぶための組織体制が整えられてきたこと。そのためのベスト・プラクティス・オフィサー、ベスト・プラクティス・ツール、イントラネット・ツールなどが開発され、それがどのように学習・政策サイクルに反映されているかを分析した。筆者は、このような組織学習体制が、失敗の責任をなすりつけるための原因究明システムとしてではなく、過去の経験から学んで現在・将来の国連平和活動に活かすシステムとして理解され、実用されることを願っている。
何かを批判するためだけの研究は、歴史を前に進めることはできない。小林論文の研究は、問題点の指摘にとどまらず、将来の発展を視野に入れている。
「新たな地球規範と国連」と題する本特集号の意図する「新たな規範」は、保護する責任、人間の安全保障、被害者学の視点からの難民研究、国連グローバル・コンパクトと人権、核なき世界のビジョン、開かれた国益、国連グローバル・コンパクトと平和といった、いずれも「Humane Order」と呼びうる地球社会の規範を創造する志向性を持つ議論である。国連は、このような規範創造活動のフォーカル・ポイントとして、今後も重要な位置を占め続けるであろう。
最後に2003年に発表された人間の安全保障委員会の報告書 『安全保障の今日的課題』 が、その最終章で指摘している文章を引用したい。
「他人に対する思いやりの念を培い倫理観を涵養することは、地域社会の力を高め 『人間の安全保障』 を増進する上で中心的な役割を果たすものであり、より大きな関心が払われてしかるべき問題である。」*1
編集主任 庄司真理子
*1: 人間の安全保障委員会報告書 『安全保障の今日的課題』 朝日新聞社、2003年、263頁。
Copyright © KOKUSAI SHOIN CO., LTD. All Rights Reserved.