冷戦後の東アジアは、驚異的な経済成長や大国化する中国と長期の停滞を続ける日本、いずれの局面においても世界の耳目が集中し、東アジアという地域の将来を語ることは、いわばブームのような現象となってきた。しかしながら、世間一般の評価は収斂せずに、楽観と悲観という両極端の視点から揺れ動いてきた。わたしたちが目にし、聞こえてくる東アジアは、一方で経済分野を中心に機能的な協力関係が築かれ、他方では冷戦期の国際秩序を踏襲しながら歴史認識問題や領土問題で対立を繰り返す。力と利益の論理によって変動する地域が東アジアである。複雑に変動を遂げる東アジアの様相は、構造変化のベクトルが指し示す方位をますます読みにくくしている。わたしたちははたして東アジアの変動する実態をどれだけ正確に把握できているのだろうか。少なくとも、現実の東アジアは、地域協力枠組みによって将来の制度構築さらに共通の価値観をもとにした東アジア共同体を漠然と遠望する楽観シナリオとは別の軌道を描いているのではないか。冷戦後のグローバルな激動を正確に把握したい。本書はそうした素朴な疑問が動機になっている。
だが、東アジアという実在の地域を、これまでの国際関係論が依拠する空間枠組みによって考察すれば、多様な地域を素描することが可能であっても、地域空間の再構築メカニズムは、むしろ地域の多元性ゆえに混沌としたものとしか記述できない。そこで、地域形成を、思想や認識といった「地域主義によって空間を切り取り可視化する」プロセスと定義し、分析枠組みには、現代物理学の時空のアナロジーを用いて、時間は流れるものではなく、人の営為によって築かれ、蓄積されていく歴史的展望であり空間の一部と位置づけた。そのうえで、東アジアの地域協力に積み上げられてきた多様な時間軸の国際関係論を探求しようとしてきた。
それゆえに、本書の内容も、国際政治学、科学哲学と物理学、経済学、統計学、農学(農業経済学)と専門領域が多岐にわたり、漂流する「方法と理論」研究であると自戒の念を込めて自己評価し、いっそうの精進の必要性を痛感している。本来、問題と対象を絞り込み、専門理論を中心に私見を排除し客観性を担保していくことが研究の正攻法であろう。しかし、本書の元となった研究の足取りを振り返ると、自分自身が歩んできた紆余曲折の道程そのものである。個人を離れて研究は成り立たず、経験を通じた研究も社会に貢献しうるのではないかと改めて実感する。
本書は、2009年に早稲田大学に提出した学位論文「東アジア地域空間の変動と形成」をもとに改稿を加えたものである。以下の東アジア地域秩序に関する研究論文が中心になっているが、社会科学の基点を農学としジャーナリズムの世界で瞥見した情報と知識によるところは少なくない。
森川裕二「地域秩序の変動と分析アプローチの課題」松村史紀・森川裕二・徐顕芬編『二つの「戦後」秩序と中国』早稲田大学現代中国研究所、2010年、173190頁。
森川裕二「サブリージョンの空間論的アプローチ」『北東アジア研究』第14号、2008年、177194頁、
森川裕二「東アジア地域形成における政治交流分析」『ソシオサイエンス』第13号、2007年、102122頁。
森川裕二「東アジア地域システムにおける中心性の変動」『社学研論集』第9号、2007年、169183頁。
森川裕二「インターネットと通信主権の変容東アジアIT協力の予備的考察」『社学研論集』第10号、2007年、16377頁。
毛里和子・森川裕二編著『東アジア共同体の構築4:図説ネットワーク解析』岩波書店、2006年。
森川裕二「東アジア食糧安全保障のレジーム論的考察」『ソシオサイエンス』第12号、2006年、107122頁。
森川裕二「東アジア経済共同体の政治的位相」『環日本海研究』第10号、2005年、7896頁。
本書の出版に当たって多くの方のご指導とご支援をいただいた。指導教授である早稲田大学社会科学総合学術院長の多賀秀敏教授からは、モーゲンソー研究の第一人者として知られる大畠英樹同大学名誉教授が「人間臭い政治学」と学風を評価されたように、他と異なる個人の経験のなかにこそ研究の独創性につながるものが存在するという研究姿勢を身近で学ばせていただいた。また、本書の方法論的枠組みの大部分は、多賀教授の蓄積された知見の一部を追随することによってでき上がったといっても誇張ではない。とくに多賀教授が研究代表を10年以上にわたりご担当されてきたサブリージョン研究プロジェクトのメンバーである富山大学の佐藤幸男教授ほか、佐渡友哲先生(日本大学教授)、高橋和先生(山形大学教授)、若月彰先生(新潟県立大学教授)、竹村卓先生(富山大学教授)、柑本英雄先生(弘前大学教授)、臼井陽一郎先生(新潟国際情報大学教授)、奥迫元(早稲田大学講師)の間のアジア・欧州地域主義について比較研究から得た知的刺激は少なくなく、熟成に至らない研究に対し多くの鋭いご批判と貴重なご指摘をいただいた。
何よりも、毛里和子先生(現早稲田大学名誉教授)と平野健一郎先生(同、東京大学名誉教授)が正副拠点リーダーをご担当された早稲田大学21世紀COE『現代アジア学の創生』(20022006年度)に研究員として奉職の機会をいただき「東アジア地域関係度解析チーム」に参画できたことは、本書が形をなす契機をなった。記して諸先生および私の経験と研究を支えていただいた多くの研究の同士に感謝の意を表したい。
最後に、厳しい学術出版情勢のなか、研究成果と出版のネットワークを堅持することに使命感をもって本書の出版にご指導、ご尽力いただいた国際書院の石井彰社長に深甚の礼を申し上げたい。
著者
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