1994年)
本稿は、財団法人横浜学術教育振興財団より2008年度研究奨励金の助成を受けた。
世界の経済取引は、国家単位の経済取引からグローバルな経済取引へとシフトする一方で、EUでは、ブロック経済構造が形成され、これに呼応するように環太平洋地域でもTPP交渉が進みつつありブロック経済が形成される傾向にある。日本国内の経済は、事前規制システム(護送船団方式)から事後規制システムへと転換(ディレギュレーション=規制緩和)されて、ほぼ自由市場経済へと移行しつつある一方で、社会・経済的格差が顕著になってきている。また、科学技術の革新によって電子・ビジネス取引の迅速化が進む一方で、事業者は、リスク(危険という)や想定を超えたリスク(「不確実性」という)を負担せざるを得ない取引環境の下に置かれている。
事業者には、ビジネス目標の達成に向けて、法律以外の判断基準との整合性を図りつつ法律を企業経営戦略の法的判断規準として利用するプロセスによって、リスクを予見して回避し(予防法務)さらに不確実性にも挑戦する意思決定を総合的に行い得る経営の資質や能力(戦略的法務)が求められる。前記のような矛盾を含む資本主義自由市場経済社会のキーワードは、「自己決定」と「自己責任」であるが、それが依拠するルールは、「公正且つ自由な競争」すなわち有効競争(effective competition)である(独禁法1条)。ゆえに、法律は、紛争の事後的解決(臨床法務)のための判断規準を提供するだけでなく、事業防衛あるいは環境維持・改善といった経営戦略に果敢にのぞむためのマネジメント・ツールを提供するものとしても認識されるべきであろう。
ところで、2011年3月11日に発生した地震・大津波による東日本大震災そして翌日から数度にわたる福島原子力発電所の爆発は、日常生活だけでなく産業の在り方も変わらざるを得ないほどの甚大な被害を人々にも事業者にも与えた。しかしながら、産業界は、産業構造の転換を図る努力をするどころか、消費税率の引き上げを政府に要求し、法人税の減額、環境改善対策補助金の増額といった国家に依存する体質を鮮明にしてきている。競争を前提とした自由貿易体制を一方で唱えながら、他方では、国家に依存しあるいはブロック経済体制の構築を目指すという二つの相反する方法論は、はたして、社会的な賛同を得られるであろうか。
昨今の経営工学の発展は、科学技術・知的財産が革新に対して有する機能的特徴を明確にすることを可能にしつつある。文部科学省科学技術政策研究所による調査では、科学技術・知的財産を権利化して排他的支配を前提とした研究開発による革新競争あるいはライセンス市場において共有され得る科学技術・知的財産を基礎に革新される製品・サービス競争のどちらにどれだけ依存するかという枠組みが、当該産業の革新構造を決定すると報告された。この報告書の内容をいまいちど分析し整理することで、各産業界は、自らの産業がどこに位置しており、革新に対して何を長所とし何が不足しているのかについて検証を進めることが求められるであろう。
知的財産権は、占有し得ない知的財産・情報に社会の富を増進させ得る有益なものとして付与される。知的財産権諸法によって付与される権利(使用権・実施権・請求権・排除権など)は、内在する直接的排他的支配権の法的性格のちがいによって、権利保護範囲を異にする。これが知的財産権保護範囲の「奥行き」と「広がり」の問題である(本稿I編II章1を参照)。
科学技術をめぐる知的財産権市場(知的財産法によって保護を受ける科学技術それ自体の市場とその技術を具体化した製品・サービス市場を総称していう)においては、機能的特徴をもち内在的限界を有する知的財産権の行使と競争政策との抵触が存在すると解される。その結果として、知的財産権者が権利を行使する自由と、他の権利者が権利の行使をのぞむ自己決定とは、知的財産権を使用し収益を上げあるいは取引を行う過程(以下本稿では「知的財産権の行使」あるいは「知的財産権を含む事業」という)において、「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」(「独占禁止法」と通称され「独禁法」と略称される)に違反する場合があり得る。独占禁止法は、競争制限(私的独占・不当な取引制限等を含む)という危険を防止しあるいは回避することによって利益を最大化するよう努力する一方で、知的財産権諸法は、事業者に、内在的限界を伴う直接的排他的支配権を当該産業・市場の様々な諸状況(リスク・不確実性)において利用させつつ利益・利潤を獲得させる。莫大な利益・利潤を獲得した事業者は、再び市場における競争を制限する方向に進みがちである。かような場合に、独占禁止法は、科学技術をめぐる産業・市場において、内在的限界を伴う知的財産権のいかなる行使に対して適用されるのかという問題、言い換えれば、知的財産権を含む事業が独占禁止法違反とされる独占禁止法21条解釈の問題が生じる。本稿の研究テーマは、科学技術市場における知的財産権を含む事業活動が独占禁止法21条の適用除外規定に該当する場合、あるいは同条に該当せず独占禁止法に違反し得る場合を判断するプロセスおよびその規準を検討することにある。
事業者が、科学技術市場において、知的財産権を行使することによって他の事業者の事業活動を排除し又は支配して、あるいは他の事業者の事業活動を拘束し又は遂行することにより、公共の利益に反して、一定の取引分野における競争を実質的に制限することは、市場の私的独占あるいは不当な取引制限に該当し得る(独禁法3条、同法2条5項・6項)。また、知的財産権やそれを含む技術の取引の現実のあり方として、取引の拒絶(独禁法2条9項1号・6号イ)、抱き合わせ(一般指定平成21年公正取引委員会告示18号の改正一般指定をいう10項)、排他条件付取引(一般指定11項)、拘束条件付取引(一般指定12項)、競争者に対する取引妨害(一般指定12項)そして優越的地位の濫用(独禁法2条9項5号)などといった不公正な取引方法(独禁法19条、2条9項、昭和57年6月18日公正取引委員会告示15号の改正前一般指定の1・2項・10項・11項・13項・15項など)に該当し得る権利行使の場合もあろう。しかしながら、独占禁止法21条で「この法律の規定は、著作権法、特許法…による権利の行使と認められる行為にはこれを適用しない」と規定されているので、知的財産権諸法で規定される知的財産権(排他的支配権)が行使されている場合には、独占禁止法が適用されるべきか否かの判断は、市場に現れた事実・内容によって判断される。
独占禁止法の母国であるアメリカ合衆国(以下では米国と表記する)において、反トラスト法と知的財産権諸法との関係および知的財産権の行使に対する反トラスト法の適用に関する理論は、財産権の集中と公正な利用による普及という2つの側面が大きくかかわるので、政治的影響を受けやすい分野に位置する。代表的なハーバード学派とシカゴ学派といった学説間の対立やポスト・シカゴといったゲーム理論を導入し可動的な戦略的行動・情報戦略の視点を重視した理論の新展開によって、学説間の論争は、ますます活発化して複雑になってきている。例えば、事業者による行為に対して、反トラスト法違反を認定するか否かを判断する際には、反トラスト法違反類型ごとに、どのような判断規準を適用するか―Per se illegalかRule of reasonか―という問題が、反トラスト法分野の関心の一つとされている。また、反トラスト法と知的財産権諸法との関係については、二つの法律の間を「矛盾対立する関係」と解するか、それとも「相互に補完する関係」として解するか、知的財産権の行使に反トラスト法を適用する前提として、当該知的財産権がMis use(不正利用あるいは権利濫用)であることを要するか、あるいは競合するか、そして、これらの問題の関連性を問うテーマとして、展開されている。なぜなら、本来、経済の発展は、知的財産の革新(イノベーション)による動態的効率性の促進と不正競業・競争制限を排除することによる静態的効率性の確保という双方によって起動されると解すべきであるが、現在では、極端に動態的効率性の促進を重視した議論が展開されている状況にあるからである。
現在の傾向としては、独占禁止法と知的財産権諸法とは、「相互に補完する関係」として捉える学説が有力となりつつある。今日では、革新競争の促進を、当該産業がどのような革新構造を構成し―革新が科学技術の保護・知的財産権による専有性を前提として、あるいはライセンス市場における技術の共有・知的財産権の利用を基礎として、両者のどちらにどれだけ依拠するか―、何が革新を起動するのか―不連続性・独立性か、連続性・累積性・システム性か―という観点から事業者の行動を含めて分析すべきと主張する第三の学説(以下では「MACパラダイム」という)が現れている。またシカゴ学派によって支持される理論を基礎に反トラスト法違反プロセス・規準が当然違法の原則から合理の原則へと変更される判決が裁判所によって出されて、知的財産権の行使に独占禁止法を適用する理論および判断プロセス・規準も、ますます流動化している。
日本では、独占禁止法21条の規定の文言の解釈をめぐって、主に「特許」との関係を論じる独占禁止法旧規定における「23条論」とか「権利範囲論」として、これまでにも多くの見解が存在する。
しかし、一般の物的財産および知的財産にとって内部秩序に位置する財産権のもつ諸機能性についての考察が、これまで日本では、希薄であった。さらに競争政策(独禁法の適用)と知的財産保護制度(特許法・著作権法など)との関係は、米国においては国家の経済戦略の一つに位置づけられ、知的財産権の権利行使および公正かつ自由な競争政策を促進する視点からの救済方法の導入が知的財産権の分野からも活発に議論されているが、日本ではかような視点からのテーマ設定が長い間放置されて行われなかったといえるであろう。
現代社会において、社会の発展(富の増大)は、資源の効率的な配分―費用対効果―という視点からだけでなく、知的財産・知的情報が研究開発過程において、いかに革新されて現実化されるか、それがどのように利用され社会生活の向上に貢献されるべきか、という視点から再構築されつつある。かような社会経済的背景は、事業者の知的財産権を含むどのような事業活動が私的独占、不当な取引制限あるいは不公正な取引方法に該当することになるのか、独占禁止法の適用を受けることになる要素や革新を誘引し研究開発を起動するメカニズム因子として何が必要なのかという独占禁止法との関係を問うテーマを社会に提示する。
本稿の検討指針は、科学技術をめぐる市場において内在的限界を伴う知的財産権行使の枠組みを、知的財産権と隣接する法的関係にあり且つそれの外郭秩序に位置づけられる独占禁止法の公正且つ自由な競争(有効競争)を促進する政策の観点から考察することにある。日本においても、研究開発・生産・流通といった各段階において力の拮抗した複数の事業者が、知的財産権を利用してネットワークを構築し市場を囲い込み新規参入を困難にして事業利益を確保した結果、独占禁止法による排除の対象となった審決例が、徐々に現われている。
経済(独占禁止)政策の目標は、効率性の促進だけでなく、生産および雇用の安定、所得の公正な分配の達成、企業の行動基準の設定、そして大企業権力の制限などが含意される望ましい経済成果の実現にある。競争政策および産業組織論は、ゲーム理論および経済学による計数分析の導入で情報の非対称性や取引費用の視点から企業の戦略的・略奪的行動および市場の動的な状況の分析を可能にしてきている?といわれている。日本社会においては、知的財産権を有する事業者が知的財産を自由に使用(研究開発)収益(生産・販売)処分(ライセンス化)し得る権利を保護(Commodity)しつつ、知的財産権を含む事業活動が独占禁止法に違反する場合、他方、違法性が阻却され得る場合(Propriety)を判断するための理論およびプロセス・規準の策定が急務とされる。
2011年10月に開催された日本経済法学会のシンポジュームでは、知的財産権の権利行使と認められる場合の知的財産権諸法と独占禁止法の関係を、権利対事業行為規制の対立的図式から「知的財産権の行為規制同士間の調整問題として」枠組みすべきという学説が現れた。
そこで、I編では、事業者の活動に反トラスト法が適用される場合において、米国の学説および判例が依拠する反トラスト法理論とその規範規準を考察しておきたい。II編では、知的財産権を含む事業者の活動に反トラスト法が適用される場合に、従来の米国の学説および判例がどのように展開され進化してきているのか―とくにMACパラダイム―について考察してみたい。III編では、経済学および産業組織論の「不確実性および危険(リスク)」の観点から主に日本のNISTEPサーベイで公表された調査結果を分析して、科学技術の革新を促進する構造およびその理論を策定したい。そして現代経済法を支える根拠と理論―革新の因子および要素などによって構築される革新構造―を明らかにしておきたい。IV編において、まずIでは、日本の法体系における現代経済法および独占禁止法の位置づけを行いたい。つぎのII・IIIでは、独占禁止法と知的財産権との関係についての今日までの理論およびその問題点を明らかにする。これによって、筆者が論述する独占禁止法の法的立場を明確にしたい。IVでは、知的財産権を含む事業に独占禁止法が適用され得る日本の規範規準およびプロセスを検討する。Vでは、筆者は、対立的図式ではなく、「知的財産権の事業活動規制同士間の調整問題として」の枠組みを考慮しつつ、知的財産権を含む事業活動が私的独占、不当な取引制限および不公正な取引方法に該当し独占禁止法に違反するか否かを判断する過程に関して、MACパラダイム規準で示された内容の一部(革新を誘引し研究開発含む革新を起動するメカニズム因子)を革新構造体系の構築の参考とし、知的財産権の社会公共性を重視する視点から独占禁止法21条の積極的主張・抗弁事由を具体的に考察して法律構成を検討したい。V編では、IV編で構築した法律構成を、公正取引委員会の審決あるいは裁判所の判決において分析検討したい。VI編では、IV編で構築した独占禁止法21条の抗弁としての法律構成(抗弁のプロセスおよび抗弁事由の規範規準)は、独占禁止法違反が疑われる知的財産権を含む事業活動(審決・判例)の判断に同法を適用する過程において、どのように活用され、いままでブラックボックス化していた何を明らかにし得たのかについて述べて本稿のまとめとしたいと思う。
本稿を作成する端緒は、"Lemley、Menell、Merges、Samuelson"によって執筆された"SOFTWARE AND INTERNET LAW"を読み進めている際に、同論文で引用されたMichael A.Carrier論文の"UNRAVELING THE PATENT-ANTITRUST PARADOX"に出会ったことにある。
"UNRAVELING……"論文は、Berkey Photo v.Eastman Kodak Co. (Kodak I)事件以後の判決を詳細に検討して作成された論文であり、私も、かつて大東法政論集第2号(1994年)で同事件を取り上げたことがある。同事件に対して共通する視点は、知的財産権を含む事業活動に反トラスト法を適用する法的プロセスには、従来とは異なるプロセス・規準が含まれているというものであった。しかし、法政論集掲載当時は、その指摘に止まざるを得なかった。M.A.Carrierによって執筆された論文は、私にとって、Kodak I事件以降で下された判決をめぐる産業界の背景およびその後の理論的推移の整理を行うきっかけになったといえるであろう。
さて、本稿の作成には、中断した期間を含め6年間を要した。なぜなら、M.A.Carrierの競争政策にはどのような経済思想が存在する―SCPパラダイム、シカゴ・パラダイムあるいはポストシカゴ・パラダイムのいずれに依拠する―のかについては、"INNOVATION FOR THE 21st CENTURY" (2009年)が出版されるまで、明らかではなかったからである。つぎに、1980年代にLevin、Klevorickほかによって行われたアメリカ合衆国の「『イノベーションの専有可能性についての経済学的分析』のためのサーベイ」に相当する調査報告が、日本においては、2008年5月のNISTEPサーベイ、2010年のNISTEPレポートまで、ほとんど報告されていなかったからである。さらに、これらの報告に対する私の分析については、経営学を中心とした研究書が2011年度に出版されるまで、正誤異同を評価し得なかったからでもある。2011年10月に開催された日本経済法学会のシンポジュームにおいては、予告されかつ私が期待していたテーマ報告の中で、知的財産権諸法と独占禁止法の関係を、「権利対事業行為規制の対立的図式から『知的財産権の行為規制同士間の調整問題として』枠組みすべき」という学説が提示され、本稿は、この考えに背中を押され校了したといっても過言ではない。
ところで、昨今では、学生の就職難あるいは早期に成果が求められることの反映として、統計の収集および分析の方法、外国論文の翻訳および紹介を到達目標とした実学主義とか実学重視を前面に出した大学教育が進められる傾向にある。大学は、方法論や読解論を教育するだけでなく、それらの先に存在する「何か」を追求することを目標とする研究機関でもあるはずである。理論や理念に縛られて現実を軽視することも、現実を重視するあまり極端に理論や理念を軽視することも、ともに戒めなければならないのは勿論である。「研究・学問をする」ということは、理論と現実、理論相互、現実相互の間の弁証法的な分析・検証そして理論構築を繰り返して、より次元を高め「何か」に近づくことにあろう。それには、時間も努力も要する。本稿が前記のような内容を含むものになっているか否かは、残念ながら私自身では判断がつかない。いたずらに時間だけをかけてしまったということであるならば、それは私の努力あるいは能力不足ということにほかならない。
本日、本稿を校了するにあたり、御指導いただいた元北海道大学教授弁護士丹宗昭信先生、長年公私にわたり御指導および御支援いただいている日本大学法学部教授山川一陽先生、そして、財団法人横浜学術教育振興財団への研究助成応募を奨めていただいた横浜商科大学学長(横浜市立大学名誉教授)柴田悟一先生に、本書刊行の報告とともに心より感謝申し上げる次第である。私は、知的財産権の保護と利用を技術革新との関係から考察する視点を、東京大学教授石黒一憲著『情報通信・知的財産権への国際的視点』(国際書院、1990年)から学び、私が出版した著書に石黒先生から詳細なコメントをいただき本稿校了の励みになったこと、また御教授いただいた諸先生方の学恩および著書に、本稿をもって深く感謝申し上げる次第である。
最後に、出版界の状況が厳しい中で、2003年『知的財産の研究開発過程における競争法理の意義』の出版に続き、出版界の状況がさらに厳しくなってきている中で、ある時は叱咤しある時は激励していただいて本稿の『知財イノベーションと市場戦略イノベーション』の出版を決断していただいた㈱国際書院社長石井彰氏、ご尽力いただいた南風舎および新協印刷のスタッフの皆さんに、あつく感謝申し上げる次第である。
2012年8月20日
髙橋明弘
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