野崎孝弘 (のざき・たかひろ)
現在、大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター客員研究員
専攻:国際政治学/国際関係論、「人間の安全保障」論、表象分析
「したがって、表象様式は重要な実践なのである。……実践のない表象は存在しない……*1」。
「知性の悲観主義、意志の楽観主義*2」。
本書を執筆するに当たって再読を試みた論稿がある。1988年に刊行されたマイケル・シャピロ(Michael J. Shapiro)の好著『表象の政治学』に収められている彼の論稿「中央アメリカという他者の構築*3」である。アメリカの政府機関や各種委員会、そして同国の政策科学の担い手たちが、アメリカとラテンアメリカとの間にある搾取的な関係に覆いを被せ、自らと自らがおこなっていることへの批判から牙を抜き取る言説的な役割を果たしている姿を明らかにすること。この論文の主眼は無論、その点にある。とはいえ、表象分析が明らかにしようとするものを初学者向けに概説する上では、むしろ立論の過程でシャピロがおこなったメディア表象の分析の方が頼りになる。というのも、手短で、わかりやすい内容になっているからである。
事件は1984年12月3日の深夜に起きた。主として農薬に用いられる殺虫成分であるカルバリルを生産するために、アメリカの大手化学企業、ユニオン・カーバイド社の現地法人がインドのマッディヤ・プラデーシュ州の州都・ボパールに設置した化学工場で、イソシアン酸メチルの入った貯蔵タンクが爆発し、有毒ガスが周辺の市街地に、とりわけスラム街に流れ出した。夜明けまでに2,000人以上が死亡し、最終的には1万6,000人から3万人もの人びとが死亡したという*4。アメリカのニュース雑誌である『タイム』誌は事故発生の報を受けて、同年12月17日号に特集記事を掲載した。その中でボパールでの出来事は、苦しむ犠牲者たちの写真―呼吸困難に陥った子どもたちに寄り添う父親らの姿を写した、記事冒頭の写真―と、「環境」と書かれた大きな見出しによって表象されていた*5。
なぜ、この種の化学工場がインドのボパールに設置されたのか*6。ひとたび、このような疑問を抱けば、世界の裏の現実である、危険性のグローバルかつ不均等な配分が姿を見せてくる。健康と安全性に対する意識が比較的高いとされる住民を擁した先進国の企業は、自国政府との共犯関係の下に、より危険な労働形態を途上国に輸出している。グローバルな規模で不均等に配分された福利と安全性を自国民に提供している先進国は、さまざまな危険性を途上国に輸出することによって、この種の世界的不平等を増幅させる傾向にある。だが、先進国の対外政策決定過程と、受入国たる途上国、およびその地方政府の対外政策決定過程が、危険性のグローバルかつ不均等な配分の責任を問われ、政治的に糾弾される事態はまず起こりえない。それは、国際政治と対外政策にかかわる言説空間の、ある意味での歪み、すなわち偏向のなせる業であろう。危険性のグローバルかつ不均等な配分から国家の対外政策決定過程を免責すること、それが同言説空間の構成上の特徴だからである。したがって、ボパールでの出来事を環境問題にかかわる事件として描き出す『タイム』誌の事件報道は、こうした特徴を見せる言説空間の維持に手を貸してしまうものである。無論、私たち自身も例外ではない。私たちは、国際政治と対外政策にまつわる言説空間の中にボパールでの出来事を位置づけることによって同事件の政治化を意識的に図ろうとはしない。むしろ、環境にかかわる言説空間の中でこの事件に対する見方を規定してしまうか、アメリカのウェストバージニア州にある同種の工場で適用されてきた安全基準と比べて不十分なそれをボパールの化学工場に適用し、従業員の安全の確保と健康管理を怠ってきたユニオン・カーバイド社を糾弾すれば済むと考えてしまう傾向がある。そうすることで私たちは、自らの言う「政治」から危険性の輸出・輸入という争点を排除しつづける「国際政治なるもの」の存続に手を貸してしまっているのである。シャピロは以下のように結論付ける。
「ボパール事件に関する『タイム』誌の特集記事が理解しやすく、ありきたりのものであるかぎり、すなわち、『タイム』編集部の世界に対するうつろなまなざしが、ボパール事件は環境問題にかかわる事件であるというストーリーを軽々しく……創作することができるかぎり、私たちに『国際システム』を提供する現行の実践は、私たちの理解の仕方を規定し得る安定した地位を保証されることになるのである*7」。
この「私たち」の中には当然、「人間の安全保障(human security)」の提唱者らも含まれよう。国連開発計画(UNDP)が提唱した「人間の安全保障」は、ボパール事件を『タイム』誌と同様の観点から理解し、問題視するありきたりの姿勢を露わにしてきたからである*8。特定の表象や学術的言説が現行の権力関係や支配的な実践系を正当化し、常態化している姿を明らかにすること。それを狙いとする表象分析のまなざしがこの新しい安全保障観をターゲットとするものでもあるということは、改めて言うまでもない。
本書は、2000年から2010年にかけてのおよそ10年間に、表象をめぐる政治について書き著した論稿を加筆・修正のうえ一冊の本に取りまとめたものである。それぞれの論稿を執筆した時点で私が考えていたことをより効果的に読者に伝えるためには、推敲の作業が不可欠である。このような判断の下に大幅な加筆・修正を施した論稿もあるが、当時の主張そのものを捻じ曲げてしまう「改竄」はいっさいおこなわなかった。
第I部「表象をめぐる闘争」は、2000年に大学院の紀要に発表した「表象をめぐる闘争から何がわかるか―アイデンティティ、国家、国際関係論との関連で(1)・(2)―」と、同年に『神奈川大学評論』に発表した「記憶と表象―世界と政治の意味をめぐって―」の二つの論稿を収録している(文献情報については「初出一覧」を参照されたい)。従来、国際関係論においては、表象をめぐる闘争と軍事的なものとは特に無縁のものと考えられてきた。だが、北大西洋条約機構(NATO)の基本戦略やアメリカの核抑止戦略の背景をなすものを考えれば、この常識的な見方が誤りであることは明らかである。第1章「表象をめぐる闘争から何がわかるか」では、トンキン湾事件やコソヴォ戦争、スーダン・ミサイル攻撃―1998年にアメリカが実施―を例に、表象をめぐる闘争のメカニズムについて説明し、闘争が生起する存在論的な条件とは何かを明らかにする。表象をめぐる闘争は、表象するものと表象されるものとの部分的な外部性、根源的なズレから生じる。国際関係論の視野に表象をめぐる闘争が入らないのは、この学問領域が、表象するものと表象されるものとの間にズレを生じさせる欠如を世界から消滅させる発想に貫かれているからである。表象をめぐる闘争は、分析の名の下に世界の在りようを一変させる暴力的な行為を続けるのではなく、本質主義的な発想を克服することで現実政治の場面に降り立つよう国際関係論の研究者たちに求めている、と主張したい。
続く第2章「記憶と表象」では、1990年代に議論を呼んだ集合的記憶にかかわる問題を旧ユーゴスラヴィア戦争を事例に考察し、記憶と忘却の社会的産出として現れる、表象をめぐる政治のメカニズムについて説明している。表象をめぐる闘争の帰趨は、戦いの局面だけで決するわけではない。闘争の場と社会空間には、特定の表象的実践を後押しする歴史的な力が働いている。私はこれを「潜勢力」と呼び、分析に際してはこの力の作動を視野に入れることが必要だ、と訴える。
次に、第II部「安全保障の政治学」は、2002年に『現代思想』に発表した「安全保障の政治学―国家から人間への視座の転換を問う―」と、2004年に刊行された共著論文集『人間の安全保障―世界危機への挑戦―』に寄せた拙稿「人間の安全保障と政治―日本の『選択的受容』の意味―」、そして、2005年に刊行された共著論文集『地域主義の国際比較―アジア太平洋・ヨーロッパ・西半球を中心にして―』に収められている拙稿「FTAAと『人間の安全保障』―NAFTAの全米化は誰に不利益をもたらすのか―」の三つを収録している(文献情報については「初出一覧」を参照されたい)。UNDPが1994年に提唱して以来、すでに十数年の歳月が流れた「人間の安全保障」であるが、世界規模で受容が進み、その概要が人びとの間に知れ渡るにつれて、「人間の安全保障」は予想すらしなかった政治的な事態に直面することになった。というのも、1994年度の『人間開発報告書*9』で示されたその精神を無視する形で横領行為を働く数々の「人間の安全保障」論が出現し、幅を利かすようになったからである。第3章「安全保障の政治学」では、この横領行為の最たるものである、国家安全保障と「人間の安全保障」は対立するものではない、補完しあう関係にある、との解釈を取り上げる。「人間の安全保障」をめぐる議論の場において支配的な、このもっともらしい解釈は、国家安全保障を「人間の安全保障」に奉仕するものとは位置づけない。むしろ、後者を前者に奉仕させる特異な発想に立つ。私は、本章での議論を通じて、国家安全保障と安全保障研究、そして国家主権の原則が、近代文化の後押しのもとに人間を選別するよう前述の議論の場に圧力をかけており、それ故「人間の安全保障」には、選別の要求に抗して「人間」の範囲を拡張しつづける政治戦略が必要である、と主張したい。
続く第4章「人間の安全保障と政治」では、UNDPが提示した「人間の安全保障」をあえて「原典」と表現しつつ、「人間の安全保障」の精神とはいかなるものなのかを改めて確認し、その解釈がいかに多様な形態を取りうるかを概略的に再現している。その作業を踏まえ本章後半では、横領行為のもう一つの事例である、対外政策としての「人間の安全保障」論を取り上げる。対外政策の柱の一つに「人間の安全保障」を掲げ、国連に対し「人間の安全保障委員会」の設立を働きかけたのは、他でもない日本政府であった。脅威は国境の外にあるとの前提を捨て、対外関係においてのみ「人間の安全保障」を受容する「選択的受容」の態度を改めることができるか。自らが推し進める政策によって人間の安全が脅かされている現状を認め、是正に向けた一歩を踏み出すことができるか。横領行為に対して脆弱な「人間の安全保障」の命運は、実は日本政府が握っている、と主張したい。
続く第5章「FTAAと『人間の安全保障』」では、人間の安全保障委員会の『最終報告書*10』による継承と発展を通じて、新自由主義に対し批判的な態度を取るようになった「人間の安全保障」の「変容」を検証する。周知のように、UNDPが提唱した「人間の安全保障」は、最も弱い立場にある個人や人間集団の一つとして先住民族を挙げ、彼/彼女らが経験している日常的な人間不安を克服するよう国家と国際社会に対して要請してきた。この要求が単なるリップ・サービスに終始しないためには、その脅威が歴史的に創り出されてきたものであるという事実を、新自由主義経済政策と新自由主義的グローバリゼーションによって構造的に増幅されているという事実を見据えることが必要である。メキシコの先住民族は、500年以上に及ぶ搾取と分断の歴史の果てに、北米自由貿易協定(NAFTA)によって死の宣告を突き付けられ、武装蜂起することを余儀なくされた。新自由主義からの脱却を志向し、NAFTAの全米化を阻止したブラジルに目を向ければ、同国内に生きる先住民族が土地の境界画定を求める声を一段と強めている。彼/彼女らの積年の要求に応えるよう同国の労働者党政権に働きかけることで、米州自由貿易地域(FTAA)構想が新自由主義の軍門に下ることを阻止し続けようとする発想が「人間の安全保障」から出てこないのであれば、新自由主義に敵対するヘゲモニックな集合体の勝利に、この新しい安全保障観が貢献する日はこないであろう。実効性のある解決策の名の下に、国家の合意を得やすい条文の作成の名の下に「国連先住民の権利に関する宣言」が骨抜きにされ、土地問題の解決が永遠に引き延ばされていく国際社会の現状に風穴を開けることができないのであれば、前述の「変容」そのものがリップ・サービスであったと判断せざるをえなくなる。「人間の安全保障」は誰のために存在しているのか。その優先順位にはたして意味はあるのか。私は、現行の「人間の安全保障」に対して懸念を表明する。
次に、第III部「日常化する世界政治」は、2010年に刊行された共著論文集『世界政治を思想するI』に寄せた拙稿「国際関係の文化的次元―表象をめぐる政治は私たちに何を求めているのか」と、同じく2010年に刊行された共著論文集『国際関係論のニュー・フロンティア』に収められている拙稿「表象分析への誘い文化的次元から見る国際関係」の二つを収録している(文献情報については「初出一覧」を参照されたい)。メディアの影響力が増大し、表象をめぐる闘争の場が増殖したことを受けて、軍事問題をはじめとする国際政治現象でさえも日常生活レベルで知覚され、判断されるようになってきている。政治のサブカルチャー化が進行し、人びとの心理的なメカニズムに重大な変化が生じた今日の日本の社会状況を考えたとき、表象をめぐる政治への視座は、ある視点を兼ね備えるよう要求する。表象を精査し、いずれかの表象を選び取りながらも、その行為を相対化するアイロニカルな視点が私たちには必要である、と主張したい。
この第6章「国際関係の文化的次元」での議論を発展させつつ、私がこれまでにおこなってきた表象分析の締め括りにふさわしい総覧的な議論を展開しているのが、第7章「表象分析への誘い」である。表象分析は、特定の表象や学術的言説が現行の権力関係や支配的な実践系を正当化し、常態化している姿を明らかにする。現実と学問の敷居などものともせずに協働関係を取り結ぶ実践系同士が飽くなき闘争を繰り広げているさまを、言説批判を通じて浮き彫りにしようとする。分析に際しては、表象をめぐる闘争の領野に「外部」は存在しないという事実と、外的諸力の作動に留意する必要があるが、中でも、表象を精査しながらもその行為を相対化するアイロニカルな視点が不可欠である。表象分析は、自らを相対化するアイロニーの視点を兼ね備えた政治的な投企でなければならない、と主張したい。
そして最後に、本書の末尾に記した短い拙文では、旧ユーゴスラヴィア戦争が私の議論に及ぼした影響について当時を振り返りながら語っている。表象分析へと私を誘い、グラムシ派批判理論からポストマルクス主義/ポスト構造主義/ポストモダニズムへと私の理論的な立ち位置を移動せしめた出来事がこの戦争、とりわけボスニア・ヘルツェゴヴィナ戦争であったことを正直に明らかにしている。前著『越境する近代*11』の「あとがき」と併せて一読を願いたい。2012年5月13日
著者
各章の末尾には、初出論稿の発行年月を丸括弧で括って書き添えてある。なお、出版社に原稿を提出してから店頭に並ぶまでに1年以上の期間を要した論稿については、発行年月と併せて提出年月を拮抗括弧で括って記してある。
*1: Michael J. Shapiro, "The Constitution of the Central American Other: The Case of Guatemala'," in The Politics of Representation: Writing Practices in Biography, Photography, and Policy Analysis(Madison: The University of Wisconsin Press,1988), p.97.
*2: Antonio Gramsci, Selections from the Prison Notebooks of Antonio Gramsci, trans. and eds. Quintin Hoare and Geoffrey Nowell Smith(London: Lawrence and Wishart,1971), p.175.論文「グラムシとロマン=ロラン」の中で藤岡寛己が詳述しているように、この言葉は、ロマン・ロラン(Romain Rolland)の座右の銘に深い感銘を受けた青年期のアントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci)が、自身と同志たちへのエールとして後に使用し、広く知れ渡るようになったものである。藤岡寛己「グラムシとロマン=ロラン―グラムシによるロマン思想の受容について―」福岡国際大学編『福岡国際大学紀要』No.23、2010年、1–21頁を参照されたい。
*3: Shapiro, op. cit., pp.89–123.
*4: 以下を参照。ドミニク・ラピエール/ハビエル・モロ(長谷泰訳)『ボーパール午前零時五分(下)』(河出書房新社、2002年)、とりわけ106–196頁;ボパール事件を監視する会編『ボパール死の都市―史上最大の化学ジェノサイド―』(技術と人間、1986年)、とりわけ同書所収、谷洋一「半年後のボパール―水俣からボパールへ―」、12–13頁。
*5: 以下を参照。'Cover Stories: India's Night of Death,' Time: The Weekly Newsmagazine, December17, 1984, pp.8–15.
*6: 以下でおこなうシャピロの分析の紹介は、次の文献の該当箇所を参考に私がまとめたものである。Shapiro, op. cit., pp.95–97.
*7: Ibid., p.97.
*8: 以下を参照。United Nations Development Program, Human Development Report1994(New York: Oxford University Press,1994), p.29.国連開発計画編『人間開発報告書1994』(国際協力出版会、1995年)、29頁。
*9: Ibid.同上訳書。
*10: Commission on Human Security, Human Security Now (New York: Commission on Human Security, 2003).人間の安全保障委員会(人間の安全保障委員会事務局訳)『安全保障の今日的課題―人間の安全保障委員会報告書―』(朝日新聞社、2003年)。
*11: 拙著『越境する近代―覇権、ヘゲモニー、国際関係論―』(国際書院、2006年)。
表象をめぐる政治への私の関心は、大学院の修士課程でグラムシ派批判理論を学んでいた1995年12月にまで遡る。折しもバルカン半島では、セルビア系住民とクロアチア系住民、そしてムスリムが3年半にも渡って血で血を洗う戦いを繰り広げてきたボスニア・ヘルツェゴヴィナ戦争が、ようやく終結を迎えようとしていた。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナは多文化共生の地であったはずである。サラエヴォの街並みにその在りようが端的に示されているトランスヴァーサルな共生をはかる姿勢は、とりわけムスリムのアイデンティティ構造を規定するものであり続けてきたはずである。レナータ・サレツル(Renata Salecl)が指摘しているように、ボスニアのムスリムは、「ユーゴスラヴィア連邦のトランスナショナリティを字義通り体現し、『兄弟愛と統一』という考え方を信じていた唯一の人びと*1」であった。にもかかわらず、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは、排他的なアイデンティティ・ポリティクスが跋扈する戦場と化した。戦争が始まってもなお、トランスナショナルな姿勢を保持しつづけていたムスリムでさえ、最終的には、排他的なアイデンティティ・ポリティクスの軍門に下る内なる変容を見せるに至った*2。こうしたアイデンティティの変容は、どのようにして起きるものなのか。ムスリムがナショナリスティックな主体と化したことと、戦場で使用される兵器としてレイプが組織的に用いられたこととの間には、どのような関係があるのか。そもそも、セルビアやクロアチアの人びとを、ボスニアのセルビア系住民やクロアチア系住民をナショナリスティックな主体へと変貌せしめた要因とは、いかなるものだったのか。デイヴィッド・イーストン(David Easton)の想像力を遥かに超える、政治の表象的次元にかかわるこうした問いに、私の関心は吸い寄せられていった。
表象分析への転回が私に及ぼした影響は大きい。旧ユーゴスラヴィア戦争に関する私自身の見方を規定してきた三つのストーリーの実像を思い知らされる結果になった。例えば、アメリカとドイツで一世を風靡した「民主主義と全体主義との戦い」というストーリーは、クロアチアのフラニョ・ツジマン(Franjo Tuđman)体制が持つスロボダン・ミロシェヴィッチ(Slobodan Milošević)体制との類縁性*3には目を瞑るよう、聞き手に対し要求するものである。また、湾岸戦争を彷彿とさせる「ミロシェヴィッチ=悪」の表象図式は、セルビアの市井の人びとがナショナリスティックな主体と化してしまった要因を不問に付すよう私たちに要求するものである。そして、メディアを通じて広く喧伝されてきた人類学的なストーリー(「紛争の原因を深く理解するためには、バルカン半島の血塗られた歴史を知っておかなければならない」)は、ウスタシャとチェトニクによる民族浄化の記憶が覚めやらぬ第二次世界大戦後のボスニア・ヘルツェゴヴィナで、数十年間に渡って実現されてきたトランスヴァーサルな共生の記憶を忘却するよう視聴者に働きかけるものである。国際問題に関心を抱く知識人サークルでまことしやかに語られてきたこうしたストーリーへの違和感は、後年、国際関係論がその根底に潜ませる、世界に対する見方そのものへの批判となって、拙著『越境する近代*4』での本質主義批判とモダニティへの批判につながった。
表象分析への転回がもたらしたもう一つの帰結は、私自身の立ち位置に変化が生じたことである。グラムシ派批判理論が提示した「社会的諸関係の複合体」という存在論は、社会的アイデンティティの非固定的な性格を視野に入れることができない。例えば、覇権的な世界秩序の在りように関してロバート・コックス(Robert W.Cox)が述べた次の一節は、社会的アイデンティティの非固定的な性格を彼が認めていたことを示す証左だと強弁する者もいるだろう。「私はヘゲモニーを、単一のパワーによる支配を意味するためにではなく、他のパワーの諸利益へのいくらかの譲歩を伴い、結果として、あらゆる(もしくは大部分の)パワーが当該秩序の維持を一般利益であるとみなすとともに、それを普遍性の観点から位置づけることができるような支配の特殊な形態を意味するために用いる。それが共通の規範と、世界秩序についての共通の考え方を包含している限りで、ヘゲモニックな秩序は国家間のアレンジメントを超える。一つの社会秩序になる。国家だけでなく個人や組織、学派でさえも、それと同一化しようとするのである*5」。だが、この同一化を描き出す際にコックスが用いる図式は、かつてアントニオ・グラムシが用いた「イデオロギー的諸要素の節合」ではない。他のパワーの諸利益に一定の配慮を加えながら自らが練り上げた支配的イデオロギーを、第一位のパワーが他のパワーに課すという図式、いわゆる「イデオロギー的教化」の図式である*6。イデオロギーを「虚偽意識」と捉える非グラムシ的な発想を根底に潜ませるこの図式に基づく限り、ヘゲモニー的同一化は決して起こりえず、利害の局面的な合致、すなわち、ウラジーミル・レーニン(Vladimir Ilyich Lenin)の言う「階級同盟」が成立するのみである*7。「『虚偽意識』の背後にあって『真正な意識』の存在を予示する真偽の区別*8」ほど、社会的アイデンティティの非固定的な性格と相容れないものはないのである。
こうしたグラムシ派批判理論の問題点に私自身が気づくきっかけを与えてくれたのは、他ならぬスティーブン・ギル(Stephen Gill)が著書『地球政治の再構築*9』の中で、グラムシ解釈をめぐる異説として紹介した以下の二つの研究であった。一つは、エルネスト・ラクラウの著書『資本主義・ファシズム・ポピュリズム*10』であり、もう一つは、シャンタル・ムフが編集した論文集『グラムシとマルクス主義理論*11』である(もしギルが、異説の存在の背後に潜む世界観の違いにまで踏み込んでいたら、彼の存在論に対する私の批判はなかったかも知れない。その場合、私自身の理論的な立ち位置の移動も生じることはなかったであろう)。これら二つの研究と、グラムシのヘゲモニー論に新たな地平を切り開いたことで知られるラクラウとムフの共著『ポスト・マルクス主義と政治*12』は、先に挙げた一連の問いに、とりわけ、その第一関門たる、社会的アイデンティティの変容にかかわる問いに明確な解答を与えるものであった。その解答については、拙著『越境する近代』の第4・第5章と、本書第1章から第3章、および第7章での議論を参照されたい。
次に、第二の問いである。この身の毛がよだつ暴力のそもそもの狙いに関して説得力のある議論を展開しているように思われたのは、ラクラウが編集した論文集『政治的アイデンティティの形成*13』に収められているサレツルの論文「旧ユーゴスラヴィアにおけるアイデンティティの危機と新しいヘゲモニーをめぐる闘争*14」であった。関連性があるどころではない。セルビアの武装勢力は、ある目的を達成するためにレイプを組織的に行使した。トランスナショナルなホームランドに代わって、ナショナルなホームランドという幻想の構造をムスリムに抱かせるために、そして、民族に基づいてボスニア・ヘルツェゴヴィナを分割しようとするセルビア・ナショナリズムの、そしてクロアチア・ナショナリズムの策略にムスリムを引き擦り込むために、セルビアの武装勢力は兵器としてレイプを行使したのである*15。少々長いが、この点に関するサレツルの分析を以下に引用することにしよう。
「とりわけ、ムスリムに対してセルビア人がおこなった非人間的な迫害は次の事実を明らかにしている。すなわち、侵略者は、ホームランドという幻想の構造をムスリムが保持していないことに気づき、当惑してしまったという事実を。ムスリムが民族に基づいたホームランドという幻想を組織していないことは、セルビア人にとって耐えられないことであったかのようである。セルビア人が、民族的・宗教的に過激な勢力であるとの敵のイメージを必死になって創り出そうとし、ムスリムを『ジハードの戦士』や『グリーンベレー』、『イスラム原理主義者』と表現しているのは、そのことが理由である。ムスリムをひどく痛めつけることによってセルビア人が実際におこなおうとしているのは、彼/彼女らを刺激することでムスリム原理主義へと走らせることである。したがって、セルビア人の主要な目的は、ムスリムのモスクを破壊したり、ムスリムの若い女性をレイプしたりすることで、ムスリムの宗教的アイデンティティをけなすことである。ムスリムの女性にとって、レイプはとりわけ悲惨な犯罪である。というのも、彼女たちが信仰する宗教は、婚姻前のいかなる性交渉も厳格に禁じているからである。それ故、ムスリムの若い女性にとって、レイプは象徴的な死を意味する。戦争の目的が、住民全体の幻想の構造を破壊することにあるとすれば、レイプの目的は――他のいかなる形態の拷問の目的と同じように――個人の幻想の構造を打ち砕くことである。ムスリムの女性をレイプするまさにそのやり方と、侵略をおこなった側の兵士がレイプを、捕えた女性に対しておこなわなければならないある種の『義務』として理解しているという事実は、侵略者の目的が、彼女らの宗教的・性的アイデンティティを傷つけるようなやり方で個々の女性の幻想の構造を精確に破壊することにある、という点を明らかにしてくれる。それを通じてムスリムの女性が外界と自分自身を一貫したものとして理解する枠組みそのものを、すなわち、彼女が自らのアイデンティティと、彼女が属す世界のアイデンティティを組織化する方法そのものを解体することが、こうした攻撃の狙いである。懲罰の一つの形態であるレイプの目的は、常に、犠牲者に屈辱を与えること、彼女が属す世界を破壊することにある。その結果、女性は、以前と同じ自分とは二度となりえず、かつておこなっていたのと同じ方法で自身を理解することができなくなる。これをまさに促すために、侵略者は最も悲惨な形態の懲罰を考案している。両親の目の前で女性をレイプしたり、近親相姦をおこなうよう要求したりといった懲罰を考え出しているのである*16」。
ボスニアのムスリム、とりわけ都市部に生きるムスリムは、戦争の
次に、第三の問いに関してである。セルビアやクロアチアの人びとを、ボスニアのセルビア系住民やクロアチア系住民をナショナリスティックな主体へと変貌せしめた要因とは、いかなるものだったのか。それは、1980年代以降、実行を迫られたマクロ経済改革に起因する、旧ユーゴスラヴィア経済の急速な崩壊である。その崩壊への序曲は、同国経済が好調ぶりを見せていた70年代の後半からすでに奏でられ始めていた。旧来の成長戦略への固執*21と、金融、外貨管理、さらには経済的意思決定全般の過度の分権化が対外債務を無秩序に増大させる――「71年に32億ドルであった対外累積債務は……79年には150億ドルに近づいた」――原因となったことは、著書『ユーゴ自主管理社会主義の研究』の中で小山洋司が説き明かした通りである*22。だが、80年に始まった第一次マクロ経済改革は、集権化へと舵を切り直すよう連邦政府に強く働きかけるものではなかった。むしろ、同国の先進地域であるスロヴェニア・クロアチア両共和国の利害に即す形で「現状」――各共和国・自治州が、とりわけ経済面で、地域的閉鎖傾向とアウタルキー的傾向を強めている現状*23――を追認し、杓子定規の改革を施すものであった。この改革は「……成長率の低下と債務の増加、債務返済負担の過重、貨幣の価値下落を呼び起こし、ユーゴ国民の生活水準を急激に低下させた」だけではない。それは「政治的安定を脅かし」、社会集団間の「対立も増幅させた*24」。加えて、国際通貨基金(IMF)の支援のもとに83年に始まった「第二次経済安定化政策は、かなり激しいインフレーションを引き起こし……貿易自由化と貸出凍結措置によって、投資は有史以来最低を記録した*25」。かつては7%台を誇った工業生産額の年間成長率も、80年代後半には0%に低下し、90年にはマイナス10%を記録した*26。この傾向に拍車をかけたのが、同年に始まった新自由主義経済改革、いわゆる「ショック療法」である。アメリカの著名な経済学者であるジェフリー・サックス(Jeffrey David Sachs)を主要顧問としつつ、連邦首相アンテ・マルコヴィッチ(Ante Markovi)が推進したこの改革によって、連邦政府は「連邦予算を債務返済用に回すために……共和国と自治州に対する予算支援を中断」せざるをえなくなった*27。そのため、すでに経済的には分裂状態にあった旧ユーゴスラヴィア連邦の「政治的分裂と分離主義運動がいっそう過熱*28」し、スロヴェニア・クロアチア両共和国の分離独立を期待するドイツの思惑通りに事が推移し始めた。残るは、誰が敵なのかを明確に示すだけでなく、輝かしい未来に関するイメージで人びとを魅了する――「そこに立って自分を見た場合、その姿が自分にとって好ましく思われるような場所*29」を人びとの心の中に構築する――政治勢力の登場を待つばかりである。民族問題を解決すれば、経済問題をはじめとするあらゆる問題を解決することができる。西側諸国と新自由主義者は、そう人びとに信じ込ませることができる政治勢力の台頭を促すような〈構造〉の構築に、並々ならぬ努力を注いできたのである。
労働者の反応は早かった。年を追うごとに暴動が頻発した。この国の現在の指導部は、かつて自分たちと取り交わした契約を反故にしようとしている。「政治家=官僚(political bureaucracy)に完全な権限を与える代わりに、社会保障と『労働しなくてもよい権利』に加え、生存に必要な最低限度のものを人びとに与える*30」。サレツルが指摘したように、「労働者が上げた抗議の声は、政治家=官僚に対して〔この〕契約を全面的に破棄しないよう求める死に物狂いの訴えであった*31」。だが、IMFの支援の下に西側諸国が実行を迫った経済安定化政策に基づいて改革を進める政治家=官僚にとって、労働者のこの要求は受け入れられるものではなかった。この間隙を突いたのがミロシェヴィッチである。彼は約束した。「権力を与えられた暁には、各共和国の腐敗した官僚たちとは異なり、労働者との契約によって定められた義務を果たしていくつもりである*32」、と。自主管理イデオロギーが崩壊し始めると同時に再び幕を切って落とされた、「自由に浮遊する異質な諸要素をどの言説が『縫い直す』かをめぐって繰り広げられる戦い*33」、すなわちヘゲモニー闘争は、ミロシェヴィッチを中心とする政治勢力が、コソヴォ自治州からのセルビア系住民の移住問題を取り上げた80年代の後半に新たな局面を迎えた。セルビアに限らずどの共和国でも、ヘゲモニー闘争は、民族的アイデンティティを軸に展開されるようになったのである*34。90年におこなわれた、連邦初の複数政党制に基づく自由選挙の結果は、いずれの共和国においても、ナショナリズムを取り入れた政治勢力の勝利に終わった。かくして、80年代の前半に著書『凡人たちの社会主義』の中で岩田昌征が発した「未来への警告*35」は、10年も待たずして現実化する運びとなったのである。自由主義的な政治勢力は、どの共和国でも敗北を喫した。その原因は何か。サレツルの分析は極めて明快である。
「自由主義者が失敗した理由はまさしく、彼らがナショナリズムを分節化〔表現〕できなかったことにある……。自由主義勢力が、例え最良の政治プログラム――マイノリティの権利を認め、女性問題や環境問題を分節化し〔政治課題とし〕、とりわけ、社会主義から脱却しつつある社会が抱える経済問題を解決しようとするプログラム――を掲げていたとしても、選挙民は自由主義者の政治理念に共感しなかった。なぜならば、自由主義者は、自らを非民族主義者として規定していたからである。重要なのは、経済などにかかわる事柄ではなく、ある問題をイデオロギーを用いて象徴化する時の方策であるということに、自由主義者は気づいていなかった。民族主義者の政党は、うまい具合にイデオロギーを操作したが、その操作の最も重要なポイントは、現実の(経済にかかわる)問題のすべてを民族のアイデンティティにかかわる問題に従属させるという点であった。民族主義者は、首尾よく選挙民を説得し、民族問題を解決すれば他の問題もすべて解決すると信じ込ませたのである*36」。
その後、旧ユーゴスラヴィアに起きた一連の出来事を考えれば、民族のアイデンティティにかかわる問題をナショナリスティックな政治勢力に譲り渡してしまった自由主義者の責任は重い。というのも、例え〈構造〉の縛りがあったとしても、後者の勢力が「民族的アイデンティティを、多元的で民主的な諸価値の等価物としてその列に加える方法を見出す*37」ことに成功していたら、スロヴェニアでの「10日間戦争」(1991年6・7月)に始まる旧ユーゴスラヴィア戦争は、私たちの知るそれとは異なる展開を見せていたことだろう、そう考えざるをえないからである。問題は、その方策の内容である。多元的で民主的な諸価値の等価性連鎖に民族的アイデンティティを組み込む方法とは、具体的にはどのようなものなのであろうか。サレツルの分析は答えてくれない。ヘゲモニー闘争に従事する三つの政治勢力――セルビアとモンテネグロの場合はその限りではないが、かつての共産主義者同盟を中心とする政治ブロックが、ここで言う「三つめの政治勢力」に当たる――の一つをさりげなく後押ししている〈構造〉の効果にどう抗いながら、民族的アイデンティティの節合にまつわる戦いを自由主義勢力は進めるべきであったのか。彼女の分析からは、その答えを見出すことができない。これら二点を自らに課せられた今後の課題としつつ、私は以下の知見を、この第三の問いにまつわる考察から導き出すに至った。【1】新自由主義経済政策/新自由主義的グローバリゼーションと排他的ナショナリズムは協働関係を取り結んでいる。【2】ヘゲモニー闘争の帰趨を決するのは経済的
おそらく10年後も、表象をめぐる政治への関心を失わずにいることだろう。アイデンティティ・ポリティクスへの関心、私たちを内側から衝き動かす衝動への関心、とりわけ、ナショナルな情動への関心は今後も続くことが予想される。無論、ナショナリズムという言葉で事実上、排他的ナショナリズムを意味してきたこれまでの議論を再生産し続けるつもりは毛頭ない。そもそも、私が一貫して排他的ナショナリズムについて論じてきたのは、例えば、マイケル・ビリッグ(Michael Billig)の言う「平凡なナショナリズム(banal nationalism)」――日常生活レベルでのイデオロギー的・慣習的な――儀式を通じてネーションの再生産を遂行するナショナリズム*39にせよ、スコットランドやウェールズ、カタルーニャなどで見られる「控えめなナショナリズム(small nationalism)」にせよ、あらゆるナショナリズムには、排他的ナショナリズムへと向かう傾向的諸力が内側に働いているとの理解があったからであり、こうした内なる潜勢力に抗して、自らが変貌してしまう事態を遅らせることができる「外部からの工夫」が必要であるとの認識に立っていたからである。私自身、共訳者のひとりとして名を連ねた『「人間の安全保障」論*40』の中で、メアリー・カルドー(Mary Kaldor)は「控えめなナショナリズム」を肯定的に評価した。それは、控えめなナショナリズムが「ローカルなレベルで民主主義を強化し、文化的な多様性を擁護する可能性を秘めたもの*41」だからだという。だが、彼女はさらに続けて、次のように付言する。「控えめなナショナリズムは、より視野の広いコスモポリタンな視座の中に自らを位置づけることが必要*42」である、と。こうした補足、すなわち、異なる戦略との協働を通じた、変貌する可能性の外的克服こそ、私の言う「外部からの工夫」の表れである。今後の課題の一つは、主としてクウェイム・アンソニー・アッピア(Kwame Anthony Appiah)の議論*43をもとに、コスモポリタンな理念は「人道主義的な原則と規範への関与」を意味するだけでなく、「人間は平等であるとの想定に、差異の承認と、さらには多様性の称揚とを結びつけたものである」と主張したカルドーの議論*44に大いなる賛辞を贈りつつも、彼女の言う「コスモポリタンな理念」と私の議論との間にある見解の相違を見極め、協働関係を取り結ぶ方途――無論、あるとすればだが――を探り出すことであろう。アッピアの言う「コスモポリタン的愛国者」の議論も含めて、詳細な検証に付すべき主張は未だに多く残されている。
最後に、本書を刊行するに当たってご支援いただいた方々に厚く御礼申し上げたい。とりわけ、指導教授である山本武彦・早稲田大学政治経済学術院教授と、本書の出版に際してご指導を賜った国際書院の石井彰・代表取締役に厚く御礼申し上げる。また、本書を構成する各章の初出論稿を再録するに当たっては、代表して佐藤誠・立命館大学国際関係学部教授と、佐藤幸男・富山大学人間発達科学部教授、そして前田幸男・大阪経済法科大学法学部准教授と山本武彦教授に許可をいただいたほか、神奈川大学評論編集専門委員会と青土社『現代思想』編集部、東信堂、早稲田大学出版部、そして成文堂に許可をいただいた。この場を借りて感謝の意を表したい。
*1: Renata Salecl, "The Crisis of Identity and the Struggle for New Hegemony in the Former Yugoslavia," in Ernesto Laclau, ed., The Making of Political Identities(London: Verso, 1994), p.229.
*2: 以下を参照。Ibid., pp.229–230.
*3: この類縁性に関しては、メアリー・カルドーも同様の指摘をおこなっている。以下を参照。Mary Kaldor, Human Security: Reflections on Globalization and Intervention(Cambridge, U.K.: Polity, 2007), pp.124–125. 山本武彦/宮脇昇/野崎孝弘訳『「人間の安全保障」論―グローバル化と介入に関する考察―』(法政大学出版局、2011年)、179頁。
*4: 拙著『越境する近代―覇権、ヘゲモニー、国際関係論―』(国際書院、2006年)。
*5: 同上、74頁。また、以下も参照。Robert W.Cox, "Production, the State, and Change in World Order," in Ernst-Otto Czempiel and James N.Rosenau, eds., Global Change and Theoretical Challenges: Approaches to World Politics for the1990s(Lexington: Lexington Books, 1989), p.42.
*6: 以下を参照。同上拙著、74–76, 82, 187–189頁。
*7: 以下を参照。同上、185–188頁。
*8: 同上、76頁。
*9: Stephen Gill, American Hegemony and the Trilateral Commission(Cambridge: Cambridge University Press, 1993), in note31, p.249. 遠藤誠治訳『地球政治の再構築―日米欧関係と世界秩序―』(朝日新聞社、1996年)、xiv頁、注(31)。
*10: Ernesto Laclau, Politics and Ideology in Marxist Theory: Capitalism, Fascism, Populism(London: NLB, 1977). 横越英一監訳、大阪経済法科大学法学研究所訳『資本主義・ファシズム・ポピュリズム―マルクス主義理論における政治とイデオロギー―』(柘植書房、1985年)。
*11: Chantal Mouffe, ed., Gramsci and Marxist Theory (London: Routledge & Kegan Paul, 1979). とりわけ、168–204頁に収められている彼女の論文「グラムシにおけるヘゲモニーとイデオロギー(Hegemony and Ideology in Gramsci)」は、私のグラムシ解釈に多大な影響を与えた。
*12: Ernesto Laclau and Chantal Mouffe, Hegemony and Socialist Strategy: Towards a Radical Democratic Politics(London: Verso, 1985). 山崎カヲル/石澤武訳『ポスト・マルクス主義と政治―根源的民主主義のために―』(大村書店、1992年)。
*13: Ernesto Laclau, ed., The Making of Political Identities (London: Verso, 1994).
*14: Salecl, op. cit., pp.205–232.
*15: 以下を参照。Ibid., pp.230–231. また、後年の展開を踏まえつつ、カルドーも同様の見方を示している。例えば、以下を参照。Kaldor, op. cit., pp.3–4, 124–125, 127–128, 130, 132. 前掲訳書、7, 179, 183–184, 187–188, 190–191頁。
*16: Salecl, ibid., p.230. また、以下も参照。Renata Salecl, "The Fantasy Structure of War: The Case of Bosnia," in The Spoils of Freedom: Psychoanalysis and Feminism After the Fall of Socialism(London;New York: Routledge, 1994), pp.16–17.
*17: Kaldor, op. cit., p.114. 前掲訳書、161–162頁。
*18: 以下を参照。本書第3章「安全保障の政治学」、89頁。
*19: 同上、84頁。
*20: 以下を参照。前掲拙著『越境する近代』、212–216, 226–227, 230頁。
*21: ここで言う「固執」とは、石油危機による原油価格の高騰にもかかわらず国内の石油価格を低く抑えながら、当時は低金利であった西側諸国からの借入をもとに、エネルギー多消費型の重化学工業化政策を70年代末まで推進し続けたことを指す。以下を参照。小山洋司『ユーゴ自主管理社会主義の研究―1974年憲法体制の動態―』(多賀出版、1996年)、183–184, 195頁。
*22: 以下を参照。同上、183–205頁。ちなみに、引用箇所は190頁にある。また、以下も参照。岩田昌征『凡人たちの社会主義ユーゴスラヴィア・ポーランド・自主管理―』(筑摩書房、1985年)、18, 19–20頁。
*23: 以下を参照。小山、同上、203–205頁。
*24: Michel Chossudovsky, The Globalisation of Poverty: Impacts of IMF and World Bank Reforms (London;Atlantic Highlands, NJ: Zed Books, 1997). 郭洋春訳『貧困の世界化―IMFと世界銀行による構造調整の衝撃―』(柘植書房新社、1999年)、242頁。但し、訳語・訳文については、私の判断で手を入れた箇所があることを断わっておく。
*25: 同上訳書、243頁。但し、訳文については、私の判断で手を入れた箇所があることを断わっておく。
*26: 以下を参照。同上、243頁。
*27: 同上、244頁。
*28: 同上、244頁。
*29: Salecl, "The Crisis of Identity and the Struggle for New Hegemony in the Former Yugoslavia," op.cit., p.225. 訳出に当たっては、鈴木英明訳「旧ユーゴスラヴィアにおけるヘゲモニー闘争」『現代思想』12月号(青土社、1996年)、228頁も参考にした。なお、鈴木の手によるこの翻訳は、ラクラウが編集した論文集『政治的アイデンティティの形成』に収められているサレツルの論稿ではなく、同年にラウトレッジ社から刊行された彼女の著書に収められている以下の論稿をベースにしたものである。この点に留意願いたい。Renata Salecl, "The Struggle for Hegemony in the Former Yugoslavia," in The Spoils of Freedom, op. cit., pp.58–73.
*30: Salecl, "The Crisis of Identity and the Struggle for New Hegemony in the Former Yugoslavia," ibid., pp.206–207.訳出に当たっては、同上訳、213頁も参考にした。
*31: Ibid., p.207. 訳出に当たっては、同上訳、213頁も参考にした。
*32: Ibid., p.207. 訳出に当たっては、同上訳、213頁も参考にした。
*33: Ibid., p.209. 訳出に当たっては、同上訳、215頁も参考にした。
*34: 以下を参照。Ibid., pp.209–210, 214. 同上訳、215–217頁も参照されたい。
*35: ここで言う岩田の警告とは、『凡人たちの社会主義』(前掲)の中で彼が発した以下の警告を指す。「……ユーゴスラヴィア社会の現状は、決して楽観を許さない。今までのところ、1981年3月のアルバニア民族主義運動のラディカル化のほかに、社会的動揺は生じていない。いわんや、ポーランドのような全社会的危機を経験していない。やはり、自主管理社会主義体制、共権共責(分権分責)体制における分責・共責の社会意識が労働者大衆の中に生きているのであろう。経済危機を『われわれ』とは異なる『やつら』のせいにして済ませることができない社会経済体制なのである。しかしながら、生活水準の犠牲による対西側元利返済政策、『ベルトを引締めよ(Stignuti kaiš)』政策にも限界がある。このまま続行すれば、犠牲と負担の配分をめぐる諸社会集団間の対立が表面化しよう。ポーランドのように、国家権力、政府に直接向けられる社会的怒りは少ないかも知れないが、社会内部の相互不信に基づく社会的緊張は、ポーランド型のそれより複雑な様相、性格を持ち、いったん顕在化させてしまえば、対処の難しいものとなろう。慎重な経済運営が望まれる。銀行家(IMF)流の単純な方策では済まなくなりつつある」(50–51頁)。上記引用文は原文において二つの段落に跨っているが、私の判断で一段落に編集してある。また、表記を統一する都合から、引用文中の表記を一部手直ししてある。
*36: Salecl, "The Crisis of Identity and the Struggle for New Hegemony in the Former Yugoslavia," op.cit., p.225. 訳出に当たっては、前掲訳、227頁も参考にした。なお、表記を統一する都合から、訳文中の表記を一部手直ししてある。
*37: Ibid., p.226. 訳出に当たっては、同上訳、228頁も参考にした。なお、表記を統一する都合から、訳文中の表記を一部手直ししてある。
*38: Ibid., p.210. 訳出に当たっては、同上訳、217頁も参考にした。
*39: Michael Billig, Banal Nationalism(London: Sage, 1995).
*40: Kaldor, op.cit. 前掲訳書。
*41: Ibid., p.117. 同上訳書、167頁。なお、文章の流れから、訳語を一部変更してある。
*42: Ibid., p.102. 同上訳書、143–144頁。
*43: 以下を参照。Kwame Anthony Appiah, "Cosmopolitan Patriots," in Martha C. Nussbaum and Respondents, Joshua Cohen, eds., For Love of Country: Debating the Limits of Patriotism (Cambridge: Beacon Press, 1996), pp.21–29. 辰巳伸知訳「コスモポリタン的愛国者」マーサ・C・ヌスバウムほか(辰巳伸知/能川元一訳)『国を愛するということ―愛国主義(パトリオティズム)の限界をめぐる論争』(人文書院、2000年)、47–59頁。
*44: Kaldor, op. cit., p.96. 前掲訳書、132頁。また、以下も参照。Kaldor, op. cit., pp.118–119.前掲訳書、168–170頁。
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