島根県立大学名誉教授(名誉学長)、成蹊大学名誉教授。
専門は、東アジア国際関係史、国際関係論、中国地域研究。社会学博士(東京大学)。
16・17期日本学術会議会員。
主要編・共著書として、『太平洋戦争への道』(第2・第3巻、朝日新聞社、1962年初版・1987年新装版)、『現代中国の歴史19491985』(有斐閣選書、1986年)、『北東アジアにおける中国と日本』(国際書院、2003年)、『転機に立つ日中関係とアメリカ』(国際書院、2008年)などがある。
北東アジア学とは、何であろうか。それはアジアの地域研究の一種であろうか。
確かに北東アジア学は、その名の示すように、北東アジアに関する伝統的な地域研究から出発した。しかし冷戦の終結、グローバリゼーションの表面化の時代を迎えて、その性格を変えていった。国際的環境の変化に対応して、その性格を変化・発展させたところに実践的な学問としての北東アジア学の特徴がある。また1980年代という冷戦末期の曲り角の時代に北東アジア学の原型が現れたことに、この学問の意義がある。もちろん当初は「環日本海」周辺地帯における貿易振興がテーマになっていたところに、この北東アジア研究の出発点があった。
但し国際的環境の変化に実践的に対応するということは、同時にロシアや中国における体制の変化に敏感であるということを意味する。さらに欧米の対北東アジア政策の変化にも関心が深いということにもなる。
したがって学問としての北東アジア学は三つの意味で原理的方向を目指すことになる。第1は、欧米の対北東アジア政策の原点、その原理に対する学問的関心である。表面的には欧米の外交政策の政策決定過程に関心が集中する。しかし、より深い次元で、欧米の政治原理、近代化の意味、近代化を触発した商工業の性格、そしてそれを実践的に支える科学に関心が向かう。かつて中国や日本のいわゆる「開国」が、圧倒的に強力な欧米の軍事科学の衝撃に始まったことの意義は大きい。
ただこの近代的軍事科学の背景としての欧米の科学は、技術としての側面とともに、より深い社会的背景、精神的(信仰的)背景を持つ。近代科学そのものを生み出した背景に宗教改革以来の思想的転換があり、科学と信仰が独自の連携関係と緊張関係をもっていたことは周知の事実であろう。
この欧米の衝撃の独特の性格は、北東アジア学に第2の原理的問題を提起する。
それはアジアの視点から見る欧米の科学(近代)の歴史的性格の究明である。いわゆる「科学史」から見る西洋と東洋の相違の研究である。ひろい意味においては近現代史の視点再構築につながる。
ただこのような視点を欧米と競合して開拓することは現実に不可能である。アジアにできることは自らの視点に立脚して、欧米(後には欧米をなお軸とする現代世界)に対比しうるアイデンティティを創生することである。このアイデンティティ創生過程に世界史を捉え直し、その捉え直したアイデンティティによってアジアの独自性を再把握し、さらに世界の普遍主義に対してアジアの普遍主義を発信することが重要である。アイデンティティ問題を第3の原理論的柱に据えた目標は、そこにある。
かつての「東洋政治外交史」の主題であった「Western Impact and Asian Response: 西欧の衝撃とアジアの反応」の「反応」という、その意義を、はるかに越えた問題意識である。
もちろんこのような発想・意識は何も北東アジアだけの問題ではなくアジア全体の問題でもある。ただ北東アジアはユーラシア大陸の東端にあり、「西欧の衝撃」が最も遅れて到達した地点である。その間「西欧の衝撃」そのものがさまざまに熟成した。加えてアメリカという西欧世界にあっては異質ともいえる独自の「西欧文明」が突出的役割を果たした。さらに北方からロシアという「西欧」とは異なる東ヨーロッパが地続きの影響力を発揮したことも視野に入れておく必要がある。ツァーリズムのロシア、コミンテルンのロシア、二超大国の一つとしてのソ連の存在の直接性は、記憶に新しいところであろう。
このような歴史過程の世界史的意義の究明の場として北東アジア学は存在する。その世界史的視点から、再び北東アジアの独自性に関する普遍的な意義の開拓に乗り出していく。そこに北東アジア学の存在理由がある。
換言すれば、地域研究としては北東アジアの現実から出発し、北東アジアの現場の中から世界史的課題を抽出し、その北東アジアから見た世界史的課題を世界全体の歴史的動向の中において比較考察し、さらに世界化された北東アジアの原理において、再び北東アジアの現場研究を体現化していこうというのである。
したがって北東アジア研究においては世界史の変動そのものが分析の出発点であり、また未来を構想するための到達点でもある。そこではアジアから見るアジアではなく、アジアを通して見る世界が焦点であり、またその世界を通して見る新しいアジアを含む普遍的観点がアジア研究の中心となる。「西欧の衝撃とアジアの反応」という関心は一つの出発点ではあるが、それだけでは時代遅れとなる。
この現代世界そして現代アジアにおける地域研究は、後に見るように、西欧的近代化方式のゆき詰まり、いわゆる世界的リスク化に直面して、人間の新しい生き方、新しい社会秩序、新しい連携方法、新しい集団的アイデンティティの未来像を求めることになる。この結果現在のアジア研究は、戦後の一時期アメリカ中心に流行した「地域研究」の伝統的手法に拘泥しない。従来の方式はしばしば断片論的であり、しかも欧米中心の先進国の利益と観点中心であり、かつての差配するものの立場からの見方であり、「発展途上国」の「発展」の可能性を西欧的=「科学」的方法で断定するものである。その結果、その分析が精緻になればなるほど、その結論は、アジアの人々の実感から離れていく傾向も生じる。
加えてその価値基準から、西欧に比べての非西欧、アジアの欠陥がことさらに「欠如体」として浮き彫りにされる。例えば、政治的には民主主義制度未熟論、法律的には執行過程不整備論、理念的には「人権」の形骸化論などが、その欠陥論の典型として立ち現れる。
もちろんこれらの点に関してアジア自身の現実および理論化が立ち遅れていることも否定しない。但しその「欠如体」論争が、同時にまた欧米自身ひいては世界的な問題にはねかえっていくことも認識する必要がある。つまり時代による変化が必然的にアジアでも世界でも同様に進行し、現実への立ち遅れ、制度的・思想的欠陥は同様に露呈されていることを確認することである。
したがって「北東アジア」という表現は、たんなる地理的な地域概念にとどまらない。その「地域」中心に表出される世界史的課題を、改めて捉え直そうという独特の知的概念である。
ではいわゆる「北東アジア地域」をことさらに知的概念としてとらえる意味は、どこにあるのであろうか。
本巻では、北東アジアにおいて、中・韓・日という儒教的連帯のほかに、アメリカという西欧から分離した特殊な国家が、実質的にアジアの北東地域に、その一部として食い込んでいる事実を大きく見る。もちろんアメリカの立場からいえばイスラエル、中近東、イスラム教世界、ラテンアメリカなども、重要な地域である。
しかし北東アジアの側から見ると、アメリカの中国革命介入、戦後日本の占領と改変、台湾・北朝鮮問題における圧倒的影響力からいって、アメリカを抜きにしては北東アジア自身の国家のありかた、人間の安全保障、集団的アイデンティティなどを語ることができなくなっている。しかも文化的にも、宗教的にも、全く異質の存在であるアメリカが、外在的に内在的に北東アジアに有機的一部として存在していることの意義は大きい。そこではアジアの固有の性格と西欧の世界史的存在理由が、より明確に浮かび上ってきている。
この「北東アジア」において、欧米と非西欧の思考様式・政治文化の大きな落差が世界史的意義を持つことがクローズアップされてきたのは、特に中国が世界史的大国になってきて以来のことである。そこでは、欧米的思想の中核にある「理性」の問題、具体的には「近代化」・「科学的思考様式」の問題性が浮かび上がってきた。相対的に遅れたアジアにとって、近代化の中心的課題は、理性や科学を欧米から学ぶこと(「西欧化」)、そしてその西欧化に対抗して自己確認の方法を開拓すること(アイデンティティの創生)であった。そこでは科学の問題、アイデンティティの問題とならんで、理性と情念の問題が再検討され始めたといえよう。
もちろん「情念」という概念を正面から取り上げることは当面回避された。「情念」という言葉にマイナスのイメージがつきまとっているからである。そして選ばれた論点は、伝統的精神と思考の中に、西欧的理性を新しいアジア的「理性」論として組み立て直す、つまり再創造することであった。その底辺に政治、経済、社会などの社会科学的方法にたいする見直しの問題が横たわっている。
これらの問題点を、本書の狙いを明確にするため、問題提起の形でこの「はしがき」においてさらに提示しておきたい。
17世紀以来称揚されてきた民主主義、法秩序、人権論などのある種の限界性が意識されるようになったのは、最近になってのことである。もちろん民主主義制度の原理そのもの、法秩序の必然性、人間尊重の重視は、いまや国際的社会の共有財産になっている。しかしそれが実際に制度化された場合の社会的機能や、現実の民衆が「民主」として納得する過程が、それぞれの民族の政治文化のありかたによって異なること、また法律が万能でないことも、広く知られつつある。そして、いわゆる正義としての「人権」が人間の生存権によって支えられない限り実質的意味をなさないこと、つまり「空洞化」の危険性が、東西を問わず問い直されている。
この結果、西欧的科学化、理性化によって推進されてきた近代化それ自体の問題性もまた論争の焦点になってきた。
したがってこれからのアジア研究は、まず「科学」・「理性」、そして人間としての自己確認の基礎であるアイデンティティの意味を問い直すことから始めることが必要になっている。しかし、困ったことには、この科学も、理性も、アイデンティティも、それ自体が、それぞれの人間集団・社会・民族の伝統によって、把握の方法が異なっていることである。
まず比較的、普遍的と考えられている科学から始めたい。
周知の通り西欧においては、科学に関し、数学・物理学・天文学を中心とした「純粋科学」の世界の研究が先行し、その純粋性が、信仰のありかたともセットになって表裏してきた。
他方中国においては、実利・経験主義的な科学が発達し、その「知」と「理」が独自の道義論とセットになって引き継がれてきた。
これに対して日本のような後発国では、「和算」をはじめ原理的発想はすべて外国から輸入され、思想性から分離された技術(時には「思想なき科学」)として発展した。
但しここでそれぞれの科学・思想の問題意識に対する欠陥をあげつらおうとしているのではない。それは、それぞれの歴史的事実を指摘しただけで、すべては置かれた立場による事実として認識したい。
では「科学」という観点から、アジアとヨーロッパの関係を考えると、どうなるであうろうか。
そもそも近代の発端であるヨーロッパ17世紀科学革命は、ある種の「科学主義」が一人歩きをし始めた時代でもある。その科学は当初は信仰と人間存在とを両立させながら、やがて信仰と科学の相互関係の中から分離の度合いを強め、独自の内在的効率性を追って生産力の向上に主力を注ぐことになった。
その結果、中国などアジアの国々とは異なる商工業優先の社会を生み出し、貿易立国が当然とされ、さらにその勝者となるため、力の論理、つまり軍事科学が異常に発展した。
しかもその特定の自然科学に発する論理を人間社会に対する理解の方法に持ち込み、人間第一主義、フィクションとしての社会契約論、自由放任を許容する神の手による経済学などの思想を生み出した。そこでは、自然科学と社会科学の原理的異質性が、厳密に掘り下げられることなく、そのまま正当化に利用された。そして人間社会の原理も、自然科学的に差配できるものと考えられた。
この結果西欧的科学の思想、理性に反するものは、すべて非合理の範疇に押し込まれた。
この科学の発展過程において、17世紀から21世紀、西欧は発展の一途をたどった。他方、非西欧は、それまでの歴史に経験したこともない西欧の「圧迫」の下に置かれた。
しかし結局アジアの国々は、この圧迫の下、それぞれに工夫して西欧の「科学」を導入し始めた。但しその導入のしかたは、民族の置かれている状況によって異なった。それぞれの自然観、人間観、自己認識方法が異なっていたからである。
同時に自己の帰属意識としてのアイデンティティとの相違の問題が浮き彫りにされた。そこから西欧の科学的思想導入に当たって、工夫が生まれ、東洋と西洋との接触点で新しい思想、考え方が生まれた。この多様性は、科学の世界的波及過程を考案するとき大切な視点である。
ところがアイデンティティそのものは、先に触れたように、本質的な価値観と結びついており、それ自体は科学的ではない。つまりアイデンティティには、論理的に説明不可能な非合理性が内在する。したがってこの非合理性を合理性との接触の
では、アイデンティティは一般的にどのように理解されているのであろうか。
『岩波 哲学・思想事典』(1998年版)によると、アイデンティティは、「変化のなかにあって変わらないなにものか」、あるいは自己同一性などと訳されている。それは古代から人間の世界で意識され、それぞれの「神」の存在証明にもかかわってきた。
ここで歴史的に注目されたのは、この「同一性」が「非同一性」との相反原理の中で意識されてきたことである。
まずアイデンティティは、非同一の世界にあって、「同一性」を追求する集団原理の中で培養されてきた。それが集団、つまり民族、エスニシティのレベルで表面化したのは特に近代国家が形成される過程のことであった。それが「一国語、一民族、一国家」の神話に傾斜しがちだったことは、上記事典の執筆者栗原彬氏も指摘する通りである。
したがってアイデンティティは、「理性的」な方法によって整理することはある程度可能な分野ではあるが、本質的には非理性的、情緒的・情念的なものであった。もちろんこの概念は、人間科学の発展とともに個人の問題に適用され、人格の問題、精神分析の問題にも適用された。また現代では、青年問題、老人問題、女性問題、障害者問題などと、理論的射程範囲を拡大している。但し、アジアとヨーロッパの関係を主題とする時にはやはり集団的問題、民族の問題が浮き彫りにされる。
この集団的・民族的アイデンティティの問題を、筆者は、以下のように分類している。これは理性的・論理的に整理することは困難な問題であるので、いわば時間と空間の関係で、パターンに分けて整理すると理解しやすい。
時間的パターンとは、(1)瞬間次元のもの(直感・感性・芸術など)、(2)計測可能な次元のもの(統計化された意識、判断、習俗、政治決定など)、(3)時間的には無限定なもの(歴史観、普遍主義、宗教など)に分けられる。通常、理性的分析が効果的なのは(2)のカテゴリーのものであり、(1)と(3)はある時点で対応し合う親和性もある。
空間的パターンとは、(1)家族、親族、可視性の高い集団、(2)地域、市場、年代などいわば生活的圏内に属するもの、(3)階級、民族、国家、国際的地域など一定の抽象的理念、理解、賛同などによって団結が認められるもの、(4)愛、共生、人類、など普遍的なもの、に分けられよう。
この時間的・空間的仕分けのほかに、価値観にかかわっての分類、何らかの正義意識にかかわってのアイデンティティなどの区分けもある。
ここで確認しておきたいことは、アイデンティティというものは、むしろ情念に属する発想であるが、しかし理性的に整理して考えることは可能で、しかもそうすることにより、アイデンティティとアイデンティティとの関係に対抗原理より相互扶助原理を持ち込むことができる。ナショナルなレベルのアイデンティティを、暴力的なものより非暴力的なものとし、他のアイデンティティとの両立の可能性を追求することは大切である。本書では当面集団的アイデンティティの問題を主たる対象とするが、いずれアイデンティティの複合性を検討し、個人、家族、組織、地域レベルのアイデンティティの複合性の探求にも進むことを考えている。
このようなアイデンティティに対する展望をもって北東アジアのアイデンティティ探求の過程を、特に中国と日本を中心にして考えてみたい。北東アジアにおけるアイデンティティの複合はまだ緒についたばかりである。むしろ主流はナショナルなレベルのアイデンティティから集団的アイデンティティへの過渡期にあるといえよう。この問題を、そもそもアイデンティティ模索の始まったアジアと西欧の接触の開始の時代から、歴史的過程を追って考察したい。現代におけるアイデンティティ問題は、まさに個人レベルのアイデンティティと、個人を超越した人類レベルのアイデンティティが、相互触発の中に、複合的アイデンティティの模索の段階に入っていくものと考えられよう。
そのためにもアイデンティティと密接な関係がある情念の問題を押さえておきたい。
アイデンティティの問題は、科学的に説明のし難い、生きがいの問題、自主の意味、価値観の問題などに結びついてくる。価値観は日常生活における信条体系から出発するが、究極的には宗教の問題にも到達する。
宗教(あるいは究極論的思想世界)は、西欧においてはその究極者の存在と理性による合理化との相互触発による探求として歴史的に延々と続いているが、アジアにおいては安心立命の安定基盤であるとともに、理性による制御不可能の世界としてしばしば集団的暴力として顕在化する。そしてその間の安心立命観と暴力肯定論の間には相互理解のための意見交換は極度に困難なままである。
その宗教の二面的対立に関する政治論争は、世界的には、アラブとイスラエル、イスラム教とキリスト教、仏教諸派と土着的信仰との藤など枚挙に暇がない状況にあるが、東アジアにあっては「近代日本の衝撃」の後遺症が最たるものであろう。それは広くは「大東亜共栄圏」是非論争、北東アジアにおいては中・韓・日のいわゆる「歴史認識論争」が注目の的である。これらは本質的には究極的価値に関する論争で、まさに情動問題と不可分である。
日本に対する、中国の憤怒、朝鮮の恨みは、謝罪金、記念碑などの物質的な対処によって解決しうるものではない。中国社会科学院の孫歌氏が、日本人が中国人に対してそれなら謝罪すれば寛恕していただけますかと問うなら、中国人はいずれも沈黙を守らざるをえないというのは、その心の中に込められている歴史全体の重荷に耐えているからであると説明しているのは、象徴的である。しかも日本人の側では、明治維新以来の複雑な歴史の襞を探求することなく、相当数以上の人々が「謝罪する」ことにすら違和感を抱いている。これはまさに理性的政治の問題ではなく、情念的政治に対する理性的解明の問題である。そこに北東アジア学における「情念」解明問題の重要性がある。
しかし現在日本においては、情念問題の側面から政治・外交・世論・哲学の問題を分析しようとしている学術論文はそれほど多くはない。そこに、北東アジア研究の第一段階として西欧における知性から学ぶ意義がある。
いずれ本論で詳論することであるが、この「はしがき」において素描的紹介だけはしておきたい。本論との重複をさけるため、ここでは脚注は付さず、ただ出典のみを明示することにする。
まず情念とは何かということであるが、ヒュームの古典的整理によると、直接的なものは欲望、嫌悪、悲しみ、喜び、望み、安心など、間接的なものは、誇り、卑下、愛、憎しみ、憐れみ、寛大などであるが、かならずしも区別は明確でない。歴史的発展過程から見ると、個人、集団、民族、人類のレベルへと、瞬間・社会的・究極的への変化が重複して研究の対照となっているようである。
最初有名になったのはデカルトの理性先行、情念追随の議論で、伝統的スコラ的見方や情念は悪とする見方を否定し、理性の善悪の判断に従う限り、「情念に最も動かされる人間は、人生において最もよく心地よさを味わうことができる」(『情念論』1649年)と論じられた。情念の引き起こす悪を耐えやすいものとし、それから「喜び」を引き出そうというのである。このデカルトの議論はもっぱら個人的レベルの議論であったが、これを社会的関係論にまで引き上げ、むしろ理性と情念を対置させたのがヒュームである。かれは、だからといって理性と情念がコンフリクトを起こすということを原理的に否定し、「理性だけではいかなる行為も生み出し得ず、意志作用を生じないのだから、これから推理して、同じ理性という機能が意志作用を妨げたり、情念あるいは感動と優先を争ったりもできないはずである」「理性は情念の奴隷であり、またそれだけのものであるべきであって、理性は情念に仕え、従う以外になんらかの役目をあえて望むことはけっしてできないのである」(『人性論』1737年)と論じた。
この情念論はその後2世紀間いくたびかの変遷を重ねることになるが、20世紀に入って「生命のはずみ」論、「創造的進化論」として直感と知性の組み合わせで注目され、世界的な脚光を浴びたのがベルグソンである。かれは「直感と知性は意識作業の向かう相反する二方向をあらわす。直感は生命の方向そのままにあゆむのに、知性は逆の方向にすすみ、したがって物質の運動とごく自然に調子があう。完全で充実した人間性とはそうした両形式の意識活動を発達させきった人間性のことであろう」(『創造的進化』1907年)と述べ、中国にも日本にも大きな影響を与えた。理性と情念の相補論争は、新しい形で受け止められたのである。
特に第一次世界大戦直後のヨーロッパを訪問した梁啓超は、ベルグソンの著作を事前に研究してベルグソンに会い、その感動を「欧遊心影録」の中で「心と物の調和」を目指し、現実の中に理想を帰納したものとして高く評価している。もっとも中国人意識の強い梁啓超は、これを「自強して息まず」(『易』乾)とか、「性をつくして化を賛くむ」(『礼記』中庸)といったような先秦の学術に重ね合わせて理解している。
こうしてベルグソンの直感論(情念の一部)は、生の衝動論と経験主義的知性論と組み合わされて毛沢東にも影響を与え、進化論とマルクス主義の粋と中国の人民闘争の経験と結び合わせ、「社会・歴史の客観情勢とその発展について正確な科学的分析を行うことができるだけでなく、プロレタリア階級の事業と人民の事業に対する、不撓不屈で山を削り海を埋めるような無限の忠誠心を持ち、大衆の力量を信じ、大衆の創造と大衆の経験・意識・思想を集中」させたものとして称揚されることになる(劉少奇「党規約の修正に関する報告(抄)」1945年)となる(以上岩波書店『新編原典中国近代思想史』、具体的な頁数などは本論参照)。
ここで注目されるのは、中国の人々が、みずからの中にある「情念」という概念を、あまり意識していなかったことである。実質的には情念である自らのアイデンティティを、西欧の普遍的概念によって中国的な「理」と連結させ、情念と分化しにくい中国的な「公理」の世界として展開している。
この情念をそれと意識することなく「生の衝動」と知性と結びつけていくところは日本の場合も同様であるが、日本ではいっそう無意識のうちにも情緒的側面が強くなってくる。その系譜は、日本思想に伝統的な西田哲学、「おのずから形而上学」(相良亨)を継承して「あわい」という両義性統合の論理を生み出した竹内整一氏の論議にも見出せるのであるが、その著作『「おのずから」と「みずから」』(春秋社、2004年)は、その冒頭高村光太郎の「おれは思ふ、/人間が天然の一片であり得る事を。おれは感ずる、/人間が無に等しい故に大である事を。ああ、おれは身ぶるひする、/無に等しい事のたのもしさよ。無をさへ滅した/必然の瀰漫よ」を取りあげ、「おのれの『無に等しい事』『弱さを滅ぼす』こと、という自己把握は、決して自己の、自然への解体、解消ではない。自然の『おのずから』に生きることは、かえって今ここでおのれが、最もおのれでありうる『正しい原因に生きる事』だというのである」と受け止めている。ただこれをもっても一般の人には分かりにくい表現の典型であるので、特にこの「はしがき」で例示してみた。情念における中国の条理的思考と日本の情的思考の相違がよく知られることであろう。
この情念的思考は日本人以外には分かりにくいことと思われる。しかし日本が明治維新以来独特の道を進んでいったことを考える場合、日本の近代化に向かっての政策決定の背景にこのような情的思考があったことは無視することができない。
この情念論を、理性論と並んで、日本人がどのように受け止めていくかは、これからの問題である。
この情念問題を、特に現代民主主義のありかたと結びつけて学問的論争に点火したのは2010年の岩波書店『思想』(5月号)の「情念と政治」特集号である。ここで編者の齋藤純一氏は、冒頭の「特集にあたって」において、端的に「情念」を取り上げる意義を語っている。
それによれば、情念という視角が、「利益」や「理性」には還元し難い政治社会の複合的な諸様相に光りを当てることができるのではないかという展望を掲げている。そして、政治的な空間というものは利害をめぐる抗争とその調停のプロセスに還元されるものではなく、価値観・世界観が多元的に存在し、それらの間の抗争が避けられない空間である現実を指摘する。これは従来のパワー・ポリティックスのリアリズムを超えた発想である。
そして現代の変動の中に不安と緊張に満ちた生活を余儀なくされる中で、人々の抱く情念をいかに民主的な回路につなげていくかという今日的課題を提起する。つまり情念は時には反民主主義的な回路に流れ込むことがあるものの、特定の他者を憎悪や怨恨の標的とするのではない回路をどのようにして作り出していくことができるかという問題提起である。
この「情念」の問題は、アジアにおいては、いっそう暴力的な力として、民主主義の名を使いながらそれとは異質の権力による反民主主義、民衆抑圧の問題としてクローズアップされることが多い。しかし反面、同時に、権力、抑圧に対抗する側も個人や集団の民主への意志を表すものとして、「情念」(特に無償の愛)による覚醒、連帯、協同を目指している。問題はそれをいかに認識し、真の民主の方向に機能させることができるかという問題である。
これはまさに古くて新しい問題である。従来から、すべての組織の抑圧性・暴力性の根源の思想として、組織の存在の利益性・倫理性とともに、組織が所属する人々に対して無限の「忠誠」を要求することは指摘されてきた。そしてそれに反するものは、変わり者、非協力的なもの、反逆者として告発されてきた。そして現代においては、皮肉にも、反民主主義、反社会主義、反人間主義のレッテルを貼られることも珍しくはなくなった。丸山真男が取り上げた「忠誠と反逆」の問題である。これは人間が集まる国家、宗教団体、労働団体、そして家族すら例外ではない。その場合には情念がフルに活用された。
この伝統的な政治的テーマを越えて、現代の必然的な多元主義社会の民主主義制度に対する根源的な問題点を取り上げたのが2011年の日本政治学会の「年報」 I 『政治における忠誠と倫理の理念化』である。ここで年報編集委員長の越智敏夫氏は、「政治と情念」論で知られているウォルツァーの言葉を引いて、多元主義への批判を起点とする「討議的民主主義理論」において私的利益の追求へと向かう欲望を否定する一種の「禁欲主義」の復活現象を取り上げ、「そのような理性による情念の抑制を唱える禁欲主義こそが政治を混乱させる」ことに関する論点のありかたを指摘している(同書「はじめに」)。つまるところ、従来のリベラルな政治理論が看過してきた忠誠や倫理の問題を討議的民主主義の問題に対置しようという発想である。
これは難しい問題である。アジア研究では、まだ「討議民主主義」の問題設定は当面の主たるテーマにはなっていない。ただ、「情念」の問題が、それを意識すると意識しないとにかかわらず、権力の側にも民衆の側においても、理性のありかたと並んで正当化の論理として注目されつつあるのは事実である。
そこで本書としては、新しい学問分野を開拓するという目的から、この情念の視角の重要性に重点を置きたい。この情念に、いかにして洗練された理性論によって臨むかは、これからの問題である。マイケル・ウォルツァーが、その『政治と情念――より平等なリベラリズムへ』(風行社、2006年)において、「私がここで論じたいと思っていることは、私たちが生きる情念的な生のあり方をもっと認めて正当な世界に引き入れることに尽きる」と語っていることを想起し、他者の精神的基盤を「蒙」として一括し、「啓蒙」の名によって他者に強制する狭い「理性」を主張する姿勢を過去のものと論を進めたい。異文化に対してこれを野蛮視し、おのれの特定の「理性」を一方的に強制することは知的暴力にほかならない。かっての日本もその知的暴力の陥穽に陥った。これを繰り返してはならない。
この世界史的課題を真に「科学的」に探求しようとしていくことが、「北東アジア学」の使命の重要な一つと考えている。
筆者は1950年秋中国地域研究の世界に入って、それから62年になる。この間、日本においては大分(湯布院)・熊本(水俣)・広島など、中国においては江蘇省中心に瀋陽・大連など、かなり手広く地域調査に歩き回った。そしてこの間、経済交流、文化交流、環境問題などを通じて、国内的地域が国境を越えて国際的地域(北東アジア地域など)と直接つながっていることを痛感した。
結局地域研究は国際研究に連関させて考察しなければ体系的に捉えることはできない。つまり学問というものにならない。単なる調査マンになるなと口が酸っぱくなるほど教えてくださったのは、新制東京大学教養学科の国際関係論の気鋭の先生方であった。
学生時代から50年、郷里の島根に帰って県立大学再編成問題に直面した時、県の方針であった北東アジア学設立の具体的方法を考案するに当たって、真っ先に頭に浮かんだことは地域の問題を国際問題につなげることであった。
おりから冷戦の終結期を前にして、いわゆる「環日本海」研究創成の雰囲気は日本海沿岸各地に盛り上がっていた。島根がその機微に応じたことは当然の時代であった。
ただ現実の国際関係は、資本・金融の自由化、情報科学の革命的影響力、環境問題の深刻化の時代に直面していた。そして21世紀に入ると、本格的なテロリズムの衝撃、民衆デモの政治力化の時代を迎えていた。これまでのものの見方、考え方は大きな転換期に入った。北東アジア学の創成は、まさにこのような転換期に、国境を超えた地域学として誕生したものである。
そこで筆者は、このような時代のアジア研究のありかたを考え直した。西欧に対するアジア主義を主張している時代ではない。「西洋の衝撃にたいするアジアの反応」の時代でもない。世界史的変動に対するアジア地域の自己表現、自己のアイデンティティを国際的レベルに高める時代である。ある意味では変動する世界と変動する地域が相互に触発する時代である。その精神は国際的には「寛容の精神」であり、国内的には日本の「あわせ」(足して2で割るのではなく「ともに生かす」)の新しい精神である。このように考えた。そして国内的に国際的に、共に支えるべきものは「平和の思想」である。これは島根における軍需工場動員の一学徒時代に、広島の「新型爆弾」(後に原子爆弾と訂正)の緊急速報のショックに人生観を変えた筆者の学問の原型である。
幸か不幸かアジアの中で日本はユーラシア大陸の東端にある。西欧からは最も遠い。それにもかかわらずロシアとアメリカが、あたかもその一員であるかのようにユーラシアの東端の世界に深入している。その場が日本および日本周辺である。動員解除、敗戦経験後の日本においても、当時他の国と同様、マルクス・レーニン主義に象徴される革新的社会主義と、自由民主主義に象徴される自主独立の資本主義が厳しく対立した。10歳代後半に精神形成の時期を迎えた筆者にとっては、両者のイデオロギー的対立には翻弄された。
ただ中学、高校へと進学した筆者は、ふしぎに覚めていた。家庭の中にある種の思想的土台らしきものがあったからである。そのもとは、日本思想の形成期に次第に形をなし、時代とともに変容し続けてきた民間的倫理思想である。それは「自然」の「みずから」と「おのずからなる」思想的伝統を基層としている。後にアメリカで同世代の友人仲間からよく質問されたのであるが、それは封建的と表現されるものとはかなり異質である。もちろん明治期に作り上げられた日本国天皇を「国体」とする国家神道とは無縁である。あるものは徹底した「自然」の秩序と「時の流れ」、寛容と信義を重んじる日本的な慈愛の心であった。
したがって筆者は、一方において西洋精神の神髄であるキリスト教を日本的に受け止めた矢内原忠雄先生に傾倒するとともに(筆者は矢内原総長ゼミの最後の学生の一人である)、他方アジアにおけるマルクス主義理解に全力を尽くしていた江口朴郎先生と高橋勇治先生から強い影響を受けた。欧化論と中国研究に関しては、前者は「極東国際裁判」を批判的に継承した「太平洋戦争研究」、後者は善意の固まりの中に激烈な路線闘争の悲劇を現出した「中国共産党史とコミンテルン」の関係における中国を研究対象とすることにつながった。ただ、筆者は、自由民主主義にも社会主義にも覚めていた。両者ともに本質的には自己のイデオロギー的立場からアジアに批判的だったからである。端的にいえば、アジアをありのままに把握することなく、一種の誤解・誤認を常としていた(「文化接触論」的発想からみれば異文化に対する違和感は当然のことではあるが、それ以上のものがあった)。
その誤解の背景には西欧起源の「理性」絶対主義があった。少なくとも一面的信仰とその強要があった。旧制高校時代の筆者は、当然デカルトやカントの理性論をたたき込まれ、それこそ生活の大半の時間を理性的人間に成るべく努力した。しかし理性的自己は頭脳の一部にしか定着せず、たえず理性欠如・蒙からの不脱出の自己嫌悪と苦悩に追われた。
そこで現実には人間の思考の心棒の一部でしかない「理性」以外のものにもアジア研究の社会学者として目をつけた。皮肉なものではあるがデカルトの思いがけない側面でもある「情念」論が、新しい意義を帯びてきた。実際、アジアには「理性」以外のものが満ち満ちている。それらは計量的にも論理的にも、科学的にも分析することはできない。しかしなお人生、社会においては価値あるものとして実感されている。そこには人生に不可欠な思い、心も籠められている。
中国の抵抗運動史を研究した時、そして北東アジア研究と取り組み始めた時、そこでは、「怒り」、「怨念」、「熱意」、「生命のはずみ」のような、理性論だけでは説明のつかない数々の現象が人間の行動を動かしていることを実感した。日中・日韓関係の刺となっている「歴史認識問題」も、理性論だけでは理解できない。情念論を「悪」と決めつけず、実態として対象化し、それを仕分けして把握するほうが理解の糸口となる。
北東アジア学構築を進める場合には、日本の大陸侵略に象徴される「日本の衝撃」研究を忌避するわけにはいかない。避けるだけでは朝鮮の人の怨念、中国の人の怒りを、まともに受け止めることはできない。日中・日鮮の恒久的平和を望むこともできない。
もちろんこれを理性論的に認識することは可能であろう。ただ理性論的に日本の歴史的誤りを一方的に断定し、謝罪を繰り返すだけでは、広く人々の共感を誘い出すことはできない。日本の人々の少なからざる部分が日本に伝統的な「自然の成り行き」観、「歴史の時の流れ」観の中に生きているからである。したがって現在の民主主義制度の多数決による「正義」選定方式では、日本の国として「謝罪」以上の深いレベルの決定を考案することができない。日本人が「謝罪」すれば、中国人は「寛恕」できるかという問題に?を投げかけた孫歌氏の問題提起は重要である。
もちろん知識人の知識人たる所以は、あくまで「理性的思考」の貫徹にある。そこに、社会から、生活の糧を与えられている知識人の存在理由でもある。
そこで筆者が考えたのは、情念を情念としてその存在理由を積極的に認め学術的に取り上げるとともに、理性の軸(あくまでスジ論)で、情念を分かりやすく整序していくことである。本書が、中国における「条理」尊重の「理」によって、情念の中に中国独自の「理性」を再発見し、また日本の「みずから」と「おのずから」の思考様式を、竹内整一氏の提起した「あわい」の概念によって日本的「理性」のありかたの方向把握を試みようとしたのはそのためである。これを筆者の北東アジア学構築のスタートとしている。
この発想から、今後さらに北東アジア共同体の可能性ないしは「知の共同体」の方向に進むことも考えている。また筆者の専門分野の本命である「人間の安全保障論」、環境と政治、科学と政治の世界を再考察することも検討中である。筆者としては、やはり、北東アジアにおける国際関係、つまり中国の巨大化後の中米・中日関係、日米関係を本格的に検討してみたい。また世界的な民衆の時代における民主主義と国家のありかたも事実に即して研究してみたい。ただ私の生が残されていればのことであるが。
今回は、北東アジア学創成研究のための「シリーズ」ということであるので、それぞれの執筆者がその立場から北東アジア学の可能性を論じることになっている。筆者は、北東アジア学推進の責任者であったという立場から、本格的な現代中国研究、現代日本研究は自制し、それより第一巻として島根県における北東アジア学の創出の軌跡の解説に多くの頁を割き、みんなの参考と刺激にするよう努力した。
筆者独自の考え方の説明と併せると、全体の頁数は企画した28万字をはるかに越えてしまっている。学内には多くの優れた論説が公刊されているのに、結果として大部分をカットしてしまったことは、特に中堅・若い世代の研究者にお詫びしたい。また、公務や予期していなかった怪我・病気のため執筆期間が3年にわたり、関係者の方々に多大の迷惑をおかけしたこと、そして本の全体的内容が不統一となってしまったこともお詫びしたい。全体に目を通し、また細部をチェックしてくださった島根県立大学の李暁東さんと江口伸吾さんには改めて御礼申し上げたい。もちろん、責任はすべて筆者にある。
なお本書が北東アジア学創成の入門として不十分であることを少しでも補うため、巻末に解説付きの文献目録を掲載した。この本を読んでくださる読者の参考にしていただければ幸いである。
この「シリーズ」を開始するに当たっては、国際書院の石井彰社長から多大の応援をいただいた。特にこの第1巻の執筆を進めるに当たっては、石井社長と繰り返し意見を交換し、貴重な助言をいただいた。石井社長の刺激がなかったら3年間一進一退した本書はできあがらなかったと省みている。改めて心からの感謝を申し上げたい。
またこのシリーズの第2巻以降は、朝鮮研究、ロシア研究、モンゴル研究、そして中国研究、さらに日本研究と続く予定である。研究を支えてくださっている島根県立大学の北東アジア地域研究センターの井上治センター長をはじめセンター委員会のメンバー、スタッフには御礼申しあげるとともに、今後とものご協力をお願いしたい。
最後に記することになり恐縮であるが、島根県立大学の本田雄一学長は本シリーズを開始するに当たりご懇切な「発刊の辞」を寄せて下さった。そこで本田学長は島根県立大学がいかに北東アジア学の創成に熱情を持ってきたかを語られ、今後のシリーズの完成を激励して下さった。もとよりこの出版計画は、島根県立大学の特別資金によって可能となっている。すべてのことにご配慮くださっている本田学長には改めて心からの御礼を申し上げたい。
2012年9月末日
島根県立大学名誉教授
宇野重昭
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