賄賂はなぜ中国で死罪なのか?

王雲海

賄賂に関する「罪と罰」を科す中国、日本、アメリカの比較を通して、それぞれの国家・社会の本質を追究する筆致は迫力がある。それは「権力社会」であり、「文化社会」あるいは、「法律社会」と筆者は規定する。(2013.1.20)

定価 (本体2,000円 + 税)

ISBN978-4-87791-241-3 C1032 157頁

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目次

著者紹介

王雲海(オウ・ウンカイ、Wang Yunhai)

経歴

単著

受賞

まえがき

はじめに ――賄賂で続々と処刑される高官達

9月14日午前9時47分、成某は最後の身元確認をされた後に行刑室の門の前に連れられてこられた。彼は依然として背広姿で、髪の毛もきちんとしている。彼の表情が冷静のようで、まず行刑室の中を窺って何も言わなかった。そして体を振り返って、死刑執行の法警(裁判所に属する司法警察)、医者、および執行を監督する他の人員と一々握手した後に、自分の事件の公訴を担当した検察官の前に歩いてすこし止まって、その目をしばらく見て、頭を数回頷いた。9時53分に、成某は行刑室の中に入れられて、注射による死刑執行が始まった。10時10分に、死刑執行が終了し、遺体は直ちに火葬場へ運ばれて火葬された。当日に、新華社は全国に向けて成某に対する死刑執行のニュースを発表した。

3月8日午前8時5分、江西省拘置所で他の被収容者達のポーカ遊びを見ている胡某は牢屋から呼び出されて、ある会議用の部屋に連れられてこられた。そこで、裁判長は彼に最高人民法院の「死刑確認許可書」を読み上げた。胡某は椅子から立ち上がって、書記官の前に歩いて、送達書に自分の名前と意見を書いて椅子に戻った。裁判長は「最高人民法院は昨日あなたに対する死刑執行命令を出している。最後に家族などに対して何か言いたいことでもあるか」と聞いた。胡某は弱々しい声で二つの意見を述べた。一つは量刑が重過ぎることと、もう一つは処刑の後に自分の財産を没収するに当たって家族に一定の分を残してほしいことである。8時30分に、胡某は写真撮影などで身元の最終確認をおこなわれた後、すぐ刑車(死刑囚を刑場に運んでいくための車)に乗せられて、刑車は8時43分に刑場に到達した。8時46分に一発の銃弾の音が飛び出した瞬間、胡某は枯れた草の地面に倒れ込んで命の最後を迎えた。

王某は山東省拘置所から連れ出される直前には、関係機関の責任者は彼と「最後の談話」をおこなった。その間、王某は泣いて、泣いて、談話が二回も中断せざるをえなかった。涙満面の王某は情緒があまりにも激しいので、数日前に書いた「私はいかにして孤児から副省長まで上り詰め、また、副省長からいかにして死刑囚に堕落したのか」というタイトルの反省書を読み終えることもできなかった。9時10分に、朝早く駆けつけてきた息子夫婦などの十数名の親族と面会した後、すぐ刑場に連れ出された。刑場では、裁判官はまず死刑執行命令書を彼に言い渡したが、それを聞いた王某は大泣きしながら、子どもや親族に次のことを伝えるように裁判官に頼んだ。「私の事件は家族とは関係のないことで、余計な考えは持たないように」と。その直後に、注射による死刑執行が始まり、10時ちょうどになって、王某の死亡が確認されて、死刑執行が終了した。

…………

上の記述は中国の新聞や雑誌が伝えている中国での死刑執行の様子である。しかし、そのいずれも殺人犯などに対する普通の死刑執行ではなく、収賄罪として死刑を言い渡された元中国共産党の高級幹部や公務員に対する実際の死刑執行の場面である。最初の成某はかつて広西壮族自治区人民政府の主席を長く務めた後に全国人民代表大会の副委員長にまで上りつめた、全中国でわずか数十人しかいない「中国共産党中央と国家の指導者」の一人であった。二番目の胡某は中央政府で宗教を管轄する国家宗教管理局副局長の後に江西省の副省長を務めていた大臣級の人物であった。三番目の王某も安徽省の副省長を長く務めた大物であった。

高級幹部なのにただの賄賂で死刑もされるのかと読者の皆さんは驚いたであろうが、実は、中国では、毎年、多い時には数十名、少ないときには十数名の党幹部や公務員は収賄罪で死刑を執行されているのである。もちろん、日本でも米国でも公務員の収賄行為が犯罪と定められて刑罰を科されるが、しかし、どちらも中国ほど重くはない。日本の場合、従来は、収賄で有罪になった公務員のほとんどが言い渡された刑罰は執行猶予つき判決であって、執行猶予率が常に90%以上であったが、近年になって、政治家や公務員に対する風当たりが強くなり、有罪になった時の刑罰も重くなったものの、それでも80%以上の執行猶予率が依然として維持されており、実刑になったことだけでも、珍しくて重いと捉えられるのである。米国の場合は、賄賂行為をした公務員に対して言い渡した判決は、執行猶予率が日本より低くて、実刑が多いものの、5年以上のような長期な拘禁刑になるケースはやはり少なくて珍しい。このように、日本にしても米国にしても、ただ賄賂だけで死刑を言い渡されて実際に執行されることは全く考えられないのである。

なぜ中国はただの賄賂だけで公務員に死刑を言い渡して実際にその執行までに踏み切るのであろうか。「中国はもとより刑罰が重いから」、「中国はまだ社会主義だから」、「中国には賄賂などの汚職腐敗行為があまりにも多発しおり、厳罰でないと、さらに増えるから」といったことは読者の皆さんが言いたいところであろう。しかし、そのいずれも一理があるものの、本当の理由ではない。実は、「賄賂などの汚職をした幹部・公務員に死刑も辞さない」ということは、一見したところ、単に刑罰制度上ないし法律規定上の問題だけに見えるが、本当はそうでは決してなく、むしろ、そこには、中国社会の根幹、その社会体制、社会特質にかかわる、これまであまり知られていない重大で深刻な「秘密」が隠れているのである。この「秘密」を解くことこそ中国の過去、現在、将来を知るための鍵の一つになるのである。

では、この「秘密」とは一体どのようなものであろうか。本書は、まさに、賄賂罪に関する米国、日本、中国の比較を通じて、中国のこの「秘密」を読者の皆さんに明かそうとする。但し、テーマの性質上、賄賂罪に関する法律規定、裁判所の判例、学者の学説などを素材にする必要がどうしてもあり、それが故に、一定の専門性がどうしても伴わざるをえない。読者の皆さんは、前半部分だけを読んだら、これはただの法的で専門的比較ではないかと思われるかも知れないが、実は、そうではなく、後半部分、特に第8章をも読んだら気がつくように、「秘密」はまさにこのような比較の中から現れてくるのである。

あとがき

おわりに ――賄賂への死刑が何をもたらしているのか

中国共産党は、賄賂へ死刑という極刑を科すことで、「一石三鳥」の効果を得ようとしているのであるが、現実ははたして党の期待する通りになっているのであろうか。残念ながら、その答えは「そうでは決してない」と言わざるをえない。

まず、賄賂への死刑は、党員・公務員による賄賂などの腐敗行為の抑制・減少にはつながっておらず、威嚇予防効果は全くといってよいほどないのである。「一方では、賄賂へ続々と死刑を適用する。他方では、賄賂の件数やその規模が天井知らずに増加し、増大する一途をたどっている」、というのがいまの中国での現実である。

これは偶然ではない。なぜなら、賄賂などの腐敗行為が多発する原因は、死刑を科すかどうかよりも、社会特質や公務員組織の特徴や社会の状況などの、ほかのところにあるからである。具体的にいえば、米国の社会特質が「法律社会」であり、日本のそれは「文化社会」であるのに対して、中国のそれは「権力社会」であるので、権力の力は絶大であって、経済活動を含めて社会のあらゆることがすべて権力の主導で権力の裁量で決定される。富あっての権力ではなく、あくまでも権力あっての富である。このような社会特質を持つ社会では、賄賂などの腐敗の必要性も可能性もどこの社会よりも大きい。また、中国の公務員組織の特徴は、「公私衝突」の米国とも、「公私融和」の日本とも違って、「私的で人格的」なものであるので、公務員個人は常に大きな裁量権を持っており、賄賂などの役得にそれを簡単に使うことがいつでも大いに可能である。さらに、資本主義の歴史が長くて、「資本主義」一本で社会を構成している米国や日本とは異なり、いまの中国は経済の面で新しく原始的資本主義を導入しているが、政治などの他の面においてはいまだに社会主義を堅持しており、同じ社会に相容れない二つの体制・原理が同時に実施されており、油の「私」と水の「公」という、性質の違う二つ空間が並存している。そのために、個々の個人がその担い手である「私」は、抽象な国家がその担い手である「公」から利益・利得を取ることが常に容易にできる。このように、いまの中国の賄賂などの腐敗行為の多発は複雑な社会的原因によるものであって、ただ死刑をもって厳罰さえすれば、威嚇予防効果が出て、減るものでは決してない。

次に、賄賂への死刑は、社会・民衆に向けて、賄賂などの腐敗行為への党の厳しい姿勢をアピールして、党の一党支配の正統性、党の威信を維持し、さらに高めることにつながっておらず、社会・民衆の不満を一時的にしのぶことができているものの、長期的には役に立っていないのである。

1980年代に賄賂への死刑が適用され始めた直後、また、具体的な事件で賄賂犯罪の党員・公務員へ死刑が適用された直後、民衆の間では、腐敗反対に対する党の強い決意を評価することがあったが、しかし、最近になって、「替罪羊」(身代わりの犠牲者)や「運気不好」(運が悪くてたまたま処罰された)といった揶揄までよく聞こえるように、多くの民衆はすでに麻痺した感覚となっており、賄賂へ死刑を適用しても、一党支配の正統性・党の威信や権威の回復には直結しなくなっている。もとより、中国共産党が公式に言っているように、一党支配の正統性は、ただ一部の党員・公務員が賄賂などの腐敗行為をするかどうかではなく、それよりはるかに大きな視野でのもの、究極的に中国社会をより良い社会に、より多くの中国民衆を幸せにすることができるかどうかに最もかかっている。とりわけ、「大同思想」を長い伝統としている中国社会・中国民衆にとって、より平等な社会を作れるかどうかは、民衆が権力・政治を評価するか否かに直結している。これに関して、「改革開放」以後の中国社会においては、一つの「妙」な現象が現れている。つまり、経済が成功すればするほど、党と政府の威信・権威が低下し、党と政府への批判が増えてくる。昨近見られるように、一つの列車事故をきっかけに、中国社会全体が党と政府へ批判する雰囲気になるし、立ち退きなどをめぐって年間数万件の民衆抗議暴動が起こっている。その主な原因はやはり中国の経済成功の質・中味にある。世界で類を見ない貧富の差の拡大、医療や教育での拝金主義の流行、権力や金銭や知識や知名度による特権の横行などの現象が存在する限り、いくら経済が成功したといっても、それは、党と政府の威信・権威に寄与しないどころかそれを大いに低下させるのである。特に、党と政府は、本来のように、経済と市民・企業体と消費者の間に立って、経済政策の策定と実施をおこなうものの、それ以上に一定の理念をもって両者をよく調整する立場にあるのに、それを全く意識せずに自らを企業体と一緒になって、権力と富を一体化させているいまの状況では、「大公無私」、「大多数の人民の利益の代弁者」に由来する党の威信・権威は低下させられるのは一層仕方がないのである。このようなより抜本的で大きな問題を認識してそれに手を迅速につけない限り、いくら賄賂などの腐敗行為をした党員・公務員をたくさん死刑にしても、党の威信・権威が高められることも、それにより一党支配の正統性が維持されることもできないのである。

最後に、一定の賄賂事件に死刑をもって必要以上に厳罰を加えることを通じて、威嚇効果を発揮させて、賄賂などの腐敗行為を抑制しようと、いう党の刑事政策的狙いも不発に終わっている。

もとより、一部の犯罪をターゲットにして厳罰を科すことで犯罪対策上の波及効果を狙う、というやり方は世界のどこでも成功していない。多くの賄賂などの腐敗行為から一部だけを犯罪化して死刑を科して、その波及効果で賄賂などの腐敗行為を抑制する、という中国でのやり方も世界の例外にはなりえない。賄賂へ死刑を適用してから30年以上も経っているにもかかわらず、賄賂などの腐敗行為は依然として増加している、という中国の状況はそれを物語っている。

このように、党と政府は、賄賂への死刑適用をもって「一石三鳥」を得ようとしているものの、実際上「一鳥」も得ていないのが、無情にも、現実となっている。結局、賄賂への死刑適用が中国に本当にもたらしているのは、中国における賄賂などの腐敗対策の政治性と異常性を世界に見せ付けていること、および、賄賂などの腐敗行為で摘発された党員・公務員が事実上政治の生贄として法外化されていることだけである。そのいずれも法治国家の理念に合わないのである。

索引

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