イメージング・チャイナ 印象中国の政治学

鈴木規夫 編

〈中国〉は未だ揺らいだ表象である。21世紀においてこの〈中国〉という名辞がどのようなイメージに変容していくのか、その帰趨がグローバル・ポリティクスに少なからぬ影響を及ぼす。本書では、その〈中国〉の視覚資料・非文字資料への分析・批判理論構築の必要性を追究する。(2014.4.20)

定価 (本体3,200円 + 税)

ISBN978-4-87791-257-4 C3031 245頁

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目次

著者紹介

執筆者紹介

鈴木規夫 (編者)
愛知大学国際コミュニケーション学部教授
政治哲学・国際関係論・イスラーム研究
周星愛
知大学国際コミュニケーション学部教授
政治/ 社会/ 文化人類学・中国民俗論
夏目晶子
愛知大学国際問題研究所客員研究員・同非常勤講師
中国民俗論
徐青
浙江理工大学外国語学院日本研究所副所長
愛知大学国際問題研究所客員研究員
日中関係論
中尾充
良愛知大学文学部准教授
フランス近代詩研究
木島史雄
愛知大学現代中国学部准教授
中国古典学

まえがき

序にかえて

鈴木規夫

漢字文化圏において〈()()〉が想像されはじめてから、実は未だ一五〇年ほどであるに過ぎない。キタイ、ティナイ、シナ、チーン、から、もろこし……時代を重ねてそれはさまざまな変幻を繰り返してきた。その繰り返された変幻の総称としての〈中国〉はさらに再構築されつつある。

チンギス・ハーンが「中国人」になったり、「中国最大版図」がヨーロッパにまで達していたりする論議が登場してくるのは、〈中国〉という名辞のそうした性格をよく物語っている。そして、〈中国〉はどこにもないにもかかわらず、すでに遥か昔から続いていた政治空間であるかのようなアイデンティティ指標としてもちいられることになる。

〈日本〉なども同様ではある。近代が近代である所以はまさにそこにあるのであって、狭義のナショナリズムによる現世の瞬時を永遠に置き換えようとするたくらみが、またさまざまな無理を呼び覚ますことにもなるのである。清朝の後に国民党朝ができ、そこからさらに中共朝が……となれば、文字通りの「革命」による政治空間について思考していくこともできるのであろうけれども、現代における主権国家体系は当面それが最終で最高の政治体であることを主張するがゆえに、歴史貫通的な総称を自称として求めることになる。〈中国〉はまさにそうした名辞として機能しようとしている。

〈中国〉が「想像の共同体」を構築するには、まず漢語が中国語になっていく過程が存在する。さらにそれは視覚的な共通感覚をも求めるようになるが、〈中国的なるもの〉を構成するものの多くは、さまざまな〈のようなもの〉の複合物であるに過ぎない。漢服や中山服があるからといって、それがすみやかに〈中国服〉になるわけではなく、また〈北京料理〉や〈広東料理〉がすなわち〈中国料理〉なのでない。国旗が主権国家のシンボルとなるように、姿形のあるものがある特定のイメージを構築するには、そこに一定の想像力が必要とされ、そうした想像力がさらに共有されていく必要もある(本書第一章、第二章参照)。

〈中国的なるもの〉のイメージは自己により探究されるものであるばかりでなく、逆に他者により構築されているという点も重要である。

オリエンタリズムのような他者表象は支配と被支配との力学的関係の基層を形作るが、〈中国的なるもの〉のイメージがどこでどのように消費されるのかに応じて、その力関係への認識は異なってくるであろう(本書第三章、第四章、第五章参照)。さらに言えば、〈中国的なるもの〉がグローバルな政治的意味をどのように配置されるのかに応じて、今後の世界の様相は確実に変化するともいえるのである(本書第六章参照)。

本書は、そうした〈中国〉をめぐるイメージの生成と消費のさまざまなレベルでの動向を探る一つの試みである。

本書の基礎としているのは Barbara Maria Stafford の一連の豊潤な研究にある。美術史家としての彼女の仕事の性格は、類似類同を語る言語の貧困と差異の度を越した意識を抱える文化的多様性のただ中にあって、人なり物なりがそれとは違う何ものかと感じられうるとすればそれはいったいなぜなのかを問うあり方の一つとして、「イメージング」(知の知覚化)に着目したということにある。その代表的著作として、Good Looking. Essays on theVirtue of Images (Cambridge, MA: The MIT Press, 1996) や Visual Analogy:Consciousness as the Art of Connecting (Cambridge, MA: The MIT Press,1999) などを挙げることができる。

イメージ研究は本来的には近代政治哲学の基礎中の基礎に位置づけられるべきものである(ホッブズの『リヴァイアサン』の口絵の存在がそれを多く語っている)。にもかかわらず、これまでの政治哲学の多くは、イメージを言語によって記述することそれ自体に収斂してしまい、二〇~二一世紀におけるグローバルなイメージの空間的拡張の諸問題を巧みに政治哲学的考察に組み込んでいく方法を十分深化させてはこなかった。つまり、〈イメージングの政治哲学〉は未成の状態にあるといえる。

しかし、たとえば生物が生きた状態のまま、生体内の遺伝子やタンパク質などの様々な分子の挙動を観察する技術である現代における「分子イメージング」を想起してみよう。それは、これまで可視化されていなかった個体内での分子の動きを見えるようにする手法として、個体にダメージを与えることなく生きたまま体内の様子を観察できるのが特徴である。このような手法を政治哲学も積極的に応用すべきなのではないか。本書の着想はまさにそこにある。

イメージは本来自分の中にある感情が自分の中ではなく他人の中にあるものとしての人間知覚の外化パタン認識としても理解されてきた。これに鑑みれば、現代政治哲学の諸課題に応答する方法がイメージングを活用し確立されて然るべきであろうことに疑いの余地はない。

かつて竹内好は〈方法としてのアジア〉を問うたが、言うまでもなく、〈アジア〉や〈中国〉といった名辞は、「不定形に生きた状態」を捉えようとするものであり、現実世界が「不定形に生きた状態」であるがゆえに、〈アジア〉と〈中国〉は、相補的にまた不定形にそれぞれの意味の文脈を構築している。ある時は〈アジア〉が意味をもち、またある時は〈中国〉がイメージングの前面に投影され、形成と衰微を繰り返しているのである。

〈中国〉は今後もなおしばらく政治哲学的イメージングの格好の対象となる。なぜなら、〈中国的なるもの〉のイメージには未だ分裂の徴候が潜んでいるからに他ならない。「清潔で礼儀正しい日本人はよき昔の中国人である」とか、「日本の中国化」などのイメージにより提供されるネガティヴな〈中国〉イメージと、世界規範の〈中国化〉などといったポジティヴな〈中国〉イメージとの間をなお〈中国〉は激しく揺れ動いている。

本書では、現在ではVirtual Shanghai(リヨン大学東アジア研究所によるプロジェクト)のような資料プラットフォーム提供プロジェクトや、アジアを対象としたジョン・ダワーなどによるVisualizing Cultures プロジェクトなどの先行する試みも参照しているが、それなりの規模と安定的なスタッフのない状態では研究プロジェクト自体に多くを望むべくもない。

とはいえ、近年の技術革新とその拡張に伴う新たな「知の視覚化」過程の研究が、興味深い著しい進歩を遂げている事実は確認しておくことにしたい。〈中国〉をめぐるメディア環境は具体的に目まぐるしい変化の最中にあり、政治哲学を基礎としたメディア研究において〈中国〉を対象とする視覚資料・非文字資料への分析・批判理論の構築必要性は今後ともきわめて高いものとなるはずである(Shu-mei Shih, Visuality and Identity: Sinophone Articulationsacross the Pacific, University of California Press, 2007 等参照)。

あとがき

跋にかえて

鈴木規夫

〈中国〉は未だ揺らいだ表象である。二一世紀においてこの〈中国〉という名辞がどのようなイメージに変容していくのか、その帰趨がグローバル・ポリティクスに少なからぬ影響を及ぼすことは言うまでもない。いわゆる「アジアへのリバランス」戦略の具体的な対象とされている〈中国〉をアメリカはそもそもどのような対象とするのか、同時にまたそれ自体どのような対象であると自らを認識しているのかといったイメージの交錯によって、世界情勢は明らかに変化するからにほかならない。

ブレジンスキー元国家安全保障補佐官はかねてより「何が中国との衝突に値しないのか、そしてまた中国自身が、そこを超えると自らの利益を損ない自らの有する手段で追求できる範囲を超えてしまう、と判断する線をどこに引くべきか、静かに検討しておく必要がある」(cf.Zbigniew Brzezinski,Strategic Vision: America and the Crisis of Global Power, Basic Books, 2011)と述べている。そうした「判断する線」が相互に揺れ動くイメージの変幻によって異なった位相に立ち現れるのも道理である。

一九世紀帝国主義の時代がステレオタイプのような固着したパタン認識で世界情勢のコモンセンスを構築していったのとは異なり、二一世紀帝国主義の時代である現代は、生きたままの動的なイメージの生理の認識を身につけたコモンセンスが求められていく。「綺麗は汚い、汚いは綺麗」〈中国〉イメージがそこに浮き上がり運動しているという意味において、本書のタイトル〈イメージング・チャイナ〉が理解されることを願わずにはいられない。

なお、本書は愛知大学研究助成(B- 33「<中国>をめぐるオリエンタルリズム後の知の視覚化とイメージング研究」)の成果である。また、本書出版にあたってはワンアジア財団研究助成の一部も得ることができた。研究助成頂いた関係各位に記して感謝したい。

索引

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