「CSCEにおける自決権とは、人民の自決権であり、民族の自決権ではなかったはずだ。その再確認がこの会議でできず、残念である。この禍根は、数十倍になってあなた方に跳ね返ってくるだろう」。この言葉は、1991年 7月に開催されたジュネーブ少数民族専門家会議の最終日に、ユーゴスラヴィア代表が述べた言葉である。この言葉の 5カ月後にはユーゴスラヴィアは解体し、特にクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおいて数年に及ぶ内戦が勃発、数百万人が難民となる大惨事となった。
1994年 12月、ブダペストサミットにおいてCSCEの機構化に関し合意され、1995年からは欧州安全保障協力機構(Organization for Security and Co-operation in Europe)として出発することとなった。それから 20年あまり経過した現在、旧ソ連を除くOSCE参加諸国の地域においては、少なくとも民族紛争は姿を消した。欧州において民族紛争が姿を消した理由の一つとして、OSCE少数民族高等弁務官(HCNM)の活動が要因の一つであることは多くの研究者が言及するとおりであろう。
著者は 2012年 9月にオランダ・ハーグ市に滞在する機会を得、何人かの市民にHCNMに関して尋ねてみた。しかし残念ながらHCNMの存在は、その拠点を置くハーグ市民でさえ知られていなかった。残念なことではあるが、一方でこの事はHCNMを必要とする問題が旧ソ連をのぞく欧州では姿を消したことの反映であると考えることもできる。東ドイツの有名な作家であるブレヒト(Bertoit Brecht)の戯曲『ガリレオ・ガリレイの生涯(Laben des Galilei)』でもある通り、「英雄を必要とする社会が悲劇」であるからだ。初代 HCNMであったストール(Max van derStoel)は、HCNMの活動を「静かな外交」(Quiet Diplomacy)の典型例であるとし、事実その通り行動した。彼は年間 150日に渡り各国を移動し、HCNM事務所スタッフからは、「空飛ぶオランダ人」(Flying Dutchman)というニックネームがつくような活動であった。その意味では現状はまさに静かな外交の成果であるといえよう。
1975年8月1日、フィンランドの首都ヘルシンキにあるフィンランディアホールにて、ヘルシンキ宣言の署名がなされた。その時点で、マイノリティ・イ シューがヨーロッパにおいて大きな問題になるとは誰も予想していなかった。皮肉なことに、ヘルシンキ宣言においてマイノリティに関する項目を入れることを強く主張したのはユーゴスラヴィアであり、一方でマイノリティ・イシューに熱心でなかったのはオランダを含めた西側諸国であった。歴史の皮肉というものであろう。
私はもともと平和と歴史に興味があり、数百年にわたってパクス・ロマーナを維持してきたローマ帝国を支えていた骨格である、ローマ法を勉強することを目的として神戸大学に入学をした。ところが、神戸大学で巡り合ったのが、学問の師である吉川元先生(現: 広島市立大学平和研究所)であり、吉川先生の授業、「現代外交論」であった。桜舞う神戸大の学舎を舞台として繰り広げられた吉川先生の講義は熱く、そして学問として「平和」をどうとらえるか、「祈る平和」ではなく「つくる平和」の可能性を示唆する授業であった。その後諸般の事情があり吉川先生のゼミに参加させていただいたものの、神戸大ではなく立命館大にて博士号を取得することになったが、それでも吉川先生は私のつたない議論を聞いていただき、適切かつ手厳しいアドヴァイスをいただいた。その後、学会報告のたびに吉川先生に叱咤激励を受け、少しづつ前向きに研究者として進んでいくようになったように思う。
OSCEを研究している先達の先生として、宮脇昇先生(立命館大学)のお名前も挙げさせていただきたい。同じ分野を研究している、というにはあまりにおこがましいが、先生のエネルギッシュでなおかつ学問に対する真摯な姿勢、また的確なコメントや後進の者に対する指導・援助、数多くの学会報告や論文執筆など、学問に携わる者としての姿勢に関し、多く学ぶものがあった。
また、山本武彦先生(早稲田大学)のお名前も挙げさせていただきたい。普段は大らかなご性格であるが、先生の学問に対する真摯かつ厳格な姿勢、そして先生の博識と研究会などにおける的確かつ精緻なご指摘に関し、誠に恐縮すると同時に学問とは何か、ということを学ばせていただいたように思う。
OSCEプラハ事務所ネムコバ(Alice Nemceva)氏には、プラハで資料調査にさまざまに便宜を図っていただき、お世話になった。さまざまな会議の資料をすべて見せてもらって、なおかつ質問にも丁寧に答えていただき、資料の紹介もさまざまにいただいた。感謝したい。2007年から過去4回にわたってプラハ事務所を訪れたが、その度にネムコバ氏をはじめとして、事務所スタッフの皆さんには大変お世話になった。自家製ワインをいただいたり、ケーキを作っていただいたり。プラハは私の第二の故郷である。
私には幸せなことに、多くを学べる「師」と呼べる先生方が数多くいる。日本の「師」は吉川先生をはじめとして博士後期課程での指導教授である龍澤邦彦先生(立命館大学)、博士前期課程での指導教授である南野泰義先生(立命館大学)、博士論文提出時に様々なアドヴァイスをいただいた、足立研幾先生(立命館大学)であり、感謝しても感謝し切れない。思えば私は指導してくださる先生方に恵まれていると思う次第である。この他、研究会などでお世話になった先生方、臼井実稲子先生(駒沢女子大学)、庄司真理子先生(敬愛大学)、野崎孝弘先生(大阪経済法科大学)、山本隆司先生(立命館大学)、横田匡紀先生(東京理科大学)、清水直樹先生(高知短期大学)、松村史紀先生(宇都宮大学)、安育郎先生にもこの場で感謝の言葉を伝えたく思う。
もう一つの私の仕事は、塾の講師である。塾で私が教え、私にさまざまなことを教えてくれた生徒諸君、なかでも博士論文執筆前後の時期に担当生徒として大学入試にともに立ち向かった菊澤一帆氏、中里美咲氏、福田友香氏、山田ちひろ氏、藤田奈央氏、石原茜氏など、数多くの人に支えられてきた。彼ら、彼女らにはお世話もしたし、学ぶことも沢山あった。
祖父母大山顕一および大山やゑ子、常に頼りない兄である私を心配してくれている妹、高谷亜矢子夫妻にも感謝したい。博士号取得やこの出版を見ることなく祖父は旅立ってしまったが、それでも祖父は私を常に見守っていると私は思っている。
この著作は立命館大学への学位請求論文「欧州安全保障協力会議/機構におけるナショナル・マイノリティ・イシューの変容―CSCE少数民族高等弁務官職成立とナショナル・マイノリティ・イシュー―」に加筆訂正したものである。この論文は自分一人の力で執筆されたものではもちろんない。周囲の方のご助力およびご助言により、完成されたものである。
この研究および出版を何よりも常に幼きころから私を見守り、何があっても私を信頼し、一人の力で育ててくれた母、玉井道子に捧げたい。母は私を若くして産み、自分のすべてを投げ打って私を育ててくれた。人よりも要領が悪く、遠回りしてしまう私を見守ってくれる母に対して感謝はここでは書き尽くせないものがあるが、あえてありがとう、と紙面を通じていうことを許してほしい。母は男女雇用機会均等法が制定された1980年代、女性に対する風あたりが強かった時代、母は正社員として働き、私を育ててくれた。その苦労に私がむくいることができているとは思えないが、それでもありがとう、と私は言いたい。幼き頃、貧乏な暮らしの中でも、母は本を毎月1冊ずつ買ってくれた、思えばこれが私の研究の始まりだったのかもしれない。
最後に、出版事情厳しき折、ともすれば滞りがちな執筆の手を進めてくださり、さまざまにご指導いただいた上に出版までお引き受けいただいた国際書院・石井彰氏と、石井氏をご紹介いただいた山本武彦先生に紙面からではあるが厚くお礼申し上げたい。石井氏のご指導、ご助力がなければ、この本は完成しなかった。石井氏には厚く御礼申し上げる次第である。
2013年2月、厳冬の北摂にて。
玉井雅隆
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