1978年に開始された改革開放政策以降、中国では市場経済化が急速に進行しつつある。とりわけ2000年の西部大開発によって内陸部に位置する少数民族地区の開発が一層促進され、近代化の基礎として少数民族地域においても義務教育が普及した。そして、市場化の潮流の中で少数民族の親たちも積極的に子どもを学校に送り出し、少数民族児童も漢語を熱心に学ぶようになった。
しかしながら、この事実は、少数民族のアイデンティティの揺らぎや民族の固有性の喪失といった問題を伴っており、民族存続の根幹に関わって大きな課題を投げかけている。また文化喪失に伴うアイデンティティの揺らぎは、心理的な葛藤、あるいは精神的貧困を招く危険性もあるといえよう。
本書は、モンゴル族、回族、朝鮮族、カザフ族、土族など少数民族に対する調査に基づき、グローバリゼーションという社会変動下での少数民族の就学、移動、家族の変容を明らかにしながら、エスニック・マイノリティの家族における民族文化の継承/断絶といった実態を、教育学の観点から実証的に検証することを目的とするものである。
本書には、アンケート調査とともに、口述史といったライフストーリー・インタビューをベースとした調査、研究が収録されている。ライフストーリー(人生の物語)は、個人の語りを規定している文化、制度を含む概念である。近年、質的調査に対する研究関心の高まりとともに、ライフストーリー研究は日本の各分野で注目され、聞き取りを基礎とする研究が数多く生み出されている。本書はこうした手法を駆使しながら、中国少数民族家庭の実態に迫ろうとした意欲的な研究を集めたと言えよう。
少数民族といったマイノリティの語りは、近年の中国における社会変動の中で、少数民族の環境がいかに激的に変化しているのか、近代学校教育が普及する中でどれ程まで民族の固有性が喪失の危機にさらされ、それをどのように克服しようとしているのかをリアルに浮かび上がらせている。各論においては、長年にわたるインタビュイーとの信頼関係の上に彼らの声に丁寧に耳を傾け、従来の定説とは異なる生活実態や意識を明らかにしながら現状の問題構造を俯瞰した、チャレンジングな研究が展開されていると確信する。また本書の執筆担当者である研究者がインタビューをおこなうという行為それ自体が、世代やエスニシティという枠組を超えてのマイノリティの文化継承へ向けての一つの取り組みであったと言えるだろう。
本書に収められた8本の論稿は第I部「転形期の少数民族家族と文化継承―モンゴル族及び回族女性をめぐって―」、第II部「少数民族と言語」、第III部「移動するコリアンとアイデンティティ」、第IV部「人民共和国建国後の少数民族教師の軌跡」、以上4つの部分に分けられる。
まず第I部は、中国での著しい社会変動のもとでの少数民族家庭の変容に伴い、家庭における文化の伝承はどのような状況に置かれているのかを検証している。
第I部第1章のサラントナラ論文では、モンゴル人家庭における文化伝達とその変容を考察し、女性が伝統文化の保持にいかなる役割を果たしてきたのか、こうした状況が学校教育の普及でどのように変貌を遂げているのかを、近年、急激に発展を遂げたオルドスという地域に焦点を当てて検討した。
内モンゴル自治区では資源開発や移民政策がモンゴル民族の伝統的な生活を一変させ、数千年来おこなわれてきた牧畜産業が成り立たなくなりつつある。いわば人類史にとって一つの時代の終焉を迎えているのである。遊牧生活の知恵や生産の技術は現代化・機械化によって否定され、民族の母語は必要性を失った。
生活環境の変化を余儀なくされている今日、モンゴル族の伝統文化の変容がいかに加速されているのか、その実態を本論では豊富な実例によって浮かび上がらせており、その中で文化の担い手としての女性はどのような役割を
果たすべきであるかを論じている。
第I部第2章の新保敦子論文は、少数民族地域に生まれ育ちながらも義務教育法の普及によって小学校に就学し、中学、高校、大学を経て教員となった少数民族の既婚女性教師に焦点を当てながら、彼女たちの仕事、結婚、婚姻家庭における生活、生育観、民族的アイデンティティ、次世代へのエスニック・マイノリティとしての文化継承の実態を検討した研究である。
義務教育法の制定に伴い、少数民族地域でも小中学校段階の基礎教育が普及するようになった。近年では、少数民族地域の学校においても漢語が教授言語となりつつあり、少数民族の言語が傍流に押しやられる中で、少数民族の文化的基盤が揺らいでいる。それでは、そうした学校教育を受けた少数民族女性の婚姻家庭で、少数民族としての文化伝承はいかなる状況に置かれているのだろうか。
とりわけ教師は、近代教育の体現者である。1980年代以降の改革開放政策本格化および市場化、グローバル経済の進行のもとで、中国の少数民族女性は、大きな変化の中に曝されてきたが、少数民族の女性教師たちは、近代教育と民族固有の文化の狭間でどのように生きてきたのであろうか。本論考では、モンゴル族および回族の女性教員に焦点を当てて、近代学校教育の普及に伴う少数民族家族の変容と、そこにおける文化継承の困難さをリアルに描き出すことを試みている。
第II部に集めた2本の論文は、少数民族の言語に注目した研究である。
第II部第3章の孫暁英論文は、中国少数民族の言語教育政策に着目し、言語教育政策がどう実施され、少数民族学習者はそれをいかに受容していたのか、さらに言語教育政策は具体的に個人の人生にどのような影響を与えるのかを究明することを目的としている。
具体的な事例研究としてカザフ族の多言語学習の事例を取り上げ、言語学習経験、多言語使用実態、アイデンティティについて考察をおこなった。そして多言語の学習によって、国境を越えての移動が可能になっていること、少数民族にとって多言語学習が世界を広げ国外に羽ばたくチャンスを提供することを論じる。このプロセスの中で、アイデンティティを再構成し、自己成長していることも指摘している。
ただし、少数民族地域では、英語といった一律な外国語ではなく、その特徴を生かした言語教育政策を制定すべきであると結論づけていることも、今後の方向性を示唆するものとして注目に値しよう。
第II部第4章のボロル論文は、中国の少数民族の一つであり、主に青海省に分布している土族の言語文字に関する論文である。現地におけるフィールドワークの結果から、土族の言語文字がまさしく滅亡の危機に陥っている実態を実証的に明らかにしている。また文化的価値の点から、政府が文字の保護と継承に有効な措置を積極的に採ることの必要性を主張する。
第III部においては、東アジア地域という視野から見たときに90年代以降、極めて民族移動が活発化している朝鮮族に焦点を当てて、移動の中での生活環境の変化、アイデンティティや文化継承の問題を検証している。その場合、吉林省延吉から上海への中国朝鮮族の移動とともに、同じコリアンということで北朝鮮から韓国への脱北者についても取り上げた。
まず第III部第5章の花井みわ論文は、中国の改革開放政策実施後、仕事を求めて上海に移動した朝鮮族がいかなる仕事に就き、どのような居住地域で生活しているかを考察した論文である。
市場経済の発展のもとで、中国の少数民族は母語に加えて、上級学校進学や就職のために漢語とともに英語を学ばざるをえず、その意味で漢族よりも不利な状況に置かれている。ただし、少数民族の中で朝鮮族は、中国への韓国企業の進出という背景から、朝鮮語・韓国語を話せ、かつ教育レベルも高いことで有利となり、もともとの居住地である吉林省延辺朝鮮族自治州から上海などの大都市に大量に移動しつつある。朝鮮族は、グローバリゼーションの恩恵を受けた数少ない中国の少数民族であるが、民族アイデンティティの保持のために教育に力を入れた結果としての教育水準の高さが、社会移動を可能にしているとも言えよう。
しかしながら上海という都市部での生活は、朝鮮族固有の文化と距離があるのも確かである。そのため、本章では、アイデンティティのよりどころを求めて設立運営する社会組織の活動、特に上海朝鮮族週末学校の分析を通して、上海における朝鮮族の民族文化継承の実態を考察しており、興味深い論考となっている。
第III部第6章の李恩珠論文は、韓国における脱北女性を取り上げ、移動に伴う生活実態およびアイデンティティについて検証した研究である。90年代以降、延辺の朝鮮族は中国の都市部だけでなく韓国へ出稼ぎ者として大規模に移動しているが、それに連動するかのように多くの脱北者が北朝鮮での経済危機を背景として、中国延辺朝鮮族自治州を経由して韓国に流入しつつある。
脱北者は生活変化および残留家族問題による家庭崩壊を抱えており、不安定な生活を強いられている。とりわけ、出身地域による差別意識が強い韓国社会で脱北女性は、脱北者であり女性であることから、マイノリティとして二重の抑圧状況に置かれているのが実態である。脱北者という出自を隠し、あるいは若い女性の中には整形手術を受ける者もいるという。
本章は、脱北女性における「韓国定住」までの生活状況やアイデンティティのゆらぎを中心に考察を進め、排除型社会ともいえる韓国社会がどのようにすれば脱北女性の社会的包摂を実現し、多文化共生社会に変貌を成し遂げることができるのかを検討している。長年にわたって、脱北女性と信頼関係を作りあげながら実施したインタビューが、実を結んだ研究である。
第IV部は、中国の少数民族女性教師のライフストーリーであり、苗族と回族の二人の女性教師の口述史が収録されている。2012年以降、早稲田大学教育学部新保敦子研究室および北京師範大学中国民族教育・多元文化研究センター(主任: 鄭新蓉)の協力関係のもとで、日中両国における教員のライフストーリーの収集、日中両国での出版プロジェクトが進められている。
掲載されたインタビューは、同プロジェクトの研究成果の一部であり、中華人民共和国建国後に土地革命、反右派闘争、文化大革命、そして市場化という大きな社会変動に曝され続けた少数民族地域において、少数民族女性教師がどのような矛盾に直面し、その中で懸命に教師として働いてきたのか、現在、いかなる問題を抱えつつ教師として学生に真摯に向き合っているのか、という点で極めて貴重な証言である。
第IV部第7章は、1928年生まれの苗族女性教師である莎(龍世英)のライフストーリーである。莎は貴州省にある西江苗寨という苗族集住地における初の女性教師であり、少数民族への偏見がある中で少数民族児童の立場に寄り添いながら教育をおこない、子どもたちに慕われてきた。ただし、中華人民共和国建国直後の土地改革時期には実家が地主ということで、また、結婚後の反右派闘争においては夫が右派とされたため苦労を強いられた経験も持つ。
第IV部第8章は、新疆出身の回族女性教員である丁輝のライフストーリーである。丁は、大学卒業後、新疆の高校で国語教師として教鞭を執っている。彼女は回族というムスリムであるが、漢族学校で学び、夫も漢族である。漢族との通婚家庭の中で、どういった葛藤があるのかが紹介されている。また、教師としての苦労や喜び、あるいは長年教師という仕事を続けていくことでの倦怠感とともに、強い信念や使命感も語られていて心を打つ。
以上8編の、少数民族の語りを丁寧に拾い上げた研究によって本書は構成されている。中国少数民族の文化の継承/断絶を、家庭教育に焦点を当てて考察した研究、とりわけ、各少数民族を比較しての総合的研究は、国内外においてほとんど見当たらない。社会変動と関連づけた少数民族の家庭教育に関わる研究は、研究の困難さもあり、蓄積が不十分であった。エスニック・マイノリティ家庭における文化継承について実証的データに基づきながら考察しようとした本書の意義は、その点に求めることができよう。
各自が取り扱っている対象は異なり、また必ずしも共通したアプローチで議論しているわけではない。蒐めたデータを十分に分析できていないなど、課題も残されているが、本書を第一歩として、今後さらに研究を深めていきたい。
本書の特徴として付け加えるならば、期せずして、執筆者、インタビュアー、インタビュイー、翻訳者、校閲者のほとんどすべてが女性であること、そして、日、中、韓の執筆陣の協力によって執筆されていることである。中には日本人といっても中国で高等教育を受けた者もいる。また中国人といっても、漢族だけでなくモンゴル族、苗族、回族、といった少数民族もいる。韓国人といっても日本留学経験者である。日本および中国、韓国にまたがる女たちの協力と友情の上に、本書が完成できたことを、心から喜びたいと思う。
本書の出版に当たっては、出版の機会を与えて下さった早稲田大学現代中国研究所所長の天児慧先生にまず謝意を表明したい。天児先生は、長年にわたり筆者が関わった同研究所での研究活動(人間文化研究機構・現代中国地域研究プロジェクト研究、第1期: 貧困と教育研究班、第2期: 社会の成熟と「超大国」班)をご支援下さった。
また、本書は、早稲田大学で開催された現代中国研究所主催の国際フォーラムでの報告をもとに編集されている((1)「国際フォーラム社会変動の下でのマイノリティと文化伝承―ライフストーリーの分析から―」(2012年12月7日)、(2)「国際フォーラムグローバリゼーションの下でのマイノリティ家族の変容と文化伝承―ライフストーリーの分析を通じて―」(2014年1月11日~12日)。国際フォーラムの開催に当たっては、現代中国研究所の田中周さんにお力添えいただいた。
本書の翻訳については山口香苗さん、日本語校閲は戸倉書房の八木絹さん、中国語翻訳の校閲は孫暁英さん、テープ起こしは孫佳茹さん、王丹丹さんに御世話になった。
編集・出版については国際書院の石井彰社長にご尽力いただいた。関係者の皆様のおかげで、この小書が日の目を見たことを心から感謝している。ありがとうございました。
2014年早春とはいえまだ残雪光る東京にて
新保敦子
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