北東アジアの地域交流 古代から現代、そして未来へ

飯田泰三 編

文明論的論争・歴史認識など、歴史と現在について具体的知恵が創出されてくる具体的事例から学びつつ、グローバル・ヒストリーとしての現在・未来への鍵を見出し、北東アジアの今後の協力・発展の道をさぐる。(2015.8.10)

定価 (本体3,800円 + 税)

ISBN978-4-87791-268-0 C3031 299頁

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目次

著者紹介

飯田泰三(IIDA Taizo)
島根県立大学名誉教授、法政大学名誉教授。島根県立大学北東アジア地域研究センター名誉研究員。
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。法学博士。法政大学法学部教授、同法学部長、同現代法研究所長、同沖縄文化研究所長を経て島根県立大学総合政策学部教授、同大学院北東アジア開発研究科長、同大学副学長。専門は、日本政治思想史。著書は、『批判精神の航跡―近代日本精神史の一稜線』(筑摩書房1997)、『戦後精神の光芒―丸山真男と藤田省三を読むために』(みすず書房2006)等。
本田雄一(HONDA Yuichi)
島根県立大学理事長・学長。
東北大学大学院農学研究科博士課程修了。農学博士。1969年から1985年まで、農林水産省東北農業試験場研究員、農林水産省野菜試験場盛岡支場主任研究官。この間、1977年から1年間、ハワイ大学College of Tropical Agriculture and Human Resources客員教授。1985年から島根大学に勤務、島根大学農学部・生物資源科学部学部長、評議員、学長を経て現職。専門は植物病理学。
坂本勝(SAKAMOTO Masaru)
法政大学文学部教授。
専修大学大学院博士課程満期退学。専攻は上代文学。上代文学会理事。著書に『古事記の読み方―八百万の神の物語―』(岩波新書2003)、『はじめての日本神話―『古事記』を読みとく―』(ちくまプリマ―新書2012)等。〈後者は、昨年12月、第1回「古事記出版大賞」のうち、「しまね古代出雲賞」を受賞〉。 
魯成煥(NO Sung Hwan)
韓国蔚山大学校人文大学日本学科教授。
大阪大学大学院博士課程修了、文学博士(大阪大学)。神話、歴史、民俗を通して韓国比較文化研究。最近の主要著書は、『日本の民俗生活』、『日本神話と古代韓国』、『梧桐島兎説話の世界性』、『韓日神話の比較研究』(全てソウル民俗苑2010)、『古事記』(ソウル民俗苑2009)、『日本に残った壬辰倭乱』(ソウルJ&C. 2011)〈いずれも韓国文化観光部指定優秀図書〉等。
王暁秋(WANG Xiaoqiu)
北京大学歴史学部教授、中外関係史研究所所長。関西大学名誉博士。
北京大学歴史学部卒業。東京大学、慶応義塾大学、中央大学、また、韓国・フランス・タイの大学の客員教授などを歴任。主な研究分野は、中国近代史、中日関係史、中外文化交流史。著書に、『近代中日文化交流史』、『近代中日関係史研究』、『近代中国と世界: 相互作用と比較』、『近代中国と日本: 相互作用と影響』、『東アジア史の比較研究』等。中国の国家清史編纂委員会の委員、中日関係史学会の顧問等を務める。
エルマコーワリュドミーラ(ERMAKOVA Liudmila)
神戸市外国語大学名誉教授、立命館大学教師。
ロシア科学アカデミー東洋学研究所日本文学研究科博士課程修了。文学博士。1988年から1996年までロシア科学アカデミー東洋学研究所極東文学研究課長、その後国際日本文化研究センターの客員教授、神戸市外国語大学教授。専門は日本古代文学と文化、日本神話、和歌論等。「古事記」(中巻)、「日本書紀」(1巻-16巻)、「延喜式」第8巻(祝詞)、「続日本紀」の宣命、「倭姫尊世記」、「大和物」等のロシア語訳、研究、コメント、又は「近世ロシアにおける“Iapon嶋"に関する知識」、等の著書。
井上厚史(INOUE Atsushi)
島根県立大学大学院北東アジア開発研究科/総合政策学部教授/同北東アジア地域研究センター・センター長。
大阪大学大学院満期退学後、韓国蔚山大学校人文大学に3年間在籍。専門は、日本思想史および韓国儒学史。共著に、『西周と日本の近代』(ぺりかん社2005)、『歴史のなかの「在日」』(藤原書店2005)、『正義とは』(岩波書店2012)、訳書に河宇鳳著『朝鮮実学者の見た近世日本』(ぺりかん社2001)等。
付勇(FU Yong)
厦門大学外文学院日本語学部助理教授。
2000年一橋大学大学院言語社会研究科修士課程修了。2004年同研究科博士課程単位取得退学。拓殖大学客員研究員・日本企業通訳・講師を経て現職。研究分野は、近世日中関係史、清朝中国と日本人漂流民など。訳書『中国近世財政史の研究』(岩井茂樹著、社会科学文献出版社2011)等。
マランジャン・カリネ(MARANDZHIAN Karine)
ロシア科学アカデミー東洋古文書研究所極東部門上級研究員。
レニングラード国立大学東洋学部卒。1986年、ソ連科学アカデミー東洋学研究所レニングラード支部で『荻生徂徠の儒教的な著作《弁道》および《弁名》』と題する論文で博士候補学位を取得。研究分野は徳川時代の日本思想史、日本の儒教、日本におけるサンスクリット語学、ロシア東洋学史等。訳書に、山折哲雄『日本人の顔―図像から文化を読む』(2011)、編著に、大槻玄沢・志村弘強『環海異聞』(2009)等。
池内敏(IKEUCHI Satoshi)
名古屋大学文学研究科附属「アジアの中の日本文化」研究センター教授。
京都大学大学院文学研究科博士後期課程中退。専門は日本近世史、近世日朝関係史。主な著書に『薩摩藩士朝鮮漂流日記』(講談社選書メチエ、2009)、『大君外交と「武威」』(名古屋大学出版会、2006)、『「唐人殺し」の世界』(臨川書店、1999)等。
井上治(INOUE Osamu)
島根県立大学大学院北東アジア開発研究科/総合政策学部教授/同北東アジア地域研究センター・センター研究員。
早稲田大学大学院満期退学。専門は、モンゴル史。主な著書に、In the Heart of Mongolia: 100th Anniversary of W. Kotwicz's Expedition to Mongolia in 1912.(Polish Academy of Arts and Sciences, 2012.共著)、『モンゴル史研究: 現状と展望』(明石書店、2011、共著)、『ハラホト出土モンゴル文書の研究』(雄山閣、2008、共著)、『ホトクタイ=セチェン=ホンタイジの研究』(風間書房、2002)。
尹虎(YIN Hu)
浙江工商大学東亜研究院助教授。
清華大学人文学院思想文化研究所研究員。法政大学政治学研究科博士課程修了。研究分野は国際政治思想、満州国間島省(延辺)地域の研究。著書に、『北鮮ルート構想と図們
江開発』(韓国観察2012)、『満州国期間島地域における国家兵営化政策に関する考察』(前沿2011)、『間島における抗日運動』(法政大学大学院紀要2009)。共著に、『東北亜国際関係論』(吉林人民出版社2011)等。
金日宇(KIM Il-woo)
済州歴史文化ナヌム研究所所長。
高麗大学校大学院史学科韓国史専攻博士学位課程卒業(文学博士)。専門は韓国史。著書に、『高麗時代耽羅史研究』(新書院2000)〈韓国文化観光部選定「2001年度優秀学術図書」〉。共著に、『韓国・済州島と遊牧騎馬文化』(明石書店2015)、『耽羅史の再解釈』(済州発展研究院2013)等。
福原裕二(FUKUHARA Yuji)
島根県立大学大学院北東アジア開発研究科/総合政策学部准教授/同北東アジア地域研究センター・副センター長。
広島大学大学院国際協力研究科博士課程後期修了。専門は、国際関係史、朝鮮半島をめぐる国際関係。主な著書に『北東アジアと朝鮮半島研究』(国際書院2015)、『たけしまに暮らした日本人たち』(風響社2013)、『現代アジアの女性たち』(共編、新水社2014)等。
西藤真一(SAITO Shinichi)
島根県立大学大学院北東アジア開発研究科/総合政策学部准教授。
関西学院大学大学院博士後期経済学研究科(経済学専攻)単位取得満期退学。専門は規制制度の経済学、公益事業政策、交通政策の研究。共著に、『公共インフラと地域振興』(中央経済社2015)、『交通インフラファイナンス』(成山堂2014)、『現代公益事業-ネットワーク産業の新展開』(有斐閣2011)等。
久保田典男(KUBOTA Norio)
島根県立大学大学院北東アジア開発研究科/総合政策学部准教授。
横浜国立大学大学院博士後期単位取得満期退学。中小企業金融公庫、財団法人国際金融情報センター研究員、日本政策金融公庫総合研究所主任研究員等を経て現職。法政大学大学院イノベーション・マネジメント研究科兼任講師。中小企業診断士。専門は、中小企業経営、中小企業政策、地域産業政策。
赤羽恒雄(AKAHA Tsuneo)
ミドルベリー国際大学院モントレー校国際政策学教授兼東アジア研究所所長。
専門は北東アジアにおける国際関係、日本の外交・安全保障政策、東アジアにおける人間の安全保障と国際移民問題。南カリフォルニア大学にて国際関係学博士号を取得。カンザス州立大学政治学助教授、オハイオ州ボウリング・グリーン州立大学政治学準教授を経て現職に至る。現在、太平洋岸アジア学会会長/理事長、International Relations of the Asia Pacific編集理事会メンバーを務める。
ロニー・E・カーライル(Lonny E Carlile)
ハワイ大学マノア校日本研究センター准教授。
ハワイ大学で政治学、アジア研究を専攻したのち、九州大学大学院法学研究科で修士課程、カリフォルニア大学バークレー校で政治学博士課程修了。東京大学社会科学研究所(日本)、イリノイ大学(米国)、ブリティッシュコロンビア大学(カナダ)などで、研究を重ねる。著書に、“The Postindustrialization of the Developmental State,"in C.Gerteis and T.George eds., Japan Since 1945: From Postwar to Post-Bubble(Bloomsbury Academic, 2013); Divisions of Labor: Globality, Ideology, and War in the Shaping of the Japanese Labor Movement(University of Hawai`i Press, 2005)等。
佐藤壮(Sato Takeshi)
島根県立大学大学院北東アジア開発研究科/総合政策学部准教授/同北東アジア地域研究センター・センター長補佐。
一橋大学大学院法学研究科博士課程単位取得満期退学。専門は、国際関係論、東アジア安全保障、アメリカの対アジア太平洋政策。主な共著に、『転機に立つ日中関係とアメリカ』(国際書院2008)、『衝突と和解のヨーロッパ-ユーロ・グローバリズムの挑戦』の翻訳(ミネルヴァ書房2007)等。
宇野重昭(UNO Shigeaki)
島根県立大学名誉学長、同名誉教授。成蹊大学名誉教授。島根県立大学北東アジア地域研究センター名誉研究員。
東京大学教養学部教養学科卒業、同大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学、1962年社会学博士。専門は、東アジア国際関係史、国際関係論、中国地域研究。主な著書は、『北東アジア学への道』(国際書院2012)、『北東アジア研究と開発研究』(編著、国際書院2002)、『地域に生きる大学―ダイナミックな知の共同体をめざして』(山陰中央新報社2002)等。

まえがき

はじめに

本田雄一

「島根国際学術シンポジウム2013 北東アジアの地域交流―古代から現代、そして未来へ―」が開催されましたのは、2013年11月14日、旧暦の10月です。出雲地方では、出雲大社に全国の神々が集まる月で、「神在月」と呼ばれますが、他の地域では、神様が留守になることから、広く“神なしの月"、すなわち、「神無月」と呼ばれています。出雲大社では、この時期、神様をお迎えする神事がおこなわれ、7日間にわたって、神様が会議を、つまり、シンポジウムを開き、来年の稲作や縁結びなどについて討論することになっています。本学のシンポジウムにご参加いただきました研究者の方々は、いわば、世界の各地からご参集いただいた神様のようなものであり、本シンポジウムでは「北東アジアの地域交流」をテーマとして、出雲の神様に負けないような熱のこもったご討論を展開していただきました。

このシンポジウムには、報告者およびコメンテーターとして、アメリカ、中国、韓国、ロシア、日本の5カ国、広く世界各国からご参加いただきました。シンポジウムでは、皆様の日頃の研究成果をご報告いただき、また、そのご報告に対するコメントをいただきました。本シンポジウムにご参加いただいた研究者の皆様のご協力に対し、心から厚く感謝申し上げます。また、本シンポジウムには、本学前学長、宇野重昭名誉学長先生にご参加いただき、「グローバル・ヒストリーの観点からみる北東アジアの歴史と未来」と題して、記念講演をしていただきました。宇野先生は、国際政治学がご専門で、本学学長在任中から、「北東アジア学の創成」に心血を注いでこられました。本学では、北東アジア関係教員を中心として、2012年度から「北東アジア学創成シリーズ」(国際書院)の出版を開始しており、宇野先生には、「北東アジア学への道」を上梓いただき、すでに、シリーズの第一巻として、2012年10月刊行されています。今後、本シリーズは、本学の研究成果の象徴として、全七巻の刊行を完結させる計画です。

本シンポジウム「北東アジアの地域交流―古代から現代、そして未来へ―」は、2012年が「古事記編纂1300年」に当たることから、島根県が立ち上げた「神々の国しまね」プロジェクトの一環として島根県立大学が企画し、開催したものです。

本学は、2000年に開学しましたが、それに先立って、当時の澄田島根県知事は、施政方針の中で、「新たな四年制大学は国際短期大学を母体として整備することとし、環日本海地域の交流拠点となる大学とする」ことを明らかにするとともに、「開設学部は政策科学系を前提としてさらに検討してほしい」との考えを明らかにされました。これを受け、島根県立大学「総合政策学部」は、「北東アジア地域、環日本海地域の知的交流拠点の形成」と「知的国土軸の構築」を目指し、朝鮮半島、中国、ロシアを含めた北東アジア地域、環日本海地域の知的・人的連携、交流の拠点となりうる大学として、浜田市に設立されました。このように、島根県立大学は、大学創設の趣旨として、北東アジア地域、環日本海地域の知的交流の拠点となることを目指しており、研究組織として、「北東アジア地域研究センター」も設置された経緯があります。本シンポジウムのテーマ「北東アジアの地域交流」は、本学にとって最も相応しい研究主題であると考えています。

「古事記」は、国家的な事業として神話の時代から大和朝廷に至るまでの国の歴史を記述した文書で、編纂されてから2012年度で1300年になります。「古事記」の上巻は神話と言われる神々の物語であり、その多くは現在の出雲大社を中心とする出雲地方が舞台となっています。神話に登場する地名の多くは、今でも、この地域で特定することができます。島根が「神々の国」と言われる所以であります。「神々の国しまね」プロジェクトはこのような背景を受け、古事記編纂1300年を記念して、島根県が企画されました。島根県立大学は、この企画に学術的な側面から参加、協力することとし、古代から現代、そして未来にわたる北東アジア地域における国際交流の歴史と展望を主題とする学術シンポジウムを開催することとしました。日本と環日本海の大陸諸国との間には、神話の時代から現在に至るまで、地域間交流が連綿と継続されております。急速に進行するグローバル化を目の当たりにしている現在、国家間関係においては、種々の困難はありながらも、もはや国際交流なしの世界は考えられなくなっています。さらに、環日本海の大陸諸国との交流に加え、第2次大戦後は、環太平洋諸国との交流がその重要度を増し、北東アジア地域における国際交流の背景として、等閑視することは許されない情勢になっています。

そのような情勢を踏まえ、この度の「古事記1300年記念国際シンポジウム」の構成として、「21世紀の北東アジア交流は、『アジア太平洋交流』として展開される」との観点から、アメリカからの研究者のご参加も得て、北東アジアの地域交流の今後を展望することとしました。

本シンポジウムにご参加いただきました報告者ならびにコメンテーターの皆さんは、それぞれ、上代文学、政治思想史、日韓の神話・古事記、中国近代史、国際関係史、韓国儒学史、日中関係史、日本思想史、モンゴル歴史文献、国際政治思想、韓国史、交通経済学、中小企業政策論、安全保障論、日本の政治学、和歌と和歌論、近世日朝関係史、東アジア安全保障論など、きわめて多様な専門分野の研究者の方々であります。北東アジア地域のみならず、アメリカ、ロシアを含め、広く世界からご参集いただきました研究者に、「北東アジアの地域交流」をテーマとして、古代から、現代、そして未来にわたって、ご討論を深めていただくことができたと確信しています。

この度、本シンポジウムの成果が(株)国際書院から刊行される運びとなりました。執筆者の皆様には、ご多用中のところ、期日内での原稿提出にご協力いただき、真に有難うございました。多くの皆様に、本書を手にお取りいただき、ご活用いただきたくお願い申し上げます。出版に当たり、全面的なご支援、ご協力を賜りました(株)国際書院 代表取締役石井 彰氏に心からの感謝と御礼を申し上げます。(島根県立大学学長)

島根国際学術シンポジウム2013について

飯田泰三

平成24(2012)年が「古事記編纂1300年」にあたり、また平成25(2013)年が出雲大社の「平成大遷宮」の行われる年にあたることから、島根県は「神々の国しまね」プロジェクト(平成22年度~平成25年度)を立ち上げました。そのプロジェクトの一環として「島根国際学術シンポジウム2013」を島根県立大学で開催するという企画が持ち上がり、北東アジア地域研究(NEAR)センターを持つ島根県立大学の特性を生かして、「北東アジアの地域交流―古代から現代、そして未来へ―」を総合テーマとして開催することになりました。本書はそのシンポジウムの記録です。

2013年11月14日、15日の両日、島根県立大学講堂で開催されたシンポジウムは、4つのセッションに分かれて行われました。

古代・中世では東シナ海・黄海・日本海(東海)を通じての日・中・韓の海域交流が盛んでした。遣唐使などの制度化された交流が始まる以前から、広範な文化移動や文化接触がありました。そもそも朝鮮半島や日本列島における古代国家の形成自体、中華帝国との関係ぬきには語れません。第1セッションでは、その観点から「古代神話の世界と北東アジア交流」をテーマとして、坂本勝(法政大学)「記紀神話をどう読むか」、飯田泰三(島根県立大学)「記紀神話における出雲神話の位置」、魯成煥(蔚山大学校)「韓国から見た日本神話」、王暁秋(北京大学)「古代中国人の日本認識」が報告され、エルマコーワ・リュドミーラ(神戸市外国語大学)によるコメントと質疑応答がありました。

日本が鎖国体制をとった近世でも、日本と中国・韓国・ロシアとの間には一定の国際交流がありました。対馬宗氏を介しての朝鮮通信使による李氏朝鮮との交流や、長崎の唐人屋敷を通じての中国との交易などもありました。第2セッションでは、「鎖国時代の北東アジア交流」をテーマとして、井上厚史(島根県立大学)「石見への朝鮮漂流民について」、付勇(厦門大学)「中国漂着日本人への取り扱いに見る清朝時代の日中関係」、マランジャン・カリネ(ロシア科学アカデミー東洋古典文献研究所)「日ロ関係史から―ロシア科学アカデミー東洋古典文献研究所の史料に基づいて」が報告され、池内敏(名古屋大学)によるコメントと質疑応答がありました。

第3セッションでは、モンゴル・図們江北岸地域(現在の中国吉林省延辺朝鮮族自治州)・韓国済州島という、それぞれ国境を接する地域から見えてくる国際関係・国際交流のあり方を考察しました。すなわち、「北東アジアの接壌地域の歴史と現状」をテーマとして、井上治(島根県立大学)「モンゴルから見た北東アジア接壌地域」、尹虎(清華大学)「図們江北岸地域の朝鮮系住民社会と日本」、金日宇(済州大学校)「高麗時代のモンゴルと済州の交流―それが今日済州社会に持つ意味」が報告され、福原裕二(島根県立大学)によるコメントと質疑応答がありました。

第4セッションでは、21世紀の北東アジア交流は「アジア太平洋交流」として展開して行かざるをえないという観点から、アメリカというファクターを加えて、今後の展開を試みました。すなわち、「現代~未来のアジア太平洋交流」をテーマとして、西藤真一(島根県立大学)「極東ロシアのインフラ整備」、久保田典男(島根県立大学)「中小企業の北東アジア戦略」、赤羽恒雄(モントレー国際大学)「北東アジア地域の地域統合過程」、ロニー・カーライル(ハワイ大学)「北東アジアにおける安全保障上の懸念と経済発展政策の相互作用」が報告され、佐藤壮(島根県立大学)によるコメントと質疑応答がありました。

なお、第1セッション終了後に、宇野重昭本学名誉会長による記念講演「グローバル・ヒストリーの観点からみた北東アジアの地域交流」が行われました。

あとがき

あとがきにかえて

「島根国際学術シンポ2013記念講演」

島根県立大学名誉学長 宇野重昭

―グローバル・ヒストリーの観点からみた北東アジアの地域交流―

国際的視野から見る日本の歴史研究の面白さ

古事記編纂以来1300年あまりの日本歴史をそれぞれの国際的視野から掘り起こしていくことの面白さを、今回の学術シンポジウムで初めて実感的に経験させていただきました。本学の学長である本田雄一先生が、このシンポジウムを、島根県立大学における「北東アジア学」創成の貴重な一歩として位置付けておられることは、先生の冒頭の御挨拶(本書では「はじめに」)において明らかにされている通りです。

そこでシンポジウム第1日におこなわれました宇野の「記念講演」を、やや異例ですが、全体像を加味し、修正を加えて、「あとがきにかえて」という形でこの本に収録させていただきました。各論文の面白さを、日本歴史の国際関係論的学術研究の独創的視点から浮き彫りにして、読者の方の知的関心を刺激するためです。

各論文の学問的価値とその特徴は、李暁東教授とそれぞれの部ごとに行われたコメンテーターの懇切な解説によって的確に表出されています。私はこれらのコメントにおける討論を高く評価し、シンポジウム後のタイミングに、「記念講演」の修正版作成に活用させていただきました。また執筆者の方々も編集責任者の呼びかけにこたえて、それぞれの論文に加筆を加えられました。なかにはシンポジウム終了後この2年以内に起こった資料の抜本的再発掘を契機に、おおはばに論文を書き換えた方もあります。

その結果私は現段階における原稿の最新の状況を俯瞰させていただき、適宜コメンテーターの整理に+アルファーを加え、「記念講演」を修正させていただきました。したがいまして私の「記念講演」は、各論文の特徴を拾い、いわゆる「総合的評価」と合体し、一本化したものになっております。「あとがきにかえて」というような特殊な表現になっている所以です。

ところで今回のシンポジウムの題名は、「北東アジアの地域交流―古代から現代、そして未来へ」ということになっています。その時間的対象は多分1300年を越えて少なくとも2000年ぐらいの昔までが視野に入っていることと存じます。このような長大な時期を俯瞰することは、従来開拓されてきた社会科学の接近方法では歯が立たないような気もします。そこで考え直しまして、試みとして、ここ十数年来開拓されてきた「グローバル・ヒストリー」の発想と方法論を適用してみたいと思います。

グローバル・ヒストリーの接近方法から

新しい学問の形がととのうのには50年から100年が必要といわれます。したがいまして、まだ十数年の研究史ということで、グローバル・ヒストリーとは何かということ自体が問題となります。

そこにはいくつかの異った接近方法が提案されていますが、私は、その代表的なものを三つ選び、今回は「古事記1300年の歴史と現代そして未来」を考えるのに適当と考えられる問題意識から入っていきたいと思います。

一言、私の関心の焦点をあらかじめ列挙させていただきますと、第一には、個別の研究を基礎としながら、その個別の専門性を新しいアイディアで総合しようとしていること、第二に、環境問題、伝達問題、格差問題などきわめて現在的問題関心から出発していること、第三に、ヨーロッパが開拓した普遍的思想を、その根源にさかのぼってその内在的可能性を評価するとともに、ヨーロッパ以外の地域から提起されている内在的普遍性の開発をめざしていること、にあります。

そこでグローバル・ヒストリーの代表的なものをご紹介します。

最初注目されるのはパミラ・カイル・クロスリーが提起した『グローバル・ヒストリーとは何か』(岩波書店、2012年)という巨視的アプローチです。そこではまず、ホモ・サピエンスの「拡散」というような数万年前の人類の移動と分岐から話が始まります。そして拡散していく過程を通して異なった言語、人種、組織、思考が出来上がっていく経緯と相互影響が分析されていきます。その考え方からいいますと、たとえば韓国と日本の言語が分岐したのは案外近い時代のことだったというようなことも浮かびあがります。

次に人類の拡散につづくものとして「収斂」がきます。これは人類が多様な発展の過程で同じような終点に達するのではないかという仮説的思考が中心に出てきます。たとえば文明的段階に入りますと、多元的、多種多様な宗教的世界のなかに、強力な信仰世界として一神教のようなものが現れ、さらに人類の発展段階には終わりがあるというような終末・終末観を設定することにより、現在の時の経過に価値と意義を見出しはていくようなものがあります。ただしグローバル・ヒストリーを提唱するクロスリーは、終末論的思考には反対のようで、むしろ過去の全過程を通じて人間の運命を形づくってきた諸力と価値意識に、未来への希望への鍵を求めようとしているようです。*1

次にこの人類の発展過程には、希望とは逆の病原菌の「伝染」というような大変な試練があります。それはヨーロッパの人口の三分の一を消滅させたといわれる「黒死病」や西欧人の進むところ現地の人を死滅させた植民地的支配などが例になります。この「伝染」という現象は現代にもさらに拡大しているとも言われます。これは広い意味では国家の統制能力にも密接にかかわってきます。試練や危機に対応する国家の能力向上の可能性の問題です。

そして最後には、人類の苦しみを乗り越えるものとして、「システム」の考えが展開します。この世界システム論は、イマヌエル・ウォラースティンを想起させますが、クロスリーも、このグローバルな世界システムを概念化した学問を高く評価しています。これは国家の能力が向上し、さまざまのコンフリクトが発生する場合に、有効な手段であり、考え方になります。現在ではエネルギー争奪戦、環境破壊の拡大、領域確認問題などに不可欠の手段であり、思考方法であるとされています。

こうして拡散・収斂・伝染・システムというクロスリーのグローバル・ヒストリー論は人類史を巨視的な観点から俯瞰することに有効です。東アジアとか北東アジアといったような、地域概念がまだ生まれていなかった時代も含め、過去数千年の歴史の流れを系統的にとらえようとする場合には参考になる方法です。

次にグローバル・ヒストリーというものを、もっと現代に引きつけ、最近の五十年間を中心に課題別に分析しようとしている接近方法には、グローバルな個別的問題を個別の問題としてではなくグローバルな問題として把握しようとしているものがあります。

そこではたとえば冷戦終結後に国際的問題として取り上げられることの多くなったエスニックな紛争、エネルギーの争奪戦、宗教の現代化の問題、汚染や温暖化による環境破壊、パソコンの異常な発展による情報革命、企業の多国籍化の無限性、金融危機の世界化、テロリズムの恒常化する時代の国際秩序問題など、数多くの現在的問題があります。これらの問題を個別研究の領域にとどめず、世界的な普遍的テーマとして科学的に把握しようとしているアプローチには、たとえば『グローバル・ヒストリーの挑戦』のような大学での連続講義、学会での論戦をまとめ直したものがあります*2

これは一定のグローバルな問題意識をもって個別的問題を学術的にまとめあげるすべての研究に該当し、今回のシンポジウムの大部分の論文が、このカテゴリーに属するように思われます。多くは一次資料を開拓した緻密な学術論文です。なお前出のクロスリーが、これらの一次資料を用いた専門的個別的研究を、大きなパターンをつかんで人類史の本質と意味を解き明かそうとするグローバル・ヒストリー史家の仕事と区別し、そのうえでたがいに補完し合う関係にあることを示唆しています。

さらに若干異なる非西欧の視角からグローバル・ヒストリーの問題も紹介しているものにはたとえば2009年3月発行の『日本の国際政治』第4巻に載った田中孝彦の「グローバル・ヒストリーと冷戦論」などがあります。ヨーロッパ中心の時代から、アジアも世界の動向に参与しはじめた時代を念頭においています。ここで田中氏はグローバル・ヒストリーの多義性を論じたうえで、やや位相の異なる立場からアジアとヨーロッパの交流の意味に着目しています。

つまり東西文明の波及の仕方が、西欧世界からの近代体制の一方的波及ではなく、東アジアなどにはもともと地域的な独自性をもったシステムが存在しており、それが西洋世界と双方向的な相互作用を展開したと視る見方です。ただし田中氏は、そういう見方もあるという紹介にとどめています。なぜそれが「グローバル・ヒストリー」的かといいますと、「従来の世界史にみられた西洋中心主義的史観を排除し、非西洋世界にも歴史的変容の中心を見いだそうとするから」というわけです。

もちろんそのようなことが可能かどうかは、まさにこれからの問題です。

古代神話の世界と北東アジア交流

そこで古事記の時代の研究方法です。

まず私は古事記の研究史が、民話・神話研究に始まる国際的比較、そしてそれを可能とした翻訳のグローバルな拡大によって学術的に発展したことを注視しています。*3つまり古事記成立のグローバルな側面の重視です。

もちろん古事記の研究は、日本人自身の手によって、たとえば本居宣長(1730-1801)のような国学者によって、江戸時代から本格化したことは忘れることはできません(『古事記伝』,1798年完成)。かれは古事記の語句・文章の精緻な実証によって日本古典の歴史的意義を明らかにしました。しかし日本人学者自身の間では、詳しい人間関係、中国語古典との照合、日本の古代の研究などが進んでいただけに、古事記関係の人物の実在は本当か、国学発展のためには儒教を排除すべきか、日本の古代は何年までかといったような日本の内側の資料論争に多大の時間をとられ、その世界的意味には論議が及ばない傾向がありました。たとえば太安万侶は古事記の「序」を本当に書いたのか、あるいは稗田阿礼は実在したのかといった論争が、延々と続いています。

そのようなこともあって、せっかくシーボルトのような外国人の先覚者が日本神話の情報蒐集を開始していたにもかかわらず、学問的な意味における古事記の世界史的意義が着目されるようになったのは幕末・明治維新以後のこととされています。

山田仁史「環太平洋の日本神話―130年の研究史」によりますと、本格的な国際的研究の開始は、今から130年前の1882年(明治5年)からということで、古事記の英訳を刊行して日本神話の比較研究に堅固な土台をあたえたイギリス出身のバジル・ホール・チェンバレンの業績の広がりからとされています。かれは本居宣長の古事記研究に詳細な分析を加え、その他の日本人の研究を参考にしながら、日本神話の原典翻訳の火ぶたを切りました。日本神話が国際的に注目されるようになったきっかけです。

その後古事記に続いて日本書紀や風土記などの翻訳が出ます。以下、私の専門外ですが、山田仁史「環太平洋の日本神話」の解説などを参考にグローバル・ヒストリーの見方から古事記研究の発展の跡をたどってみたいと思います。

日本人として日本神話研究に先鞭をつけたのは外国訪問の經驗を持つ久米邦武です。しかしかれはもともと外国再発見の先覚者の一人で、1891年に「神道は祭典の古俗」と論じて筆禍事件を起こし、日本人による日本古典研究のむつかしさを垣間見せました。

ともあれ19世紀末から20世紀初頭にかけて日本人による日本神話の原型がつくられていきます。グローバル・ヒストリーの観点から言うならば、従来は日本になかった「宗教」の学術的方法による、日本神話のグローバルな視点からの研究です。

やがて日本神話には、出雲民族と天孫民族の活動が反映しているという議論が高まり、また筑紫地域の文化的先進性も注目され、古事記が、この三つの地域を含む諸地域の神話・伝承の複雑な混合・総合体であるということが明らかになります(三地域と諸地域との混合に着目したのは1897年生まれの東洋史学者松本信広)。また同時に南太平洋の各地、インド、さらに朝鮮半島、シベリア、中国など各地の神話との類似性が明らかにされていきました。現在ではその伝達ルートも明らかにされつつあります。今回の報告者である魯成煥先生の「韓国から見た日本神話」はその興味深い一例です。

そして現代となりますと古事記の世界史上の意義も注目されるようになり、その古典としての先駆性が問われるようになった結果、古事記と共通する神話的・歴史的素材が西欧をはじめ世界の各地に求められるようになっています。その意味で、今回飯田泰三先生が独自の発想のもと、「水平軸の海上他界の世界の上に、垂直軸の天上他界の世界がかぶさってくるという構図は、ヨーロッパのケルト神話とゲルマン神話の関係においても見られる」という話は大変興味をひかれました。多数派の意見では、水平軸は東南アジア、海からのものが多く、垂直軸は朝鮮半島、大陸系が多いとされています。そして古事記の場合には一見垂直軸が基軸になっているように見えながら、量的には水平軸のものが多いとされています。

ともあれ神話というものは歴史的事実そのものでもなければすべてフィクションというわけでもありません。そこには当時の古代人の生活意識、価値観、祭儀観がさまざまの形で反映しており、それを独創的な観点から歴史的、社会的意味を読み取るところに意義があります。そこにいわゆる文明としての国家の存在理由がはじまります。

「文明としての国家」による自然の克服とその限界

今回の坂本先生の報告におきまして私の脳裏に深くきざみこまれましたものは、文明としての国家のイメージとこれに対抗する荒ぶる自然の克服、そしてそれにもかかわらず自然が色濃く存在しつづける問題です。国家あるいは「くに」と「自然」の対抗問題は、北東アジア政治史研究におきまして極めて重要な位置を占める問題と考えておりますので、このさい坂本先生のお考えを私なりに整理させていただこうと思います。

この第一部のコメントの部におきまして坂本先生は、文明と自然という図式のなかで神話を考える場合、「乱暴に言えば」、要するに天皇と国家の側というのは文明、天皇が君臨すべき土着の世界を自然というように振り分けたことに言及しておられます。そして本論におきまして、三世紀のアジア世界の激動の中で倭国もまた新しい意味の苦しみにあったということを記紀と纏向遺跡の実証的調査の上に、「国家と王権が樹立しようとした文明世界は、始原の自然の力と対決しながらそれを排除」していくことによって「危機の時代を乗り越えようとしていた」と表現しておられます。きわめて重要なご指摘と思います。

しかし私が印象づけられたのはその先のアマテラスの矛盾した立場にたいするご指摘です。そこで坂本先生は、アマテラスが本来「自然の神」でありながら、皇祖神という「まさに文明そのものの権威を身に帯びなければならなかった」矛盾にたいするご指摘です。そこに私は日本人の思考様式の典型的なパターンの一つを見出しています。

なおおおくの専門家の方々の論戦は入り乱れておりますが、日本に部族連合、あるいは氏族連合が生まれて階級社会が形成されていく過程は、紀元前2世紀のいわゆる「倭国大乱」といわれる時期から3世紀の「倭国」がある程度秩序的な「国家」の形を取り始めた時期にいたるまで、多元的氏族連合の拡大への闘争が激しかったものと推定されています。いわゆるヤマト、出雲、筑紫の三大地域以外にも数多くの氏族連合が生まれました。そしてその中心には、先進的な北九州の文化が「東征」神話で知られるように東進してヤマトと合流し、強力な新しい大和を形成しました。もちろん武器は征服の力の中心だったでしょうが、当時の武器と人口と範囲の関係から、むしろ宗教的な祭儀が圧伏の象徴となりました。出雲の大和にたいする「国譲り神話」は、このような歴史的背景のもとに作られたものだと考えられています。多くの学者はこの征服過程が比較的血の流れる具合が少なかったものとして大和にとってはモデルだっただろうと推定しています。したがって大和朝廷を中心に編纂された古事記や日本書紀は、軍事・政治では大和の優越性を明らかにしたものの、祭儀の問題では出雲の立場を尊重しています。当時の統治権、現実的な支配、祭儀による人心の収攬は、かなりバランスよく神話の世界にちりばめられているように思われます。学者によっては出雲の軍事力の残存を重視している主張もあります。

最近『現代思想』のなかに特集された『出雲』によりますと、「ヤマトに寄り添うのをやめて古事記を読もうと決意」した三浦佑之が責任者で編集したものだけに、出雲のヨコの性格、つまり東南アジア的性格がよく出ています。*4これを読むと出雲の無念の気持ち、祭儀権と一定の政治力の把握の実情が推察できます。他方出雲が大和から東方まで影響力を発揮した背景もわかります。古事記・日本書紀編成期の大和とその他の地域とのバランス論、共存論が想像できる所以です。

そこで今回の私の講演では、あらためて古事記の時代前後における日本とアジア太平洋、東南アジア・南アジアそして北東アジアとの関係に力点を置きたいと思います。そしてその場合のキーワードは「国家」あるいは「くに」というものの変遷過程と、文明交流に大きな役割を果たした「海」の意義の変遷過程です。もちろん原始・古代の「くに」、中世・近世の国家、近代の国民国家とでは、思想的背景も法的構成も、権力の構造も全く違います。ただ政治史的には、ある特定の権力集団がある特定の地域を囲い込み、そこに住む人々との支配・被支配の関係を一定時間持続させたものを「くに」または「国家」として取り扱うことにします。また国と時代を越えて「海」というものが文化・文明を伝達した主なルートであったことも重視したいと思います。

鎖国時代の北東アジア交流

ここで私は「国」と「海」というキィー・ワードで、古事記の時代からその後の古代・中世にいたる日本史の特異な側面を、グローバル・ヒストリーの接近方法からあぶりだしてみたいと思います。いうまでもなく古事記の時代に到達するまでには、かなりの長期間の前段階の時代がありました。それは文字以前の古層文化の時代です。最近の古層研究は科学的分析方法の手段が急速にすすみ、日本列島に磨製の石器が現れたのは8~9万年前、縄文時代が1万6000年前、弥生時代が始まったのは紀元前10世紀といったような研究論文も現れています。

この時期には文明・技術の伝達手段にはたびたび海が活用されました。数千年・数万年の単位で考えますと、この間自然や環境などが変化し、それとともに人類の移動はさまざまの形で促進され、文明が拡がりました。当時の移動は当初家族単位、あるいは親族集団単位でした。しかし食糧の蓄積が可能となり、大規模な移動と集住が可能となると、血縁集団を越えた氏族が形成され、さらに血縁のない氏族間連合が進むと人々の価値観・心情を反映した「宗教」的なものが活用されました。そのリーダーは力ではなくむしろ精神的活力を利用して、生活と居住範囲を拡大しました。

この時期の権力構造は、今日の国家をイメージするほどには強力ではありません。しかし日本の場合、800年も文明が先行していたといわれる中国のような先進国が存在していました(石井正敏ほか「東アジア世界の成立」第1巻、吉川弘文館、2010年、参照)。中国の華夷思想の影響は、むしろ自然であり、必然的でした。日本の大和朝廷もこの華夷思想の日本版を理想のわくぐみと考えて、日本の統合と各地の交流に乗り出しました。

ただ華夷思想では、強制力はあってもその支配の構造は緩やかでした。民族意識も後の時代のような人為的強制力を加味しません。そして中国の場合、華夷差別による朝貢は受け入れても、文明の成果の返礼は、受け取ったものを上まわりました。原始・古代の国際交流が比較的友好的であったといわれる所以です。海は人を隔てるものですが、原始・古代には、それ以上に交流促進の場として機能しました。陸に国境があるように海に海域と税関を設けようとするような考え方はまだ希でした。また航海自身が困難を極めたもので、さまざまの危険性に満ちていたものですから、渡海する船の数は知れたものでした。また陸の権力は海には限定した形でしか届かず、海は一定の人が居住し、往来し、国家権力と離れて、自然に人間同士が交わり合う平和が基調の世界でした。

王曉秋先生の「古代中国人の日本認識」はその明るいイメージを強調しており、唐の玄宗は752年に日本の遣唐使と接見したとき、その優雅な立ち振る舞いや風格を見て、日本に「礼儀君子の国」という称号を許したことを例示しておられます。悪徳商人や侵略的倭寇が問題になるのは、明の時代に入ってからのことです。

なぜそのような時代になったのか。古代国家の統合力が後退し、陸における支配・被支配関係が強化されると、海は権力闘争の場としての存在理由を高め、陸の論理が海の世界に拡大されました。2013年に発刊された『海から見た歴史』(全6巻、東京大学出版会)の表現によると「ひらかれた海」から「せめぎあう海」へ変化したわけです。なおこの本は,1250年から1350年を「ひらかれた海」、1500年から1600年を「せめぎあう海」、そして1700年から1800年を「すみわける海」としています。陸における権力のありかたによって、海における競合関係が変化するというわけです。必ずしも歴史的出来事と符合しない例も多いように思われますが、海中心の見方からいえば、一つの面白い時代区分と思います。

たとえば国家が求心力を後退させて、海にたいする「緩やかな管理」から海域にたいする利用と干渉の政策に乗り出すと、国際的環境のいかんによっては、海における衝突は急増します。そして元寇は、この状況をさらに悪化させました。中世国家は内部的権力構造を強化したにもかかわらず、海の上では却って統制力を後退させたわけです。王暁秋先生の表現でいうと、元寇の後「日本の一部の大名、武士、浪人たちは、結託して海賊行為や密貿易を働き、二百年もの長きにわたり武装して中国の東南沿岸地方を荒らし回っていき、その被害は明代の嘉靖年間に最も激しくなった」というわけです。

もっともそれにもかかわらず王暁秋先生は、当時の古代中国文学作品のなかに描かれている日本人のイメージが「良し悪し」の両面であったことを具体的に説明しておられ、王先生の中国人的発想から言えば、アヘン戦争以前の外国の本格的な侵略開始以前は、すべて「古代」ということになります。それは秦・漢時代から明・清時代までの全部を含みます。中国人歴史家の時代史観には、中世、近世はありません。これだけ長期的構想となりますと、そこには良い面と悪い面の両者が共存するわけです。そして王先生が文末で強調されていますように、歴史を鑑として未来を構想する時、悪の中に善が優先します。この部会のコメント交流の時、不思議に感じた日本人の聴取者が質問しているのに対して王先生が中国人の歴史観を説明しておられるのに、中国人と日本人の歴史認識のギャップを痛感しました。

国家のアイデンティティと漂着民

ともあれ日本人の考える中世の国家権力は、鎖国時代のため、あるいは鎖国をタテマエとする時代であったため、国家意識はむしろ支配者間に強化され、あいまいではありましたが海にたいする行政的範囲が拡大され、領域あるいは海域的なものを固定化しました。今回のシンポジウムで大きく取り上げられている「漂着民」の数と質とは、そのような時代を背景としたものです。「せめぎあう海」の時代とは異なり、海賊の横行も可能なところでは抑制されていきました。広い意味で捉えますと、この時期は「すみわける海」への過渡期の時代ともいえましょう。この時期になりますと、漂着民は牢獄に押し込められるより、「客」として待遇される方向に変わりました。その具体例は井上厚史先生の「石見への朝鮮漂流民について」や付勇先生の「中国漂着日本人への取り扱いに見る清朝時代の日中関係」に興味深い例を多々見ることができます。時期によっては漂着民が「賓客」のように取り扱われたこと、中・韓・日が、条約網をつくっていたのではないのに経験の中から共通の接待ルールを設定していたことなどは、海を通しての人間の豊かな交流の例として参考になります。

とくに井上厚史先生が、島根県立大学の韓国人留学生・呉相美さんの修士論文で開拓された朝鮮で編纂された三つの貴重な資料を活用して当時のなまなましい現実を明確にされましたことは、漂流民研究に関してまたとない研究成果を提示したものとして触発されました。とくにそのうちの『同文彙考』(1623―881)などが、石見の漁民が群を抜いて海外からの漂着民を救い心身ともに慰めた行動などは、島根の人間のヒューマニズムを歴史的に明らかにしたものとして歓迎したいものです。また付勇先生が、清の時代の公文書を詳細に分析して中国の官民が日本漂着民を手厚く取り扱ったことを資料的にあきらかにしたことは、その片務的・無償の対応といい、華夷思想を押し付けなかったことといい、予想外、あるいは予想以上の史実分析として括目に値するといってもよいと思います。そして付勇先生が、従来の中華思想の一端である「懐柔遠人」を一歩進めて「八方向化、九土来王」を理想像として示していることは、中国人の未来に対する理念の現実的可能性を示したものとして極めて印象的です。

さらにマランジャン・カリネ先生が東洋古典文献研究所の史料にもとづいて当時のロシアにおける具体例を解析している例は、当時のロシア人の知的好奇心と日本人漂流民の通訳に成長する能力を実証したものとして興味深いものがあります。エカリテーナ女帝へ贈られた大黒屋光太夫の書籍など海水に浸かつた資料がよくここまで奇跡的に保存されたものと、ロシア知識人の忍耐力と知的先見性に敬意を表したいと思います。

もちろん知的好奇心だけではなく、経済的・外交的利害関係もあったと思います。当時の帝政ロシアには、アジア貿易にたいする先駆的意識を看取することも出来ます。また漂流した地域は違いますが、アメリカにおいても、通訳になりうる漂流民を教育したり、運の良い漂着者が個人的支援を得て、キリスト教文明の伝道者として育成される道も開かれました。しかしこのような現象は中国に対する日本人漂流民、朝鮮に対する漂流民の場合には起こりませんでした。その理由に関して、コメンテーターの池内敏先生は、現実的な解説を加えておられます。つまり中国や朝鮮の場合には広い意味での中国語が共通言語文字として使用されていたため、通訳を漂流民に求める必要性がなかったのではないかという見方です。北東アジアにおける中国の存在の特異性を考えさせられる一例です。

北東アジアの接譲地域の歴史と現状

ところで民族意識が芽生えてくるようになりますと、国家の枠組みがしだいに強化されていきます。しかし東アジア、広く言いますと非西欧社会におきましては西欧と異なり国民国家意識がすぐに表面化したわけではありません。もちろん「西欧の衝撃」が始まって以降は、為政者層、有力な武士階級を中心にナショナル・アイデンティティが芽生えていきます。しかし同時に豪農層や豪商層、さらには民衆の有識者層の間に地域レベルのナショナル・アイデンティティが拡大していきます。

たとえば日本の場合、江戸時代に入ると寺子屋が広まり、日本の文字・地理を教えることによって日本人意識を培養する場合もあったことはよく知られているところです。ただし排他的意識は強化されなかったと伝えられます。地方の庶民層またそのリーダー層におきまして、人間的な情緒をもって外国漂流民に接する場合の多かったことも前項で取り上げたとおりです。

そして「庶民に根差すエスニック・アイデンティティが、支配階級のナショナル・アイデンティティをも規定し、あるいはその逆という、双方向的に規定し合う時代がこうして到来した」というような試論も、研究者の間に浸透してきています(荒井泰典「民族と国家」(吉川弘文館、日本の対外関係1『東アジア世界の成立』2010年))。そして広く北東アジア地域に関連しまして、中世から近代初期にかけて、国家の枠組みの希薄な領域設定、あいまいな辺境地帯における文化触発、素朴な郷土・同族意識の超域的越境などが、グローバル・ヒストリーの好個の対象になってきています。したがいまして今回、「接譲地域の歴史と現状」に関する第3部が設定されたのも有意義なことと思われます。私の考えでは、「接譲地帯」というものは前近代的国家と地域の混淆する場であり、地域の可能性をまったく新しい視点から再発見していくものと見ています。

その意味で第3部の討論におきましてコメンテーターの福原裕二先生が、セッションの目標を的確にとらえ、とりわけ中国東北部の朝鮮族が多数居住する「陸の接譲地域」と済州島のような海域にある「海の接譲地域」を整理し、それら地域の中世および近世の史的展開を捉え、それと現代との連関を浮き彫りにするとともに、「本シンポジウムの全体のテーマである『北東アジアの地域交流の未来』へ向けての能動的な提言を試みるものではなかったか」と未来の可能性を示唆しておられることには、全く同感です。

もちろん世界の各地でも強国の発展の縁辺には少数民族問題が取り残され、現在少数民族文化あるいは複合文化地帯として注目を集めていることは周知のことですが、北東アジアにおいては、いまだ国民国家としての枠組みを形成していなかった強国が、民族的侵略という形で民族意識未形成期の辺境あるいは国境直接地に進出し、複合的文化、あるいは独特の文化形成に向かったことは大きな問題として注目されてきました。そして複合文化の形成ということは容易なことではなく、また辺境地域の独自文化を消滅させることはさらに容易なことではないという史実を提供しています。

私(宇野重昭)も日本辺境の複合的文化の離島を郷里とし、その伝統に強い影響を受けながら自分自身の思想を形成してきただけに、このような強弱入り乱れる「接譲」地域の歴史と現在に強い関心を抱いております。

いうまでもなく北東アジアにおきまして歴史上強国として大きな役割を果たしたのは長期的には中国、そしてある特定期に世界史的役割を果たしたのはモンゴルです。そしてその進出先におきましては他者あるいは辺境社会に強烈な打撃力を与えるとともに理の当然として現地人からの反撃、懐柔、利用を経験し、長期的に見るときには逆に辺境民族から強い影響力を甘受することになりました。

そこで私は1958年から62年、「太平洋戦争」の見直しを試みる研究者集団に参加するとともに、「満州国」や「五族協和」の研究に没頭しました。特に「満州」における朝鮮民族にたいしてはその圧倒的多数が日本の朝鮮植民地化政策によって故郷を追われ、「満州」に土着しようとしたにも拘わらず、さらに追及して南満州、とくに当時の「間島」に進出した日本警察機構の「保護」と「圧迫」に振り回されて苦しんだものとして、重要な研究対象としました。当時私は大学院博士課程の最終段階から一時外務事務官の道を進んでいたため、「太平洋戦争」研究の名のもとに『日本外交文書』に収録または除外される以前の「外務省記録」や警察、情報機関、現地指導員らのナマの資料を読む機会に恵まれていました。(この間の資料は日本国際政治学会編、朝日新聞社出版の『太平洋戦争への道』第2巻1962年の宇野論文の脚注に支障のない範囲内で紹介されています。)

これらの資料によりますと、当時中国共産党の東北支部は李立三中央の暴動一揆主義の誤った戦術的指導で一部「朝鮮人」の対日独立運動の武装蜂起促進を中心とし、コミンテルンもまたその誤指導の張本人として武器の供給ばかり考えていたように思われます。これにたいして日本の警察、軍人は、温和と暴力の二面性を使い分けていました。

結果として中国の軍閥政府は在満「朝鮮人」を日本の手先として敵視し、時には日本警察の保護下にある朝鮮人部落から「匪賊」の名をかぶせられた男子の大多数を連行し、裁判もなしに山奥で虐殺をおこないます。住民からの訴えを聴いた日本の警察官はその後を追い、処刑直後の記録をとっています。

この時期の在満の朝鮮の人々の気持ちは複雑で、どうしても日本の「五族協和」は口ばかりで日本文化になじむ気持ちはないものの、中国の軍閥も信用できないし、中国国民党や共産党に接近することも危険であるし、やがて九・一八事件で満州事変が勃発すると在満の朝鮮の人びとの立場は急迫し、ある老人は家族を抱きながら日本の日の丸は見たくないと叫びながら、その旗のもとに泣き泣き保護を求めて入っていったことが伝えられています。

中国と朝鮮の人々の矛盾の中に、日本文化が突っこんでいった三重の悲劇です。日本人はこのような歴史が繰り広げられていた北東アジアの現代史の重要な側面もまたを学び直す必要があると痛感しています

接壌問題三論文が提起したもの

その意味で今回の三つの論文は魅力的です。私のように資料が散逸してしまい、記憶に頼らざるを得なくなったような過去の研究とは異なり、厳密な資料分析と現在的な学術交流に立脚して、学術的にユニークな問題を提起しています。

第一の井上治先生の「モンゴルから見た北東アジア接譲地帯」は、コメンテーターの福原先生が的確に紹介されているように、モンゴルの眼から見た、陸続きの延吉など旧間島の大陸部接譲地域と、済州島のように陸地から離れた海域接譲地域との相違を、13世紀の歴史以来のモンゴルと朝鮮の関係にそくして詳細に分析しています。両者の関係が、一方ではモンゴルの内政にもひびく密接な人間関係と組織関係、他方ではモンゴルの日本遠征の前進的軍事拠点に過ぎず限られたモンゴル人しか進駐しなかった島部の場合とで、かくのごとく相違があるということを初めて教えられました。その相違が個別的なものか、あるいはより普遍性を持つ歴史的法則的なものなのかということは、今後いっそうの現地調査を待つ必要があると感じました。それだけに井上先生が、最後の討論の時、モンゴルのプレゼンスがこの両地帯に関して「現在はほとんど何もない」、「(延辺地域関しては)モンゴル人が住んでいる中国東北地域に漢民族とそれから朝鮮族が入っていってしまって、そこにいたモンゴル人たちは皆撤退している」と発言されたことは印象的でした。

これに対して尹虎先生の論文は、ぐっと20世紀の現代の問題に焦点をうつして、日本人の進出地帯における朝鮮系住民社会との軋轢と競合、文化交流の問題を取り上げているだけに、朝鮮系住民社会人の内面に残った日本の問題を歴史的事実として注目しているように思われます。ここでいう朝鮮系住民社会というのは、現在中国の中にある朝鮮系社会を言い、そこでは一般に「間島問題」のような悪しき記憶を引き出すことは、朝鮮系社会の今後の発展にとってマイナスであるという雰囲気が強く存在しているように考えられます。

では、今後朝鮮系住民社会は崩壊してしまってよいのかという問題が浮上します。私も指導者の一人として上智大学における博士論文獲得を応援した権香淑さんは、むしろ中国における朝鮮系住民のしたたかな生き方を評価し、その国際的側面の思い切った工夫を指摘します(「中国朝鮮族の再移動と家族分散―生活戦略としての国籍・戸籍取得に着目して」2014年10月)。

尹虎先生は、現地の人びとにとって、「日本が単なる『侵略者』という単語で定義しきれない存在」であるという微妙な表現を押し出しています。日本が侵略者であるということは疑う余地はありません。しかし現地の人に内面化された日本の存在は否定しきれないというわけです。そしてこれに関する研究は「日本が直接かかわった歴史であり、ある意味で日本の歴史の一部ともいえる」と指弾します。ここから日本人研究者との共同研究の主張が始まります。「本稿が何らかの形で北東アジアにおける共同社会の創生に示唆を与えられることを願う」という呼びかけは、北東アジア学の未来を指向しようとするものとして強く同感できます。

第三の金日宇先生の「高麗時代のモンゴルと済州の交流」という報告は、現在の済州島におけるモンゴルと済州の見事な相互補完を明らかにしています。それは新しい「地域的アイデンティティ」の主張につながっていきます。同時に広い意味における中国語文化圏への帰属意識を持ち、この島国が海を隔てて東アジアの各地と連携していく「国際性」のある地域としてのアイデンティティを主張していくところに大きな特色があります。「結びに代えて」の結びの金日宇先生の言葉、「済州は東アジア文化史の中核地域として、東アジア圏の文化的同質性とアイデンティティを積極的に探索してみる価値のある地域であり、また、それが可能であるのだ」という表現は、今回の『北東アジアの地域交流』の「歴史からから現代、そして未来」への、理念的目標を代表するものといってもよいと思います。

私たちは済州島が朝鮮国に属しながら、とくべつに自律的な地域であることを知っています。済州島が、ときには朝鮮本国人から「軽蔑のまなざし」で見られながら、なお極めて高い経済発展を成し遂げた地域であるということも知っています。しかし本論文で明らかにされているほどモンゴルとの関係を内在化し、朝鮮本国の原型ともいうべき高麗と苦闘を繰り返しながら自己のアイデンティティを築きあげてきていることは理解していなかったように思います。高麗も済州も全盛期のモンゴルが支配し、共にモンゴルの日本征服遠征の前進拠点にされたことは、一応の歴史の一コマとして頭の中にあります。しかし前出の井上治先生が陸地続きの朝鮮北部の地からモンゴル人の引き上げ後にはモンゴルは何も残らなかったと表現しておられるのとは対照的に、済州ではモンゴルの軍と官僚・王侯貴族数千人の駐留・流刑による定着によって、済州の牧畜業が飛躍的に発展し、有能な混血の子孫を育成し、その後の社会的経済的発展の基礎となったことまでは理解していませんでした。個人的なことで恐縮ですが、私は1950年代初頭駒場の寮で二年間済州出身の友人と寝食を共にし、済州島の孤独な闘いの話しに耳を傾け、私の知っていた日本現代史の記憶を是正しつづけました。今回は、その再現の思いです。

20世紀の日本の国と地域

ただ、ここまで追ってきた国家と並び立つ地域の発展の歴史は、20世紀のドイツ・イタリアそして日本の国家主義の展開によって中断されました。国家があらためて圧倒的優位になったためです。

北東アジアの近代におきましては、ながらく日本が中心になってきました。したがいましてここでは、日本が明治時代後半から昭和の前半にかけて、つまり象徴的には、1889年の万世一系の天皇の統治権の上に立つ大日本帝国憲法の制定から1937年の文部省の「国体の本義」配布にかけて、国家神道の理論的基礎のうえに「ファシズム時代」と呼ばれる軍国主義国家主義の時代を現出したことを少し取り上げたいと思います。

このファシズムの時代の歴史的意義は、国際政治学者としてのハンス・モーゲンソーがその若き日の『人間存在とパワーポリティックス』において“連合国は軍事という面ではファシズムに勝利したが、本質的意味ではまだファシズムを解明していない"とのべたところですが、日本におきましても丸山真男が成り行く日本"の思想と行動によって戦争に突入していった思考様式につきまして優れた解釈を表明しました。しかしファシズムの本質および社会の全体的構造と地域の意義にかんしましては、まだ十分に解明されていなかったように思われます。とくに日本人自身は、戦争責任、敗戦、右翼といった表現にとまどい、指導者層だけではない日本人全体の「歴史経験」・「責任」を理解しようとしていません。

政治権力を抜かれて精神的権威のみを保っていた天皇制とそれを隠れ蓑にして集権的封建制の軍事力を保持していた日本は、先進国にならう飛躍的に強化された軍事力をつくるため、並行して天皇制を一元的に強化しました。この新しい天皇制を確立するための様々な工作は幕末・明治維新から明治憲法とセットにされた教育勅語に具現化されました。そしてこのさい、古事記作成時代に配慮された大和と出雲の微妙な権力と精神力のバランス関係、ヨコの水平軸である南太平洋からの母系社会の伝統とタテの垂直軸にある大陸北方の父系社会の均衡関係は、大和寄りに集約されていきました。生きた地域の多元的発展の事実があったにもかかわらずʻ隣り組みʼのような国家に一元化する共同体論が押し出されました。

そして明治憲法・教育勅語に関しましては一般の庶民にはわからないことが無数にありました。卑近な例では、天皇制についての顕教と密教の二重構造の論理は、一般庶民には理解されていませんでした。天皇機関説を否認して天皇崇拝にしぼった「国体の本義」論は、庶民として当時まだ小学生であった筆者にはチンプンカンプンなものでした。いまや日本の近現代史は、高級の知識人の考え方だけで論じる時代ではなく、庶民の眼からみた日本の歴史を考察すべき時代が現在ではないかと思います。

庶民あるいは圧倒的庶民が住んでいた地方を軽蔑することは、現代的でないように思われます。軍国主義に一本化された日本でも地方の庶民にはまたそれなりの自己存在の主張があります。私はある時期、鶴見和子さんたちと日本の地方の内発的発展の可能性を追い続けたことがあります。それは必ずしも都会人的、理性論的な知識人に判りやすい内容になってはいません

たとえば島根では、私たちは、島根と大和のバランス論を島根寄りに解釈する人が多く、天照大神より大国主命、素戔嗚尊論が優勢であることは奇異の感情をもって見たことがあります。今となってみれば、それがその地域の一般の人びとにとってあたりまえの主張であることがわかりました。

つまりファシズム日本といっても日本各地ではそれぞれに事情が異なるわけです。また人によって国家にたいする姿勢も変わります。20世紀は国家の力の絶頂期だった最後の時代といわれています。しかし現代国家なるものの支配の実体は、今後もっと研究する必要があるようです。

ただ今回のシンポジウムではこの20世紀の日本をめぐる論文は省略されていますので、本論の第4部の国家後退期の議論に直接進むことにします。

現代~未来のアジア太平洋交流

戦後世界の国家の後退期といいましても、一部の学者が主張するような「国家の黄昏の時代」にはいったわけではありません。第二次世界大戦後になって「国家」の存在感は逆に強化された側面もあります。戦後国際枠組みの形成において、現実には国家の積極的な関与が期待された分野もあります。

ただ国際化、民主化、地方自治尊重の時代にあっては、国家の社会発展への介入の限界、あるいは権力の抑制という問題提起が各地においてなされました。そこから国家のあり方そのものの限界性、社会福祉や国民の生活への介入のしかたなどに関する限度などか論議の中心に浮上してきました。国家は国民個人の領域に積極的に参入することによって、国家としての性格を変化させていったわけです。

その意味で西藤真一先生が、「極東ロシアの交通インフラ整備」において「官民提携」が必然的であったことを、公共部門のみによる投資は9,694億ドルのうち2,844億ドルと30%に過ぎなかったことを指摘した後で、完全な民間部門による投資は83億ドルと極端に少ないことを際立たせ、結局官民連携によるインフラ整備が6,767億ドルと中心的な資金調達源であったことを明示しています。ロシアの交通インフラが、世界の競争力において、中国の74位、インドの85位より劣る93位であったとするならば、ロシア政府の公共部門における主導的役割は不可避ということができましょう。

いわんや地域社会にもっとも近い存在である中小企業が、時代での必然性におされて海外販路開拓を行おうとする場合、マーケティングや流通戦略の選択に関連して、行政の積極的支援を活用し、現地視察、展示会出展、海外バイヤーの招聘、人材確保など行政などの積極的活用を奨励することは理の当然のことと考えられます。久保田典男先生が、「中小企業の北東アジア戦略」において、島根県の、実情にそくしたキメの細かい支援を期待していること、そして、中小企業が海外販路開拓を図るためには、適したパートナー企業を確保すること、そして日本とロシアのそれぞれにおいて品目ごとに接点となり得る企業を複数化し、企業間のネットワークを活発化させる施策を求めていることは印象に残りました。ともすれば全国レベルでは公的機関の民間企業圧迫が取り上げられることが多くありますが、ここ島根県ではそのような杞憂が無縁であることがよく理解されると思います。なおコメンテーターの佐藤壮先生の発言に関連して久保田先生が、「行政の支援というものは、企業がその市場の競争の中でチャレンジしてみようという、そうした支援にとどめるべきである」と発言されていますが、適切な指摘ということができましょう。

第3番目の論文である赤羽恒雄先生の「北東アジア地域の地域統合過程」は、詳細な統計類を基礎とした、国際的マルチレベルの統合を指向した本格的な国際政治学の方法論による論文ですが、北東アジアのみならず東アジア全体を視野に入れており、かつアメリカの存在の現実的側面を浮き彫りにした、原則と現実政治追求の論文ともいえます。

いうまでもなく地域統合には共同問題解決のための原理的基礎として、「主権の共同行使、天然資源の共同管理、そして知恵と知識の共有が大切」ですが、政治的には「相互の高度な信頼と信用が必要」になります。ところが、APECの場合には中国、日本、韓国の政治指導者たちが「東アジア共同体」の構築に関しましては現地の実情からある程度前向きの結論を得ているのに対し、北東アジアの場合には、地域大国間の信頼・信用が大きく欠如しています。根本的には日・中・韓の歴史認識にたいする落差、具体的にはどの国が統合過程を主導するかの問題、さらに具体的にはそれぞれの国の政策決定に深刻な問題をなげかける国内情勢が指摘されます。これは端的にいいますと現代的な新ナショナリズムの勃興による困難ともいえましょう。東南アジアにおきましては平和構築に関して若干明るい兆しが見えるものの、北東アジアにおきましては平和共同に向かっての明るい光が見えにくいと言う事になります。北東アジアの地域交流の未来を予測しようという本書におきましては重大な問題点です。赤羽先生は、厳密な経済的資料を提示することによって、その暗い予測を相対化しようとしているように思われますが、周知のように中国経済の圧倒的な高レベルの発展は、必ずしも未来の平和共存をそのままに予測できるものでもありません。

なお赤羽先生は、最後の討論におきましてはさらに率直な意見をのべておられ、北東アジア諸国においては、その協力体制建設のため、国家主権にかかわる領土問題や海洋法問題のような中枢的問題には拘わらないこと、アメリカの参入も、その自国中心的な考え方から金も武器も出来るだけ使わない軽装レベルのものであるべきことを示唆しています。

ここでは触れられていませんが、一般的にはここ数年、多分3年から6年、アメリカは「イスラム国現象」対策に力をとられ、またイラン戦争や「アフガン介入」の後遺症に悩まされ、さらに国内問題における内部対立に苦しみ、北東アジア地域問題には積極的に参与しないのが基本方針と伝えられています。今後の北東アジアの地域交流におけるアメリカの参与のありかたを抜本的に変化させる問題群を内在させているがゆえに、北東アジアの未来を考える場合、ぜひ慎重に考慮すべき問題点として付言しておきます。

第4のロニー・カーライル先生の「北東アジアにおける安全保障上の懸念と経済発展政策の相互作用」は、国際政治学の分析方法の最新段階に立脚した極めて意欲的な論文です。これまでの経済発展が直ちに平和関係を推進するというような単純な思考様式は、ここで大きくうちやぶられています。

いうまでもなくグローバル化の現在は、経済発展、民主主義の方法、過激ともいいうる情報革命が、国際社会の問題をそのまま地域、個人の生活様式にまで浸透しています。とうぜん生活向上を求める人々は、政治の問題より、まず経済発展による未来の希望を求めます。そして、個人の生活向上を求める世論は、生活向上に適した秩序や機構の変革を新方式の選挙・議会に求めます。いかなる独裁政権といえども、この民衆の声を封殺することはできません。

このことは、下からの、地域からの声を社会の主人公にしようとするものとして、本書の地域主義の主張に符合しています。しかしグローバリゼーションが一定の段階を超えた今、地域における生活向上は国際社会における優越的立場の要求を必然的にします。そしてそのような要求の声は、複雑な伝達機構を通して、国家レベルで展開しないと効果を持たないことがはっきりしてきました。ここで国家レベルの主張を国際関係の中に持ち出すことになります。本書の一部の研究者が言及している「方法としてのナショナリズム」の時代です。

周知のように「安全保障」体系というものは、直截的な伝統的安全保障に並んで、エネルギーや食糧などに重点を置く非伝統的な安全保障が並立するようになってきています。いわゆる「人間の安全保障」システムの要請です。そのアイディアというものは基本的には支持されるべきものですが、現実の政治システムをくぐって表面化すると、きわめて自己中心的なナショナルな要求に転化する場合もあります。しまいには民衆のなかの「社会格差にたいする反発」、「指導者への疑惑」、「歴史的記憶」などが重なって「方法としてのナショナリズム」に形を変え得ることもあり得ます。北東アジアにおける新しいタイプのナショナリズムは、人種的反発、反日のような特定意識を是非乗り越えてほしいものと思います。

このような現代の国際関係の問題は、今後慎重に再検討されていく必要があります。しかし今回のカーライル先生の「総合的安全保障」論の皮肉な二面性の指摘、経済発展重視の政策採用による各国の安全保障文化の変容、経済を「安全保障化」することの問題性は、きわめて現実的であるといえます。とくに北東アジアにおいて、「構成主義的均質化を目指す風潮が、国家間の相互不信、政治風土の根深い違い、利害の対立」を乗り越えることが出来るか、どうか、考えさせられる貴重論文と判断できましょう。コメンテーターの佐藤壮先生が「政治、経済、社会、文化が領域横断的に相互作用」する様相を見れば、「領域を持つ統治機構としての国家の存在を相対化する必要に迫られるのではないでしょうか」という問題提起を出していますが、このような未来観は、アメリカと日本の国家観の相違を整理して、あらためて生かしてみたいと考えています。

北東アジアの未来

ここで従来の議論を整理してみるため、私なりに最後のまとめをしたいと思います。

あらためてグローバル・ヒストリーの発想を背景に北東アジアの特徴と未来を考えてみますと、三つの問題点が浮かんできます。

第一は、北東アジアにおきましては、国家建設というものがある意味で頂点に達して変質しつつある日本のような先進国と、これから国民的統一国家になろうと努力している国と、国的存在を目指して周辺との連携方式を模索しつつある地域が違うことです。西欧のような共通の精神文化が乏しいだけに、思想的・社会的・文化的にきわめて多種多様です。それだけに、国際的連携、経済的交流、文化的触発関係は、多種多様とならざるをえないのではないかという問題点です。

第二は、いずれの国も、その国家形成過程中になんらかのグローバリゼーションの影響力を受け、国民国家形成過程中であるにもかかわらず、それを越えた国際的ネットワークを同時に求めていることです。ASEANは、その典型的例といえましょう。その国際組織化は緩やか連携を求めていることが特徴で、強力な条約組織を設定しないこと、つまり多数決による決定はなるべく回避して、相互の合意確認までを目標とし、互いに内政に干渉しないことを旨とする問題点です。そして目下のところ自由貿易協定の二国間・多国間協定に重点を置き、元来の目標の一つであった域内安全保障の前進には慎重です。いちおう地域共同体の形成を目指していますが、赤羽恒雄論文が指摘しておられますように共通の理念目標がはっきりしません。またロニー・E・カーライル論文が問題としている安全保障と経済発展の相互作用にたいする考え方も実質的にばらばらなままです。

2015年と2020年には一つの大きな前進が誇示されると思われますが、いわゆる東アジア共同体形成にはさらに数十年を要するのではないかと考えられます。このASEANには、プラス3という形で北東アジアの日本・中国・韓国が協力していますが、日本と中国・韓国は「歴史認識」問題で政治的に対立していて共同歩調というより競合する場合の方が多く、ASEANの統合にたいしては複雑な影を落としております。

第三に現在の北東アジアにはアメリカとロシアが有機的な一部として参入していますが、グローバル化の進む現在、もはやアジアの問題はアジアで処理できるというような時代ではなくなっており、両国の東アジア交流参入はむしろ自然の流れとなっていると考えています。

アメリカは、すでに日本占領時代を通して日本のアメリカ化を本格的なものとし、あわせて世界的視野から北東アジアの問題をアジア太平洋の問題として処理しようとしています。他方ロシアは、思想的に歴史的に中国と密接な関係を保ちながらも、若干ドライな思考の中に日本との提携も強化しようとしています。ドライな方がかってのコミンテルン時代のような密着強制型を排除できます。西藤真一論文が指摘するように、エネルギー資源の開発と輸送にこそ今後の日ロ関係を緊密にする鍵がひそんでいるように思われます。また久保田典男論文がふれていますように日本とロシアの間では中小企業も含む肌理のこまかい提携のネットワークが徐々に形成されていくと思われます。したがいまして現在のような世界と地域の多重構造の時代には、国際的秩序の方向を見定め、より有効な政策を具体的に練る必要があります。

また北東アジアという理念的かつ現実的範囲におきましては、内在的存在になりつつあるアメリカとロシアとの協力方式をさらに開拓していく必要性かあると思います。そのためにも今回のシンポジウムにおきまして、歴史と現在を生かした具体的知恵が創出されてくる実例を学んでいくことができるものとして期待しております。

領土問題・歴史認識・文明論的論争などの絶えない現在、北東アジアの諸地域も、歴史から未来への具体的提案の方法論を見出し、さらに国家の新しいタイプを案出し、住民のための地域の発展の多様性をいかしてしていく方法をまさにこれから確立していきたいと考えております。

ありがとうございました。

〈注〉

*1: クロスリーは次のように現在から未来を眺めています。「それは危険をともなうプロセスであり―ヘーゲルやマルクスの歴史と異なり―決して終わりのない過程である。グローバル史家は、過去数世紀の歪みの彼方に目を向け、諸帝国ともろもろの覇権が残した表面的な構築物を通貫して観察することで、人間の条件の鍵、過去の全過程を通して人間の運命を形づくつてきた諸力と未来への鍵を見つけ出すことを熱望しているのである」(パミラ・カイル・クロスリー:佐藤彰一訳『グローバル・ヒストリーとは何か』、岩波書店、2012年、178頁)。なお原典は2008年発行。

*2: 水島司編『グローバル・ヒストリーの挑戦』(山川出版社、2008)は、なぜこれが従来の方法にたいする挑戦かということを詳論している「序章」に続き、第I部の「グローバル・ヒストリーの方向」には歴史的中国には西欧とは異なる国際秩序観の発展があることを指摘して注目された濱下武志教授の「ノート」、第II部の「グローバル・ヒストリーの試み」には秋田茂教授の「アジア国際秩序とイギリス帝国、ヘゲモニー」が含まれている。

*3: 筆者は古事記の基礎をなしている神話を中国など大陸の影響のみならず、むしろ文明論的にはアジア太平洋の諸島文明の強い影響を受けて形成されたものと考えている。その意味で今回は丸山顕徳『古事記:環太平洋の日本神話』(勉誠出版、2012)から多大の示唆をうけた。とくに6頁から24頁に収録されている山田仁史「環太平洋の日本神話―130年の研究史」からは教えられるところが大きかった。

*4: 青土社『現代思想』2013年12月臨時増刊号、三浦佑之「出雲と出雲神話」、赤坂憲雄との対談「出雲は何を問いかけるか」など参照。古事記のなかにはタテ関係とヨコ関係が巧みに組み合わされているものの、実質的に出雲は南方起源のヨコ関係の神話が主流であつたことが指摘されている。

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