ボワソナードと近世自然法論における所有権論 所有者が二重売りをした場合に関するグロチウス、プーフェンドルフ、トマジウスおよびヴォルフの学説史

出雲 孝

国際法の側面、立法の基礎理論の提供、かつ「世界道徳」を内在させる自然法に関し、啓蒙期自然法論とボワソナードの法思想が異なるという通説を近世自然法論における二重売りの問題を通して検証する。(2016.9.20)

定価 (本体6,400円 + 税)

ISBN978-4-87791-277-2 C3032

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目次

著者紹介

1982年山口県岩国市生まれ。

中央大学法学部法律学科卒業。博士(法学)(中央大学)。

法学博士(フランクフルト大学)。

専門は近世自然法論。

主著にDie Gesetzgebungslehre im Bereich des Privatrechts bei Christian Thomasius (Peter Lang社、2015年)。

主要論文に「消費貸借に「給付の均衡」法理を適用することの可否―ローマ法、カノン法および近世自然法論における利息の禁止」(『中央大学大学院研究年報』第39号、51-73頁、2009年)などがある。

まえがき

まえがき

本書は、中央大学大学院法学研究科へ提出した博士論文に、加筆修正を加えたものである。現在、民法典の改正作業が進む中で、現行民法典の成立史、とりわけその前身であるボワソナード草案の内容に検討を加えることは、有意義であろうと思われる。従来、ボワソナードの法思想は、啓蒙期自然法論とは異なるという理解が一般的であった。本書は、両者の所有権論にもとづいて、このような通説を検証したものである。とりわけ売買における所有権とその移転に着目したのは、第1章でも述べるように、素材の豊富さである。近世自然法論における二重売りの問題は、所有権概念の発展史、契約類型の整備、所有権移転の要件に関する鋭い洞察を含んでいる。しかし、現実の思考プロセス、すなわち、いかなる研究もその動機となる先行研究を持つという事実に鑑みれば、本書は、津野義堂教授の論文[99]に触発されているところが大きい。

ボワソナードと近世自然法論との異同は、なにを意味するのであろうか。この問いに対しては、あらかじめ、3つの観点から答えることができる。第一に、自然法は、国際法の側面を持つ。国家間の法的関係を規律する自然法は、そのままでは国内法となりえない。近世自然法論のなかには、最初からボワソナードが取り得ない規則が存在する。第二に、自然法は、立法の基礎理論を提供する。いかなる法典編纂も、それが実定法外部での議論である以上、別の規範に立脚点を求めねばならない。その候補のひとつが、ボワソナードにおいては自然法だったのである。第三に、自然法は、世界道徳という性格を内在させる。世界道徳としての法は越境的であり、ここに、フランスと日本という、ふたつの異なる法文化圏を繋ぐ普遍的性格があった。本書で展開される論述は、以上の3点から、大きく枠付けることができよう。

本書の執筆にあたっては、指導教授の津野義堂氏を始め、多くの方々にお世話になった。とりわけ、ローマ法の解釈については、中央大学法学部准教授の森光氏、筑波大学人文社会系准教授の宮坂渉氏および上智大学ローマ法研究会の方々から、大きな示唆を得ている。また、哲学的考察については、長年の友人であるラクトゥア・ローザ氏およびラティワ・オルゴール氏から、助言をいただいた。

最後に、昨今の厳しい出版事情のもとにありながら、本書の出版を引き受けてくださった国際書院代表取締役の石井彰氏に、この場を借りて御礼申し上げる。

2016年7月 東京にて

出雲 孝

あとがき

おわりに

本書の研究成果をまとめる。

■所有権の定義について、ボワソナードは近世自然法論の影響を受けていない 近世自然法論者たちは、統一的な所有権概念というものを共有していなかった。自然法上の所有権概念は、長い歴史の中で次第に改善改良されていったものである。

グロチウスは、所有権を定義しなかったが、アリストテレスに倣って、「他人の物にする権利」(ius alienandi)が所有権に内在していると考えた。彼は、当時のローマ普通法学に倣って、この他人の物にする権利を、ラテン語でproprietasと呼んだ。

プーフェンドルフは、所有権を、物に対する排他的な帰属関係であると定義した。プーフェンドルフは、所有権の一般的な定式化を試みたという点で画期的な一歩を踏み出している。また、ラテン語のdominiumとproprietasとを区別するローマ普通法学の用語法に反対しており、両者を同義語として扱った。プーフェンドルフは、当時のローマ普通法学から一歩距離を置いて、所有権の新しい定式化を試みようとしている。しかし、所有権に内在する個別的な権利、例えば処分権や使用収益権をこの一般的な定義にもとづいて体系的に根拠付けるという段階には、まだ至っていない。

トマジウスは、プーフェンドルフのこのような定義を踏まえた上で、所有権の一般的な定義とそれに内在する個別的な権利とを相互に関連付ける作業に取り掛かった。そして、所有権の本質は「使用」(usus)にあると捉えて、所有権に内在する個別的な権利は全て、この使用する権利から導き出されると考えた。トマジウスのこのような定式化は、一般的な定義と個別的な権利との架橋に着手したという点では画期的であった。しかし、なぜ使用する権利が物の排他的な帰属関係から導き出されるのか、という点については、曖昧さが残っている。

ヴォルフは、今回紹介した4人の自然法論者の中で、最も整合的に所有権の定式化を行った人物である。ヴォルフは、物の排他的帰属関係というプーフェンドルフおよびトマジウスの定義を放棄して、物を任意に「処分」(disponere)する権利であると定義した。ここでヴォルフが用いている「処分」(disponere)とは、そこから所有権のあらゆる個別的な権利が演繹される包括的な概念であり、平易に言えば、物を好きなように処置する権利を意味する。そして、ヴォルフは、この任意の処分から、使用収益する権利、譲渡する権利および他人をそこから排除する権利を導き出した。ここにおいて、所有権の一般的定義から個別的な権利内容を演繹可能な形で導き出すという体系化が、ひとつの到達点を見たのである。

以上のような所有権の発展史に鑑みると、ボワソナードの所有権概念は、使用収益処分する権利の単純な列挙によって定義されている点で、近世自然法論の影響を受けていないと言える。ボワソナードには、所有権をひとつの包括的な概念として把握しようとする姿勢が見られない。一般的な定義は与えられておらず、個々の権利同士の内的連関もおよそ明確ではない。

■所有権移転の一般規則について、ボワソナード草案はプーフェンドルフの学説に最も近い 所有権移転の一般規則については、近世自然法論者全員が、所有権の移転に関する当事者の「意思」(voluntas)に重点を置いている。しかし、それにもかかわらず、論者ごとに微妙な違いが見られる。グロチウスは、所有者の意思の表示と譲受人の意思の表示とによって、所有権が承継的に移転すると理解した。ここで注目されるのは、このような2つの意思の存在を、ラテン語におけるconventioやpactumという合意を意味する用語によって言い表さなかったことである。グロチウスは、合意によって所有権が移転すると説いているのではなく、あくまでも2つの意思によって移転すると説いている。

プーフェンドルフは、このようなグロチウスの定式化を採用しなかった。というのも、プーフェンドルフは、所有者と譲受人とが所有権の移転に関する「合意」(conventio)を結ぶことによって所有権が移転すると考えたからである。

トマジウスは、このプーフェンドルフの用語法には従わず、グロチウスへと回帰している。すなわち、所有権の移転に関する所有者の意思の表示と譲受人の意思の表示とによって、所有権が承継的に移転すると説いた。ここでも、従来の法律ラテン語であるconventioやpactumという表現は見られない。

ヴォルフは当初、プーフェンドルフと同様に、合意による所有権の移転を構想していたが、これは後に放棄された。そして、所有者の意思が所有権の移転に決定的な主導権を持つものとされた。グロチウスやトマジウスによって所有者の意思と同列に扱われていた譲受人の意思は今や、所有者の意思を承諾するか否かという受動的な行為へと後退させられている。

これらの近世自然法論者たちの見解と比較すれば、ボワソナードは、プーフェンドルフの見解に近いことが分かる。すなわち、所有者と譲受人とのあいだで行われる譲渡の合意によって所有権が移転すると解している。彼は、グロチウスやトマジウスにおいて見られたような2つの意思による移転という考え方を採っておらず、また、ヴォルフにおいて見られたような所有者の意思の優越という考え方も採っていない。

■売買における所有権の移転についても、ボワソナード草案はプーフェンドルフの学説に最も近い 以上のような所有権移転の一般規則は、各論者が売買をどのように理解しているかに応じて、修正を受けることがある。

グロチウスは、彼の所有権移転の一般規則を、売買にもそのまま適用した。すなわち、売買においても、所有権移転に関する所有者の意思の表示と譲受人の意思の表示とによって、所有権が売主から買主へと移転する。売買が双務有償契約であること、あるいは諾成契約であることは、ここでは何の意味も持たない。けれども、これは、グロチウスが物権法と債務法との厳格な区別に至っていたからではない。事実はむしろその反対である。グロチウスは、義務負担行為もその履行も同列に「契約」(contractus)と名付けており、具体的な取引における義務負担とその履行との関係を分析しなかった。したがって、契約の性質が所有権の移転に影響を及ぼすという構造自体が、グロチウスの自然法論においては最初から成立しえないのである。

プーフェンドルフは、合意による所有権の移転という原則を、売買には適用していない。彼は、売買という「相互的な義務負担行為」(contractus)においては、ただその負担行為を行うだけで所有権が移転すると説いた。なぜなら、プーフェンドルフの売買概念によれば、売買とは代金とその支払方法について合意されるや否や、所有権の移転を引き起こすような契約だからである。彼は、総論部分において、純粋な義務負担行為と履行行為とを区別しており、この点でグロチウスよりも先進的であった。しかし、売買においては、義務負担行為と所有権移転行為との区別を再び放棄している。

トマジウスは、彼の主著『神法学提要』(Institutiones jurisprudentiae divinae, 1688年)および『自然法と万民法の基礎』(Fundamenta juris naturae et gentium, 1705年)において、体系的な契約論を展開しなかった。彼は、これらの主著において、契約の一般的定義から個々の契約類型を詳細に論じるという課題に取り組んでいない。したがって、今回の研究においては、彼の自然法論における売買と所有権移転との関係は、明らかにならなかった。

ヴォルフは、契約という概念を、片務的な義務負担行為と双務的な義務負担行為との両方を含む包括的な概念に昇華した。売買という契約は、純粋な双方的義務負担行為の一種として捉えられている。したがって、売買それ自体に所有権を移転させる効果はなく、所有権移転に関する売主の意思が決定的な基準となる。ヴォルフの売買概念は、それ自体では所有権の移転の仕方を決定しない。しかし、売買は有償であるということから、売主が特段明示しない限り、代金支払の準備が完了したときに所有権を移転する意思があるものとみなされる。

これらの見解とボワソナードの売買概念および契約概念とを比較すると、ボワソナードは、ヴォルフのような債務法と物権法との厳格な峻別には依拠しておらず、むしろプーフェンドルフに近いことが分かる。なるほど、ボワソナードも、総論部分では契約を債権取得行為であると定義している。しかし、特定物の売買という具体的な契約において、所有権は即座に買主へ移転すると定められており、売主はこれを変更することができない。つまり、ボワソナードも、総論部分において債務法と物権法とを区別しているだけであり、これを個々の契約には反映させていない。このような売買の理解が、債務法と物権法との峻別を厳格に採用した富井のドイツ法的観点から批判されたことは、当然の成り行きであったと言える。

■引渡および占有の理解について、ボワソナードは近世自然法論から影響を受けていない 「引渡」(traditio)および「占有」(possessio)について、近世自然法論者はその大部分を、既存のローマ法研究に負っている。この点に関して、近世自然法論者たちは、自然法論的なオリジナリティを出すことよりも、むしろローマ法の個別的判断に「体系性」(Systematik)を与えるという課題に取り組んだ。

グロチウスは、ローマ法の法文を引用しながら、そこに見られる引渡要件の問題点を指摘した。すなわち、ローマの法学者たちは、所有権の移転に引渡(グロチウスが念頭に置いているのは所有者から譲受人への物の空間的な移動である)が必要であると説きながら、非常に多くの例外を認めている。けれども、グロチウスによれば、ローマ法が混乱しているわけでもなければ、自然法に反しているわけでもない。というのも、引渡は所有権の移転があったことの証拠であり、常に必要と解する理由がないからである。自然法上も、売買において所有権の移転がいつ行われたか判然としない場合は、引渡が行われたときに所有権が移転したとみなされる。他方で、占有について、グロチウスはおよそ新しい見解を付け加えていない。

プーフェンドルフは、グロチウスにおいて大幅に省かれていた引渡および占有に関する学説を、ローマ法の法文および註釈学派の解釈からほとんどそのまま移植することによって補った。このため、プーフェンドルフの書物における用語法は、いずれもローマ法の法文あるいはそれに対する註釈から借用されたものである。彼は、占有の分類についても、アゾーやバシアヌスらの間で行われていた議論を援用しているに過ぎない。したがって、ローマ法のカズイスティックな判断に体系性を与えるという作業は、ここでは着手されたばかりであり、ほとんどその成果を見せていない。

トマジウスは、グロチウスの見解、すなわち引渡(トマジウスが念頭に置いているのは占有の移転である)は所有権移転の要件ではなく証拠になるという見解に賛同している。そして、ローマ法の法文が一定の場合に引渡を要求し、一定の場合に要求していないことを、ここから自然法によって基礎付けようとした。例えば、ローマ法が遺言相続において引渡を要求しないことは、遺言が所有権移転の意思をはっきりと証明するので、それ以上の証拠は必要ないという形で説明が為されている。トマジウスもグロチウスと同様に、引渡と占有の一般的分析については、論述を割いていない。

ヴォルフは、所有権についてそうであったように、引渡および占有についても、グロチウスらよりずっと体系的な定式化を与えた。ヴォルフは、自然法上の占有を、所有者として物を物理的に使用することが可能な状態であると定義して、ここから引渡を、そのような状態を創設する一連の行為であると解した。これによって、ローマ普通法学において既に与えられていた「長手の引渡」(traditio longa manu、物を譲受人の視界に置くこと)、「短手の引渡」(traditio brevi manu、物の所持人に占有を与えること)、「象徴的な引渡」(traditio symbolica、例えば倉庫の鍵の引渡)も、引渡の一般的な定義から体系的に整理されることが可能になった。他方で、引渡が所有権移転の証拠になるという考え方は、ヴォルフにおいては採用されていない。

これらの見解と比較すると、ボワソナードの「引渡」(délivrance)概念も「占有」(possession)概念も、おそらく近世自然法論から取られたものではなく、ローマ法あるいはフランス法から取られている可能性が高いように思われる。そもそも近世自然法論者たちは、引渡や占有について独創的な見解を打ち出していないのであるから、この点について影響を考慮すること自体が適切ではないのかもしれない。

■結論:ボワソナードが自然法論的であると言われるのは、所有権および売買契約に限って言えば、プーフェンドルフに代表される17世紀の自然法学説から影響を受けたという意味である 本書の課題は、ボワソナードと啓蒙期自然法論との関係を、思想史的に位置付けることであった。その解答を結論部分としたい。グロチウスは、二重売りが行われたとき、引渡であれ何であれ、意思の表示をより明瞭に受けた買主が所有者になると考えた。これは、引渡を所有権移転の要件ではなく証拠と考える立場から考案された解決であり、引渡を受けた買主の方が意思の証明において有利であるとされる。トマジウスも同じような考えを採っていたと推測されるが、この点について明確に述べていないので、断言することはできない。

プーフェンドルフは、売買という義務負担行為それ自体によって所有権が移転すると考えたので、先に売買を締結した買主すなわち第一買主が常に優先すると理解した。第二買主には、損害賠償請求権しか認められない。二回目の売りは反モラル的な行為すなわち盗に該当するという懸念が、プーフェンドルフにはあったのではないかと推測される。

ヴォルフは、売買を純粋な義務負担行為と定義することで、所有権移転に関する売主の意思と区別した。売主の意思内容は、特段の取決めがない限り、買主が代金支払の準備を完了するならば、という条件が付されているものとされる。それゆえに、二重売りが行われたときは、特段の取決めがない限り、先に売買代金の支払準備を完了した方が所有権を取得する。但し、ヴォルフは、「使用取得」(usucapio)による救済を肯定しており、正当な権原かつ善意で占有を獲得した者は、所有権取得の推定を即座に受けるものと定めている。この即時取得に類似する制度によって、代金支払の準備に遅れた買主が保護される可能性はある。

ボワソナードにおける二重売り論は、所有者から特定物売買が一旦行われるや否や所有権が買主へ移転して、第二買主は常に非所有者から買うことになるという点で、プーフェンドルフの理論構成と等しい。この一致は、ボワソナードの所有権移転論がプーフェンドルフのそれに最も近いということからして、納得のいくものである。しかし、第二買主の保護については異なる。プーフェンドルフは、第二買主に損害賠償請求権のみを与えた。これに対して、ボワソナードは、第二買主が「即時時効」(prescription instantanée)によって所有権取得の推定を受けられる道を開いた。この即時時効は、第二買主が善意かつ正当な権原にもとづいて目的物の占有を獲得することによって成立する。そして、この解決が、前述のヴォルフのものと極めて類似していることは明らかである。

以上のことから、ボワソナードの思想が啓蒙期自然法論に属さないという従来の学説は、修正を必要とするように思われる。ボワソナードは、アリストテレス的・スコラ的な意味でのみ自然法論者であったとは言えない。啓蒙期の思想的潮流もまた、彼は受け継いでいる。売買における所有権の移転のみならず、他の法制度についても、本書と同じような比較を施す意義があろう。

無論、それは、18世紀において頂点に達した啓蒙期自然法論の成果を全て吸収したという意味でもない。売買概念についてはプーフェンドルフに類似しており、第二買主の救済についてはヴォルフに類似しているという、部分的な一致関係が見られるだけである。ボワソナードは、契約概念に関するヴォルフの成果を受容しなかった。他方で、プーフェンドルフとの類似性は、売買における義務負担行為と所有権移転行為が未分離であるという点で、我が国の民法典にも深い影響を与えている。二重売りに関する現行民法典の説明が難解であることは、プーフェンドルフ的な売買概念と、ヴォルフ的な取引安定の重視とが、本来的には両立困難であることに由来する。

以上を本書の結論としたうえで、最後に、今後の課題と展望を提示しておく。第一に、今回の法制史的な発見は、現在の民法学説に対してどのような解決案を提示することができるのであろうか。問題の源泉の指摘は、時として、その問題の解決に重要な切っ掛けを与える。ふたつの異なる自然法思想の混合が、物権変動における対抗要件の問題を生み出しているのだとすれば、個々の思想の擦り合わせ可能な局面を発見することによって、解決が与えられるかもしれない。第二に、本書では、現行民法典に対するドイツ法の影響を、考慮に入れることができなかった。ドイツ法的なものとフランス法的なものとの混合もまた、論点の形成に寄与しているはずである。この点を明らかにすることによって、我が国における自然法論の位置付けもまた、より明確になるであろう。

索引

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