読了された方は気づかれたかもしれないが、本書収録論文の多くは、歴史、教育制度、教育政策、教科書、カリキュラムといった観点から、中国、あるいはそれに影響を受けざるを得ない台湾、香港、あるいは日本のナショナリズムやアイデンティティを分析するという手法を採っている。
本書は論文集であるので、読者は興味をもった章から読んでもらいたい。特に5章や6章は、フィールドワークを通して、現代中国の教育制度が女性や子どものアイデンティティ形成にどのような影響を与えているのか明らかにした貴重な成果である。ただ全体として残念ながら、教育を受けることで学生・生徒たちがどのような、あるいはどのようにナショナリズムやアイデンティティを育んでいるのか、という点については、あまり多くを語っていない。何だ、「「中国」をめぐるナショナリズムとアイデンティティ」という研究プロジェクトなのに、内容が違う、詐欺だ!と思われるかもしれない。しかし、少し待って欲しい。
教育社会学が明らかにしてきたように、そして私たちが経験してきたように、教室で教わったこと、教科書に書いてあることがそのまま100%、学生・生徒の脳にインプットされるわけではない―もし、そうであれば私のように学生の試験結果に頭を抱えるような、教員たちの悩みの多くは消え去るであろう―。したがって本来であれば、教育現場に実際に入り、現地調査などを通して、教育を受ける側(学生・生徒)が、教科書、カリキュラムといった内容をどのように受け入れて、ナショナリズムやアイデンティティを構築するのか、という観点に立つミクロレベルの研究も必要なはずである。
ところが習近平政権になってから、中国では教育に関わる現地調査を行うことが難しくなっている。本研究プロジェクト所属の研究者たちも、さまざまなアプローチを試みたが、必然的に規模が大きくなってしまうこともあり、最終的に教育現場での中長期にわたる公式な調査は断念せざるを得なかった。
とはいえ、上述したように、ミクロレベルでの観察・研究は、ナショナリズムやアイデンティティ形成の研究に欠かせない。そこで私たちの研究プロジェクトが使った手法は、「法」を描いた映画を、中国の大学の授業で見てもらった後、学生たちにディスカッションをしてもらい、それを記録・整理・分析するというものであった。また比較のために、同じ作業を台湾・香港・日本でも行った。
選んだ映画は『それでもボクはやってない』。痴漢の罪で逮捕された青年の孤独な闘いを描いた作品である。従って、内容は法や裁判制度のみならず、権力、人権といった点にも及び、この映画を通して、東アジア諸国の学生の、ナショナリズムやナショナル・アイデンティティ、すなわち国家(特に自国)に対する考え方がどのようなものであり、映画を見ることで、つまり日本の事情を知ることで、国家や法に対する考え方が、どのように変わったか、あるいは変わらないか、というのが理解できるのである。
上記の研究成果は、周防正行監督も招いて行われた2016年1月の市民公開・国際シンポジウム「映画『それでもボクはやってない』海を渡る―東アジアの法教育と大学生の法意識」という形で公開された。2017年夏ごろをめどに、シンポジウムの内容をまとめた本の刊行を予定している。
最後に、別の本の宣伝を行うという異例の展開になってしまったが、本書で欠けている側面は、そちらに集中しており二冊は補完関係にある。興味のある方、あるいは本書を読んで不満が残った方は、ぜひ読んでいただきたい。
ただ言うまでもなく、現在を知るためには歴史的な流れを押さえておく必要がある。その意味で、現代中国における「愛国主義教育」が強化される前後の教科書やカリキュラムを詳細に検討した3章・4章は、現代中国の教育を知るうえで必読である。
また中国、あるいは中国に対抗する形でさまざまな社会運動が起きている台湾・香港も含めた形で、さまざまな地域のナショナリズムやアイデンティティ形成に重要な教育を正面から取り上げた第2部は、これまでにない画期的なものであると自負している。特に台湾と香港アイデンティティ形成における「中国」・「中華」要素(チャイニーズネス)の影響を解明した7章、現代台湾の教育における「中国」の影響を論じた8章、雨傘運動に至る香港学生の対中観に迫った9章などは、今後の東アジアを論ずるうえで必読であろう。
最後に、「人間文化研究機構現代中国地域研究事業」の一環として、本書刊行への助成を決断していただいた天児慧・早稲田大学教授、および本書収録論文のほとんどの日本語チェックをしていただいた澤田郁子さん、そして学術出版が困難な状況下にもかかわらず、こころよく出版を引き受けていただいた石井彰・国際書院代表取締役社長の三名に、この場を借りて御礼を申し上げたい。
2017年1月
編者を代表して 大澤肇
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