浜口伸明
ラテンアメリカ諸国は経済社会発展の過程でいくつかの共通の局面を経験してきた。植民地時代から1930年代までは一次産品の対先進国輸出を基盤産業とし、スペインとポルトガルからの政治的な独立という体制変化を経ても、土地や鉱山を集中的に所有する一部の者に富と権力が集中するこの地域に特徴的な社会構造の土台は変わらなかった。1930年代以降は、国により発展の程度に差はあったが、政府主導の下で工業化が進められ、中間所得層を形成する労働者階層が作り出された。
1980年代に政治的な民主化が進んだが、経済面では国際収支と財政収支との不均衡が続き、各国で急激に物価が上昇する深刻な危機に見舞われた。その後1990年代末までの間、①国際機関が提示する「ワシントン・コンセンサス」に沿ったオーソドックスなマクロ経済安定化政策の導入、②ヘテロドックス(非伝統的)手法によるインフレ抑制の試行、③一部の国では完全ドル化に至った名目為替レートを物価のアンカーとする通貨改革、④貿易・金融・投資の自由化を進めた新自由主義改革が、それぞれ短いサイクルで展開した。
このようにラテンアメリカにおいて目まぐるしく政策が変更される状況について、西島章次は、「ラテンアメリカ社会は、所得分配が著しく不平等で、深刻な貧困問題を抱えている社会であり、階級間・グループ間の対立は極めて激しい。このため、社会的・政治的に不安定な状態にあり、これらの社会的・政治的不安定化を避けるために経済政策が常に強い偏向を受けており、整合的なマクロ政策の運営ができない」と指摘している[西島 1993]。
また、ラテンアメリカを中心に開発問題を研究したアルバート・ハーシュマンは、ラテンアメリカの政策選択の不安定性を「トンネル問題」になぞらえた[Hirschman and Rothschild 1973]。同じ方向に向かう2本のトンネルがどちらも渋滞しているとき、一方で車が進み始めると、平等な社会では、別の列に並んでいる運転者も「自分たちの渋滞ももうすぐ解消されるだろう」と喜んで待つことができる。しかし不平等な社会では、すぐに「向こうの列で何か不正なことが行われているに違いない」と疑い、違法に列を変えようとしたり、性急に政府に現状変更を要求したりする。政府もそのような国民の反応を見越して行動するので、時間をかけて本質的に問題を解決しようとせず、短期間で成果が出る場当たり的な政策を選択してしまう。
資源ブームに沸いた2000年以降のラテンアメリカは、ようやく構造的な所得不平等問題と貧困問題を改善する手段を講じるための原資を手にした。一部の国では天然資源を国有化して富を国民に再分配する「社会主義」が謳われた。そのように先鋭化しないまでも、資源輸出国では交易条件の改善によって得た収入で社会支出を拡大する政策が採られた。
当初、このような政策選択への富裕層からの反発は小さく、むしろ貧困層が中間所得層に成長して国内市場が拡大することでビジネス機会が拡大し、治安状況も改善を見るなどの傾向を歓迎した。しかし、時間が経ってみると、このような政策を選択した政治家が、裏で資源収入を自らの政治権力を維持するための取引に利用していたことが明るみに出た。ここに「トンネル問題」は再燃し、当初は貧困層の生活水準の向上を喜んでいた富裕層や中間所得層は腐敗した政府を厳しく糾弾し、政権交代を要求した。
ラテンアメリカ諸国が、豊かな天然資源を持ちながら安定的な経済発展を実現できない状況において、所得格差問題は歴史的に形成された前提条件であると同時に、不安定な経済発展過程で格差を維持ないし拡大する自己組織化のメカニズムを内在する構造的問題でもある。
本書は、構造的問題の一つとして所得格差を位置づけて、グローバル化や経済自由化が進むラテンアメリカにおいて、社会の複雑な相互作用が引き起こしている発展停滞の現状を読み解くことを目的とする。所得格差を構造的問題と位置づけるということは、経済主体が合理的選択をするときに所得格差の存在を与件として行動を決定する傾向があり、それが経済活動に歪みを生むだけでなく、所得格差の存在が市場メカニズムを通じて解消に向かわず長期的に持続することを意味する。
また本書では、ラテンアメリカがグローバル化した市場経済の恩恵を受けようとしていることを前提とする。すなわち、所得再分配を行うために閉鎖市場における輸入代替工業化で雇用を創出しようとしたり、あるいは資産の所有権を無視した強引な接収・再分配を行ったりするような選択肢は当然持たないものとする。したがって、グローバル化や自由化自体が所得分配にどのような影響を与えるのかについて、ラテンアメリカの歴史的経路依存性に基づいて様々な影響を考慮した注意深い分析が必要になる。先に述べたような所得格差と経済発展の双方向的な因果関係に基づくと、格差是正を図る社会政策は政策変更によって負の影響を受ける人びとに対するセーフティネットとしてだけでなく、グローバル化の下で経済社会を安定的な発展に導く開発政策の中に位置づけられるべきものである。
加えて、ラテンアメリカにおける格差問題の是正への取組は、政府の社会政策による「上からの」対応だけではない。市場経済と政府が格差を解消できない状況に対して、市民社会が連帯して「下からの」対応を試みてきた連帯経済の存在を見ることができる。特に、政府が厳しい財政制約に直面したラテンアメリカでは、政府と市場を補完する市民社会の働きは重要である。
第1章「所得格差問題からラテンアメリカを視る意義と意味:先行研究の検討と経済学理論を用いた分析から」(浜口伸明)では、現在の所得分配状況をデータで確認するとともに、ラテンアメリカにおいて所得格差が構造的な問題になっている要因を、歴史的原因についての考察と経済学の分析ツールを使った分析により、幅広く検討する。特に、所得格差が、貯蓄制約および人的資本の制約を通じて生産性上昇を遅らせていることや、マクロ経済政策の質を低下させることを通じて経済発展の制約となっていることについても議論する。さらに、ラテンアメリカで雇用の半分近くを占めるインフォーマルあるいは違法な雇用が事業者の零細化を招いており、さらにはインフォーマル部門の労働者を支援しようとする社会政策がかえってインフォーマル化を促進している問題も指摘する。
第2章「ラテンアメリカにおけるグローバル化と所得格差分配の関係:『メキシコ・中米型』と『南米型』にみる影響経路の違い」(村上善道)では、グローバル化と所得分配との関係について掘り下げた議論をしている。この章におけるグローバル化とは、主に貿易自由化を指している。ラテンアメリカでは2種類のグローバル化が起こっており、それぞれで所得分配に与える影響と経路が異なる。第一のタイプは「メキシコ・中米型」と呼ばれるものである。グローバル・バリュー・チェーンとの強い統合を特徴とし、それに伴う技能偏向的技術変化が引き起こす技能労働者の賃金プレミアムの上昇や、輸出企業(大企業)と国内中小企業との生産性格差拡大がある一方で、技能労働者需要拡大に応じた供給の拡大によってプレミアムが減少したり、国内企業に技術的スピルオーバーが起こったりすることで、格差の縮小も期待できる。
第二のタイプは「南米型」と呼ばれるものである。コモディティ輸出を通じたグローバル化を特徴とし、コモディティ部門の非熟練労働集約度は国によって異なることから、コモディティ輸出が所得分配に与える影響は多様である。コモディティ部門の非技能労働の雇用吸収力が小さい場合にも、非貿易財部門であるサービス業が非技能労働の雇用を拡大する可能性がある。南米型では増加した財政収入を使った社会支出拡大が所得分配を改善する効果を持ったが、コモディティ輸出に基づく財政は不安定性が高い。
第3章「ラテンアメリカにおける所得分配と社会政策:条件付き現金給付は『世代間の貧困の罠』を断ち切れるのか」(内山直子)では、ラテンアメリカで特に2000年以降積極的に実施された社会政策の影響を、条件付き現金給付(Conditional Cash Transfer: CCT)の例を中心に論じている。CCTは先鞭をつけたメキシコやブラジルにおいて大規模に実施された他にも、ラテンアメリカの多くの国で実施された。その政策評価の研究によれば、就学率の引き上げや定期健康診断の利用について明らかな効果が見られたものの、教育の実質的効果や健康状況の改善については、あいまいな結果しか得られていない。
その一方で、家庭内における女性のエンパワーメントや金融サービスへのアクセス改善といった副次的な効果も伝えられている。しかし、教育や地域医療の質を高め、実質的な人的資本形成が奏功して、正規雇用獲得につながる効果が確認できるような長期的なインパクト評価については、これからの課題である。社会政策は貧困の再生産を断ち切るための万能薬ではなく、その他の労働政策、中小企業支援、貿易政策、マクロ政策とともに構造的な貧困と所得格差の問題を改善するための政策の一部と考えるべきだと筆者は指摘する。
第4章「ラテンアメリカの格差社会に対抗する連帯経済という選択」(小池洋一)での議論からわかるように、格差問題は上からの政策でのみ変えられるものではない。協同組合、労働者自主管理企業、交換クラブ、コミュニティバンク、フェアトレードなど多様な形態をとって展開された連帯経済は、格差社会ラテンアメリカであるからこそ独自の発展を遂げた。連帯経済は、市場、国家、市民社会からなる多元的な経済制度の一つとして、さらには市場や国家のオルタナティブとして機能してきた。
グローバル化は市場経済を拡大させるが、そこで拡大する格差に対して連帯経済がどのような役割を果たすことができるのか、改めてその意義が問われている。例えば資源関連輸出が伸長する中で、規模の経済の重要性が顕在化する状況に対して、地域コミュニティを基礎として環境との調和を目指す連帯経済は政府およびグローバル企業から軽視されあるいは抑圧された。連帯経済が担うべき役割の中には、市場を規制し、排除を生まないようにするという行為も含まれている。
本書の後半の二つの章では、第2章で分類された「メキシコ・中米型」からメキシコを第5章で、「南米型」からブラジルを第6章で、それぞれ典型例として分析する。
第5章「メキシコにおける所得格差の変遷:地域格差、グローバリゼーション、インフォーマル部門の考察から」(咲川可央子)において、メキシコでは構造改革が進められた1980年代から1990年代半ばに所得格差が拡大し、北米自由貿易協定(NAFTA)後1990年代半ば以降に上下しつつも縮小し、直近では格差縮小傾向が弱まった状況が分析されている。この所得格差の変化は貿易自由化、なかんずくNAFTAへの参加の影響を強く受けている。
グローバル化が進んだと言っても、メキシコではインフォーマル部門が約6割をも占めており、その割合は1990年代から直近まで大きく変化していない。また、フォーマル-インフォーマル労働者間の所得格差が見受けられるが、フォーマル労働者が豊かでインフォーマル労働者が貧しいという単純な二元化はできない。フォーマル部門にも社会保障が適用されずに違法に雇用されている労働者がいる。皮肉にもメキシコでは社会保障制度と社会扶助制度の重複した役割が、インフォーマル化を促進している実態がある。
グローバリゼーションの機会を捉えて外国直接投資が流入して発展し近代化する地域、産業、企業とその恩恵を受ける労働者がいる一方で、近代化に遅れて停滞する地域、産業、企業、労働者の存在がある。依然としてインフォーマル部門の存在が顕著なまま、近代的な経済と伝統的な経済が並立する二重経済がメキシコで色濃く残っている。
第6章「ブラジルにおける経済発展と格差縮小の要因:マクロ経済の安定化と労働市場の変容から探る」(河合沙織)では、世界で最も所得格差が大きい国の一つとされるブラジルで、富の偏在がいかに歴史的に形成されてきたかが詳しく述べられている。2000年代に達成されたマクロ経済の安定化とコモディティ・ブームによる交易条件の改善は貧困層にも恩恵をもたらし、所得分配を改善した。貧困削減には社会政策が効果を持ち、所得分配の改善にはさらに労働市場の構造変化が伴っていたことが論じられる。ここで注目すべき変化は、雇用の正規化と労働者の教育水準の上昇である。さらに農業地域のグローバル市場への参入が進み、後進地域において労働者が所得を得る機会が拡大したことも、格差縮小に貢献したと指摘している。
このように以前と比較すると格差縮小が進んできたブラジルであるが、今もなお格差の絶対的水準は高い。コモディティ・ブームが沈静化した後、所得分配の改善は停滞している。また、所得再配分を志向した労働者党を中心とした政権が汚職問題で国民の支持を失い、ルセフ大統領が弾劾手続きにより罷免されるなど、政治的混乱が深まったことなども相まって、今後の動向は不透明化している。
本書は以上のような内容の各章で構成されている。所得格差問題を中心に置くことによって、本書が掲げた目的、すなわち、グローバル化や経済自由化が進むラテンアメリカにおいて、社会の複雑な相互作用が引き起こしている発展停滞の現状について理解を深めることに、どのように貢献があったのか。それは次の2つの点に、まとめることができる。
第1に、ラテンアメリカにおいて所得分配が著しく不平等であることが、経済発展を長期的に阻害してきた多様な経路を明らかにした。ラテンアメリカでは、富裕層が奢侈的輸入品消費に興じて資本蓄積と国内工業への市場提供に貢献せず、また貧困層に平等な社会インフラへのアクセスを提供しようとする公正意識も低かった。グローバル化は国際資本の流入と海外市場へのアクセス拡大をもたらしたが、規模の経済や資本市場の不完全性によって集中化は一層強まった。このため、資源部門や多国籍企業が強化される一方で、零細企業やインフォーマル雇用で構成される脆弱部門の状況は改善されなかった。その結果、ラテンアメリカ経済は生産性が低いままの部分を残す異質性を内包する経済になった。格差の存在は絶えず対立を引き起こし、マクロバランス維持と整合的な政策選択を阻害し、頻繁に政策変更が行われ、経済状況を著しく不安定にした。
第2に、グローバル化が所得格差に与える影響が複雑であることへの理解が深められた。貿易自由化に伴う輸出の拡大は非技能労働の需要を増やし、彼らの賃金を相対的に引き上げる効果を持つ。しかし一方で、自由化が技能偏向的技術変化を誘発すれば、技能労働者の賃金上昇を引き起こす。ただし、メキシコやブラジルでは長期的には技能労働者の供給が増加し、技能労働者が受け取る賃金プレミアムは縮小した。メキシコなどではグローバル・バリュー・チェーンに参加する企業において、ブラジルでは交易条件の改善で拡大した国内市場向けの製造業・サービス業において、相対的に高い教育水準を有する労働者の正規雇用が増大した。資源輸出国では資源輸出で増大した政府収入で社会支出が拡大し、貧困削減が進んだ。
他方で、グローバル化や社会政策の拡充の下でも社会における格差を悪化する可能性についても本書は指摘している。メキシコでは、条件付き現金給付政策によって貧困家庭が必要最低限の消費を満たせないような事態に陥る脆弱な状態ではなくなり、子供の修学期間も延びているが、学習の効果によって人的資本形成が進み、労働市場で良い仕事を得て貧困の世代間連鎖を断ち切るという、本来目指している効果までは表れていない。メキシコでは、以前と変わらず多くの労働者がインフォーマルな仕事に就いており、貧困率も高い。また、市場メカニズムと政府の政策によって生まれた格差問題を克服するためにラテンアメリカの市民社会が発展させてきた連帯経済は、グローバル化が市場経済を拡張させる中で弱体化している。ラテンアメリカ各国においては、格差と対立が資源配分を歪め、政策選択を偏向させてきた経済社会の特質を理解し、社会政策の制度枠組みの再検討と、政府と市民社会との連携における創造的な発展を模索すべきであろう。
なお、本書の執筆者は、先に引用したように早くからラテンアメリカ分析における所得格差問題の重要性に注目していた西島章次氏の共同研究者と研究指導を受けた者である。西島先生が研究途上で急逝されてから5年以上かかってしまったが、研究の一端を引き継いだことのご報告として本書を捧げたい。
本研究はJSPS科研費16H03313(第1章)、17K17877(第2章)、17K17874(第3章)、17K03717(第5章)、17K13296(第6章)の助成を受けたものである。本書の出版を提案してくださった京都大学東南アジア地域研究研究所の村上勇介さん、国際書院の石井彰さんは、編集作業が遅れ気味のところ、あたたかく激励いただいて本書を世に送り出していただいた。また、匿名の2名の査読者、神戸大学経済経営研究所ラテンアメリカセミナー参加者の皆様から非常に有益なコメントをいただいた。ここに謝意を申し上げたい。
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