フィリピンの保健医療改革研究: 新制度論アプローチから

細野ゆり

「全ての人への医療」という高い目標を掲げているが、フィリピンの深い歴史を受け継いだ政治と行政構造のもとでは、医療サービスの受診システムの整備さえ困難であった。(2019.3.20)

定価 (本体4,600円 + 税)

ISBN978-4-87791-295-6 C3031 287頁

目次

  • はじめに
  • 図表・略語一覧
  • 序章
  • 第1章 「分析枠組」: 新制度論の政策実施研究への適用
    • 1 先行研究の検討
    • 2 政策実施研究
    • 3 フィリピン保健行政改革分析への新制度論アプローチの適用
    • 4 小括と分析枠組のまとめ
  • 第2章 フィリピンにおける保健行政の形成過程と福祉イデオロギー
    • 1 保健行政の歴史的制度形成過程
    • 2 保健の現状と保健指標
    • 3 福祉イデオロギーの検討
    • 4 小括
  • 第3章 F1改革の推進と実施のギャップ
    • 1 F1の政策決定過程の分析
    • 2 第2次医療制度改革(FOURmula One for Health: F1)の実施過程の分析
    • 3 4つの戦略実施のギャップ
    • 4 ベンゲット州におけるF1戦略の展開
    • 5 小括
  • 第4章 政策実施のギャップ分析: 新制度論アプローチの適用
    • 1 政策実施過程における仮説の検証と考察
    • 2 政策決定過程における仮説の検証と考察
    • 3 新制度論アプローチの適用
    • 4 フィリピン健康保険制度への歴史的制度論分析の適用
    • 5 分析枠組の有効性
    • 6 フィリピン保健のガバナンス
    • 7 政策実施研究の総括
  • 結章
  • 参考文献

著者紹介

細野ゆり(ほその・ゆり)

  • 2013年 横浜国立大学大学院国際社会科学研究科(現国際社会科学府)博士課程後期修了。学術博士。
  • 2013年-2018年 横浜国立大学成長戦略研究センター リサーチャー(研究員)
  • 2014年-2015年 神奈川県政策研究・大学連携センター 特任研究員
  • 2015年- 早稲田大学社会安全政策研究所招聘研究員
  • 現在 神奈川県庁勤務(政策局)
    • 横浜国立大学成長戦略研究センター連携研究員
    • 早稲田大学社会安全政策研究所招聘研究員

主要業績

  • 「戦後日本における保護司制度の確立過程~司法保護から受け継がれた慈善・救済の理念~」『犯罪と非行』第180号.2015年9月.
  • 「ソーシャル・インパクト・ボンドの成立過程と日本における再犯防止への適用に関する考察-英国行政改革と刑事政策の民営化を踏まえて-」『早稲田大学社会安全政策研究所紀要』早稲田大学社会安全政策研究所8: 107-122. 2016年8月

まえがき

はじめに

本書は、2013年3月に横浜国立大学国際社会科学研究科(現国際社会科学府)に提出した博士学位論文「フィリピン共和国FOURmula One for Health改革における実施ギャップに関する研究: 新制度論アプローチから」に加筆・修正したものである。

なお、本書の概要版は、個別論文「フィリピン共和国保健医療制度改革―新制度論のアプローチから―」と題して『横浜国際社会科学研究』第19巻第3号にて2014年9月に公表されている。

本書の上梓に至るまでには、多くの方々からご指導、ご助力を賜った。

全ての方々のお名前を挙げることはできないがこの場を借りて改めてお礼申し上げたい。同論文の執筆にあたっては、筆者の責任指導教員である横浜国立大学大学院教授小池治先生からは、常に適切なご指導を賜り、政策実施研究への扉を開いて下さったこと、心より感謝の意を申し上げる次第である。

また、本論文の副査をお引き受けくださった横浜国立大学大学院教授荒木一郎先生、奥山恭子先生(名誉教授)、椛島洋美先生に、謹んで感謝の意を表する。フィリピンでの臨地調査へのアドバイスや安全確保に至るまで細かな指導を賜り感謝の念に絶えない。

本書の成果はフィリピンでの臨地調査による資料収集やインタビューによるところが多い。同論文執筆に至るまでに計6回フィリピンでの調査を実施した。2009年12月2日(金)から12月6日(火)のマニラ首都圏での予備調査では、小池治先生同行による指導の下で、市保健センターを訪れて地方保健行政医師官と面会し、現場での医療・公衆衛生行政の実施状況を把握した。2011年1月21日(金)から2月5日(土)には、横浜国立大学大学院博士課程後期リサーチ・プラクティカム・プログラムを通じ、JICAフィリピン事務所・保健省・労働雇用省・アジア開発銀行・フィリピン医師会・フィリピン看護協会・フィリピン大学公衆衛生学部の訪問・インタビュー調査を実施した。当時プログラム担当教員でいらした横浜国立大学名誉教授池田龍彦先生からはADBやJICAを通じてフィリピンの開発援助に携わったご経験と専門的な見地から、的確なご示唆を賜った。

在日フィリピン大使館及び現地労働雇用省でのインタビュー先を紹介してくださった横浜国立大学大学院教授関芙佐子先生からは、社会保障の側面から適切なアドバイスを賜った。当時JICAより横浜国立大学へ出向中でいらした上田直子先生からは、国際援助機関による開発途上国の保健医療支援に関する専門的なアドバイスを賜り、フィリピンにてJICAの保健医療技術支援に携わる専門家戸辺誠氏をご紹介頂いた。JICAフィリピン事務所及び保健省訪問に際しては、JICA保健プログラム・コーディネーターとして保健省支援に携わっていらした山岸信子氏より、JICAによる保健医療技術支援とF1改革の現状についてご示唆賜った。さらに、2011年8月20日(土)から8月26日(金)には、日本学生支援機構の奨学金による「持続可能な健康」をテーマとした横浜国立大学持続可能な開発のためのサマー・プログラムにより、小池治先生同行による指導の下で、ラグナ州サンタ・ローザ市バランガイ・ヘルス・ステーションでの現地調査を通じ、医師不在の現場で働く助産師やバランガイ・ヘルス・ワーカーの現状を視察した。2012年2月25日(土)から2012年3月3日(土)には、同じく日本学生支援機構の奨学金による「持続可能な開発」をテーマとした横浜国立大学フィリピン研修を通じ、F1政策に携わった当時の保健大臣・官僚等とのインタビューが実現した。

横浜国立大学と大学協定を交わしているセント・トマス大学及びフィリピン大学との学術的交流を通じ、フィリピン人研究者との交流を重ねることができたことが、本書の成果に至ったと捉えられる。特に前保健大臣及びフィリピン大学公衆衛生学部教授のJaime Galvez Tan博士及びTan博士の運営するNGO, Health Futures Foundations Inc.の若く有望なフィリピン人医師研究者達との交流により、末端保健行政や医師専門職の現状について、知見を広めることができた。日本国内における指導教員の方々のご教示と、フィリピン現地における医師・官僚・研究者・国際援助機関の職員や専門家の方々等との交流なしには本書の上梓には至らなかった。

出版にあたっては、本書のテーマの重要性を理解し、刊行を引き受けてくださった(株)国際書院代表取締役石井彰氏にあらためてお礼申し上げたい。本書は、横浜国立大学社会科学系創立80周年記念(鎗田基金)の出版助成を得て、刊行されるはこびとなった。本助成を提供してくださった鎗田邦男氏に深く感謝申し上げたい。

フィリピンの保健行政改革

―新制度論のアプローチから―

序章

開発途上国の行政改革は、1980年代以降、先進諸国で急速に普及した新自由主義(ネオリベラリズム)やニュー・パブリック・マネジメント(New Public Management: 以下NPM)の改革手法を取り入れ、進められてきている。新自由主義とは、強力な私的所有権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約に発揮されることにより、人類の富と福利が最も増大する、と主張する政治経済的実践の理論である(Harvey 2010: 2)。新自由主義の下での国家の役割は、これらの実践にふさわしい制度的枠組みを創出し、維持することと、される。新自由主義の理念は、1970年代以降、全世界に広がっていき、イギリスのマーガレット・サッチャー政権やアメリカのドナルド・レーガン政権のプラグマティックな改革教義となった。1980年代に入ると、新自由主義は、国際通貨基金(International Monetary Fund)や世界銀行(World Bank)等の国際援助機関が共有する開発途上国への累積債務問題に対応する経済政策原則の理念となった。いわゆる「ワシントン・コンセンサス」に基づく均衡財政、市場原理重視、投資・貿易の自由化、民営化、規制緩和等の原則は、国際援助機関による融資の条件(Conditionality)とされ、 開発途上国の政治経済改革へと浸透していった。しかしながら、新自由主義の開発哲学に基づいたワシントン・コンセンサスによる市場主義改革には、再分配機能がないために、開発途上国の経済成長や貧困削減は思うようには進まなかった。世界銀行を中心とする国際援助機関は、この要因を途上国政府の「ガバナンス(統治)」の問題として捉え、公共部門の制度能力の弱さを克服し、「グッド・ガバナンス(良い統治)」を実現するための援助を推進した*1

一方、NPMとは、1990年代以降、先進諸国で取り入れられていった市場指向の行政改革手法である*2。その内容は、規制緩和や国営企業の民営化による政府の役割の縮小、公共サービスの民間委託、政府の事業実施部門のエージェンシー化、部門管理責任者への権限移譲、業績給の導入など、幅広いものが含まれている。一般的には、NPMは、(ア)公共選択論、プリンシパル・エージェント理論、取引費用理論を基盤とする新制度派経済学(New Institutional Economics)と、(イ)科学的管理法の伝統の上に民間企業の新しい経営手法を公共部門に適用しようとするマネジェリアリズム(Managerialism: 経営管理主義)の2つの理論が合流したものと解されている(Hood 1991、小池 2001: 24-25)。開発援助における新制度派経済学のアプローチは、市場経済の発達を妨げないような制度を構築するためには、既存の規制や機能を見直す必要があるが、そのためには社会から自律し、政策能力を備えた政府が必要になると、主張する。その根拠は、東アジアの開発主義国家が他の地域よりも際だった経済成長を達成したのは、市場経済を機能させるための「選択的な介入」が各国ごとに行われたことに由来する(World Bank: 1997)。この「制度」に対する認識は、開発途上国の行政改革に対する国際援助機関の関与に正当性を与えることになった。そこで援助の条件(Conditionality)として、開発途上国に対し、NPMの理念に沿った行政改革を課したのである。言い換えれば、国際援助機関は、西欧型民主主義と自由経済システムを「グッド・ガバナンス」のモデルとして示し、開発途上国にNPMによる行政改革を強制しているのである(小池 2001: 24-25)。

フィリピンは、1991年の地方自治法(Local Government Code of 1991)として知られる共和国法第7160号(Republic Act 7160: RA7160)の制定により、政治的分権を伴う抜本的な行政改革を実施した。この地方分権化推進は、国際環境からの外生的要因と国内の政治行政からの内生的要因の双方によるものである。

国際環境からの外生的要因としては、1980年代からアメリカ国際開発協会(US Agency for International Development: 以下USAID)等の国際援助機関により、民主的な地方分権化、ローカル・ガバナンスの実現、市民参加等が求められてきていた。一方、内生的要因としては、フェルディナンド・マルコス大統領による権威主義国家崩壊後のコラソン・アキノ政権において、地方分権化と地方自治の実現が、民主化推進の機動力になると捉えられていたことが挙げられる。また、地方自治の促進により、公選州知事や市長の権限が強化されることから、将来それらの地位に就任する期待から、地方分権化を推進する国会議員もあったという (Atienza 2006: 426-427)。

開発援助の文脈からすると、地方分権化は、西欧諸国の民主的なガバナンスをモデルとして開発途上国における民主化を推進し、公共部門の制度能力の弱さを克服しようとする「グッド・ガバナンス」支援の一貫でもあった。また、新制度派経済学にとっては、中央政府の権限縮小による官僚の予算最大化行動の抑制、取引費用の削減、自己決定・自己責任の強調によるフリーライダーの抑制に寄与するものと考えられていた(小池 2004: 114)。

フィリピンの地方分権化改革の一貫として、1993年より保健行政*3は世界銀行の技術支援に基づき、地方政府で保健サービスに従事する保健省所属職員の地方政府への移管を伴う、権限移譲を実施した。これにより、中央政府保健省(Department of Health)の役割は、政策実施責任者から政策決定者(decision-maker)へと移行した。そして、保健サービスの実施責任は、保健省から、公選首長を中心とする地方政府(Local Government Units)へと移管した。このビッグ・バン改革は、公衆衛生を始めとする保健サービスの地域格差と分散化(fragmentation)を招いた。

この現状を打破するために、フィリピン保健省は、国家保健目標(National Objective for Health)を1999年より6年ごと(1999-2004、2005-10、2011-16)に策定し、保健改革を進めている。なかでも、2005年から2010年に実施されたフォーミュラ・ワン・フォア・ヘルス(FOURmula One for Health: 以下F1)は、国家保健目標に基づいた具体的な保健行政改革プログラムである。それは、地方分権による保健の分散化の歪みを是正するための保健改革を、包括的なパッケージとして全国で画一的に実施するための戦略的プログラムであった。

F1改革は世界保健機関(World Health Organization: 以下WHO)、国連開発計画(United Nations Development Program: 以下UNDP)、世界銀行、そして欧州委員会(European Commission: 以下EC)といった国際援助機関との協調により行われた。しかしながら、この改革によっても全国一律の保健行政による公衆衛生の提供と、健康保険制度による医療サービスの受診システムは整備されていない。また、F1の目指していたミレニアム開発目標 (Millennium Development Goals)の達成も、母子保健分野の、特に、妊産婦死亡率の減少が実現困難とみられている。

なぜ、F1は目的を達成できなかったのであろうか。そもそも計画に問題があったのであろうか。それとも実施過程において、目標達成に向けた行政活動がきちんと行われなかったのであろうか。近年の開発協力の潮流は、開発途上国のオーナーシップを強調し、保健行政改革の手法と技術支援を国内の政策プログラムとして受け入れるか否かは、改革実施国政府の問題とされてきている。そこで、本論文では、特に国内の政策実施過程に関わる保健行政組織内の内生的要因に焦点を当て、フィリピンの保健改革であるF1の政策実施過程の分析を通じ、「全ての人への医療(Health for All Filipinos)」が達成できない原因を考察するものである。分析にあたっては、保健行政官僚組織内に根ざす改革を妨げている規範やルールを明らかにするために、政治・行政学における「新制度論」の分析枠組を用い、保健行政改革実施過程を考察する*4

本論文の構成と各章の概要

政策実施研究は、政策の意図された目的と実施の結果との間に生じた乖離を、実施のギャップ(implementation gap)として、ギャップの生じた原因を具体的に検討する研究手法である。しかしながら、これまでの政策実施研究は、ギャップの生じる要因を同定するにあたって、分析対象とする政策プログラムの政策決定過程及び実施過程の問題点にもっぱら着目し、ギャップが生じる原因を、歴史的に形成されるその国特有のルールや規範といった要因を取り込んで分析してはこなかった。このため、政策評価に基づく改善や改革提案も現状維持的であった。そこで本研究では、インフォーマルなルールや規範の影響を重視する新制度論のアプローチに注目し、政策実施におけるギャップの真の理由を分析することとする。

本論文の構成と、各章の概要は、以下の通りである。

第1章では、フィリピン保健部門に関する先行研究を、社会科学の視点からレビューしたのち、政策実施研究の分析枠組となる新制度論の有効性を検討する。具体的には、政策決定・実施に関わった保健省官僚の行動を、ルールや規範によって形成される「制度」が組織内の個人の行動を制約するとした、James March and Johan Olsenの「適切さの論理(logic of appropriateness)」*5を分析枠組とする。さらに、「歴史的制度論」の「経路依存性(path dependency)」*6を、保健官僚の従属性と健康保険制度の歴史的発展過程を分析する分析枠組みと位置づける。第2章・第3章では、分析対象を明確化する。過去5年間の保健改革がうまくいかない理由は、政策実施過程に先立つ政策決定過程にも原因がある。そこで、まず第2章では、保健政策の政策決定機関である保健省の成立過程、保健政策決定に影響を及ぼす利益団体と考えられる医師専門職団体の成立過程、保健改革の主要な政策課題である保健システムの概要と健康保険制度の成立過程を整理する。そして、改革に根差す福祉イデオロギーと、政府の限定された役割を、明らかにする。第3章では、2005年から2010年に実施されたF1保健改革における政策決定過程と政策実施過程を整理し、実施のギャップの原因となる仮説を導き出す。第4章では、第2章と第3章から導き出した仮説を、第1章で示した分析枠組を用いて検証し、改革実施を困難にしている「制度」の存在を明らかにし、実施のギャップを生み出している要因を考察する。

ここでの仮説は、以下のとおりである。

  • (1)中央・地方間に保健行政の連携体制が確立されていないために、政策の実施が確保されなかった。
  • (2)地方の保健行政と執行者である公選首長との間にパトロン・クライアント関係が生じていたため、実施が地方の政治環境によって影響を受けざるを得なかった。

そして、その原因として、

  • (3)政策決定過程において、政策コミュニティ*7のアクターが固定化されていたため、貧困層中心の政策決定に影響を及ぼすアクターが欠落していた。
  • (4)政策コミュニティの既得権益が守られた上での改革内容であった。

以上の仮説を検証するため、まず第1の仮説については、中央・地方政府の保健行政官の内的行政構造(intra-administrative structure)を分析する。ここでのキーワードは地方分権である。地方分権の推進によって、保健省は州の保健職員への管理・監督権限を失った。そのため、中央・地方政府間の保健職員のネットワークが欠落した状態でF1改革は実施され、その結果ギャップが生じることになったと考えられる。

第2の「地方の保健行政機関と公選首長との間のパトロン・クライアント関係」については、フィリピンにおいて歴史的に形成されてきた政治スタイルに言及する。パトロン・クライアント関係はフィリピンに特徴的な政治関係であるが、地方分権によって、国(中央政府)との関係が希薄化したために、地方首長と地方保健行政官との間に恣意的・政治的な相互依存関係が生じていった。地方保健行政管理官は自らの政治的任命権者である州知事や市長の意向に沿って保健行政を進めなければならなくなり、医師としての倫理観との妥協を強いられることになった。

第3の仮説「貧困層中心の政策決定に影響を及ぼすアクターが欠落していたこと」については、F1の政策決定過程を中心に考察を行う。大統領の政治的任命職である保健大臣は、通常、政策決定過程において強い影響力を持ち、保健官僚は「従属的立場」におかれる。保健大臣には政治的に高い能力を有する人物が任命される。そのため、医師・看護師等の保健従事者は、専門職団体として、保健部門の政策決定の政策コミュニティのアクターに加わることができない。

第4の仮説「政策コミュニティの既得権益が守られた上での改革内容であったこと」については、F1改革における保健省組織内のアクターの行動を観察する。保健省官僚は、地方分権化により州や市へと権限委譲された保健行政を所与のものとして受け入れ、法改正による行政組織の再構築への動きを止めてしまった。F1は「全ての人への医療」を達成する保健改革を目指すものであったが、その実現のために抜本的な構造改革が実施されると、地方分権化によって既得権益が保持された保健省職員も影響を受けることとなる。そのために保健省の官僚達は、自らの既得権益が損なわれることのないように行動したと考えらえる。

こうした保健制度改革をめぐるアクターの行動を分析するために、ここでは新制度論の枠組みを適用する。March and Olsenは、組織と組織を構成する個人は、組織の構成員として個人が学習する価値・象徴・方法そしてルーティーン等からなる「適切さの論理」によって形成されるとする。そして、制度化された状況のもとでは、アクターが、行動の帰結としての損得の合理的計算よりも、何がその場においてふさわしい行動であるかを基準にして自らの行動を決定する、と主張した。彼らは、ルールや規範によって形成される「制度」が個人の行動を制約し、行政改革の方向性や内容に影響を与えると論じたのである(March and Olsen 1989)。保健省の官僚達は、保健省内の政策決定ルールを「規範」として「内在化」し、保健改革の政策目的に照らし合わせた合理性よりも、その場でふさわしいとされる「適切さの論理」に基づいて忠実に業務をこなしていることが指摘できよう。このために、F1の実施戦略は、形骸化しており、地方分権化した地方保健行政の実情に即した政策プログラム内容の形成は困難であったといえよう。

既得権益を保持するために政治に従属するという官僚の行動規範は、アメリカ統治時代に、アメリカの公務員のもつ価値規範、つまり政策決定に関しては政治家に任せるという政治的中立性が一貫してフィリピン官僚制の価値モデルとなったことに由来している。「適切さの論理」に基づいた官僚の行動規範は、歴史的に形成されたものであって、合理的な意思決定プロセスのなかに「ロック・イン」されている*8。そしてそれが、抜本的な保健行政改革を困難にしていると考えられるのである。

F1の策定過程においては、フィリピン官僚制の特徴や健康保険制度の歴史的成立過程を踏まえた制度分析がなされず、目標達成が可能な抜本的な構造改革への議論がなされないまま、計画が決定され、実施されていった。フィリピン政府は、既存の健康保険制度の仕組みと地方分権化された保健行政構造に、選択的にNPM理論に基づく改革を取り入れていった。しかしながら、保健官僚組織内のインフォーマルな規範は、新自由主義やNPMによる改革手法との間に、対立関係を生んでおり、それがフィリピンにおける保健制度改革をいっそう困難なものにしている。

〈注〉

*1: 「グッド・ガバナンス」の定義は、国際機関によって異なる。世界銀行は、「ガバナンス」を「ある国の開発のために経済的及び社会的資源を管理する際に行使される権力」と定義する(World Bank 1992)。また、経済協力開発機構(Organization for Economic Co-operation and Development: 以下OECD)の開発援助委員会(Development Assistance Committee: 以下DAC)は、1996年の「新開発戦略」において、経済的福祉と社会開発の目標を達成するために、より安定し、安全で、参加型の公正な社会の発展という質的要因が不可欠であり、これには効果的かつ民主的で責任あるガバナンスのための能力養成、人権の保障、および法の支配の尊重が含まれるとする(OECD 1996)。国連開発計画(United Nations Development Program: 以下UNDP)は、「ガバナンス」を「ある国の事情を全てのレベルで管理するメカニズム、プロセス、制度を含む」と定義し、それが「参加型であり、透明であり、説明責任をもち、効率的なもの」を「グッド・ガバナンス」と説明する(UNDP 1998)。世界銀行はガバナンスを「行政」の次元に限定するのに対して、OECDとUNDPはガバナンスを民主主義すなわち「政治」の次元にまで拡大している。世界銀行が「政治」を除外しているのは、世界銀行協定の「非政治的考慮規定」があるためであり、そのためのレトリックとして「管理を強調しているのである。OECDのDACの定義が端的に示しているように、「ガバナンス」は権力の行使であり、政治そのものである(小池2004: 89-90)。

*2: 行政部門の運営管理に市場原理を導入する改革手法を「ニュー・パブリック・マネジメント(New Public Management: 以下NPM)と呼び表したのは、英国の行政学者Christopher Hoodである(Hood 1991)。

*3: 日本の厚生労働省にあたる保健医療行政に関する政策決定を担う中央政府機関は、フィリピンでは保健省(Department of Health)である。このため、本論文においては、公衆衛生・医療・医薬品規制管理を含む保健医療部門全てを包括的に「保健」と称する。

*4: 本研究では、「制度」を、「政治・行政制度におけるフォーマル・ルールすなわち憲法・制定法・大統領や保健大臣による行政命令、及び、官僚内に内在化されたインフォーマル・ルールすなわち政府組織や保健省のパフォーマンスに影響を及ぼすルール・規範・伝統・価値」と定義づける。

*5: 「適切さの論理(logic of appropriateness)」については、53-56頁に説明している。

*6: 「歴史的制度論」と「経路依存」に関しては、46-53頁に説明している。

*7: 政策コミュニティ(policy communities)」とは、特定の政策分野を専門とする政府を取り巻く組織や個人を示す。多元的政治システムにおける一般的な政策コミュニティは、官僚と官僚組織、個人の政治家や政党、組織化された利益団体とそのリーダーとスタッフ、そして、政府内、高等教育機関、その他の政策研究に関わる組織等である(Campbell et al. 1986)。政策コミュニティについては58-60頁にて詳しく論じている。

*8: 歴史的制度論における「ロック・イン」は48-49頁において説明している。

索引

  • あ行
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    • 医療の専門化(Professionalization) 47
    • ウェーバー(Weber, Max) 53, 118
    • ウタン・ナ・ロウブ(untang-na-loob:恩義) 117
    • エスピン・アンデルセン(Esping-Andersen, Gsta) 114
    • エンタイトルメント(Entitlement) 64, 70-71, 113
    • オーナーシップ(Ownership) 161
    • オズボーン&ゲーブラー(Osborne, David and Ted Gaebler) 220
  • か行
    • 家産制権威主義(Patrimonial Authoritarianism) 118
    • ガバナンス(Governance) 56-58, 252
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    • グッド・ガバナンス(Good Governance:良い統治) 17, 18, 24, 206-207, 211
    • クローニー・キャピタリズム(Crony Capitalism) 109, 128
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    • 公衆衛生従事者のためのマグナカルタ(Magna Carta of Public Health Workers) 37, 102-103, 207, 208
    • 合理的選択制度論(Rational Choice Institutionalism) 44-46
    • 漕ぎ手から舵取りへ(Steering rather than Rowing) 139, 230
  • さ行
    • サバティエ(Sabatier, Paul) 69
    • 実施のギャップ(Implementation Gap) 20, 40-41
    • 社会学的制度論(Sociological Institutionalism) 44, 53-56
    • 社会構成主義(Social Constructivism) 54
    • 新自由主義(ネオリベラリズム: Neo Liberalism) 17, 107
    • 新制度派経済学(New Institutional Economics) 18, 43
    • 新制度論(New Institutionalism) 20, 43, 236, 250
    • スコッチポル(Skocpol, Theda) 46, 52, 240
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    • セン(Sen, Amartya) 71
    • 政策コミュニティ(Policy Communities) 22, 24, 58, 64, 219
    • 政策サブシステム(Policy Subsystem) 69-70
    • 政策実施研究(Implementation Study) 20, 40-42, 253
    • 政策スタイル(Policy Style) 61-62, 70, 142, 219
    • 政策ネットワーク(Policy Networks) 58
  • た行
    • タン博士(Dr. Tan, Jaime Galvez)93, 176
    • 第三の道(the Third Way) 118
    • 脱家族化(Defamiliarization) 130
    • 小さな政府(Limited Government) 111
    • 地方政府間保健連携区域(Inter-Local Health Zone) 164, 210-211, 223, 245
    • 中央・地方政府間関係(Intergovernmental Relations) 204
    • テクノクラート(Technocrat) 113
    • 適切さの論理(Logic of Appropriateness) 21, 53, 55, 251
    • 鉄のトライアングル(Iron Triangle) 69
    • ドクターズ・トゥ・バリオス(Doctors to Barrios) 209, 227
  • な行
    • 内的行政構造(Intra-administrative Structure) 22, 230
    • ニュー・パブリック・マネージメント(New Public Management: NPM) 17, 18, 24, 255
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    • ノージック(Nozick, Robert) 70
    • ノース(North, Douglass) 43
    • 農村先住民居住区域への医療プロジェクト(Medical Aid to Rural Indigent Areas: MARIA) 83
  • は行
    • パキキサマ(pakikisama: 協調性) 117
    • ハッカー(Hacker, Jacob S.) 49, 50, 239, 251
    • パトロン・クライアント関係(Patron-Client Relations) 21, 229, 231
    • バランガイ(Barangay) 31, 66
    • バランガイ・ヘルス・ステーション(Barangay Health Station) 32, 77, 100, 138, 183
    • バランガイ・ヘルス・ワーカー(Barangay Health Worker) 31, 103, 138-139, 183, 204
    • バランス・ビリング(Balance Billing) 92, 126-127, 203, 207, 224
    • ピアソン(Pierson, Paul) 47, 48
    • ピーターズ(Peters, Guy) 43, 56-58
    • ピープルズ・オーガニゼーション(People's Organization) 66
    • 貧困層スポンサー・プログラム(the Indigent Sponsored Program) 36, 67, 88-90, 126, 176, 209, 215
    • フィリピン1987年憲法(The 1987 Constitution of the Republic of the Philippines) 63, 78
    • フィリピン医師会(Philippine Medical Association: PMA) 80-85, 208
    • フィルヘルス(フィリピン健康保険機構、Philippine Health Insurance Corporation: PhilHealth) 87-95, 175-179, 182, 203
    • フォーミュラ・ワン・フォア・ヘルス(FOURmula One for Health: F1) 19, 29, 34, 37, 58, 73, 135, 141, 148, 149, 156-157, 162-175, 188-189, 191, 194, 198, 205, 208, 213-214, 216-217, 221, 225, 232, 235
    • プライマリ・ヘルス・ケア(Primary Health Care) 29, 30, 31, 34, 66-67, 77, 79, 134, 136-137, 204
    • プレスマン&ウィルダフスキー(Pressman, Jeffrey L. and Aaron Wildavsky) 40-41, 253, 254
    • プログラム・アプローチ(Program Approach) 115
    • プロフェッショナリズム(Professionalism) 238
    • 福祉国家(Welfare State) 42, 51, 61, 107, 109, 113, 114, 129, 131, 252
    • 福祉社会(Welfare Society) 42
    • ポークバレル資金(Pork Barrel Funds) 36, 67, 140, 187, 220-221, 224-225
    • ホリディ&ワイルディング(Holiday, Ian and Paul Wilding) 117
    • 保健セクター改革アジェンダ(Health Sector Reform Agenda:HSRA) 29, 141, 146
    • 保健セクター開発アプローチ(Sector Development Approach for Health:SDAH) 166
  • ま行
    • マーチ&オルセン(March, James G. and Johan P. Olsen) 21, 23, 44, 54, 55, 236, 250, 251
    • マネジェリアリズム(Managerialism: 経営管理主義) 18
    • ミーンズ・テスト(Means Test) 114, 130
    • ミレニアム開発目標(Millennium Development Goals) 20, 97
    • メディケア・プログラム(Medicare Program: フィリピン健康保険制度) 85, 86, 109
  • や行
    • ユニバーサル・カバレージ(Universal Coverage) 37, 68, 108, 176, 180, 209
  • ら行
    • リベラリズム(Liberalism) 115, 130
    • ルーラル・ヘルス・ユニット(Rural Health Unit) 32, 88, 100, 137, 138, 140, 183, 204
    • 歴史的制度論(Historical Institutionalism) 21, 44, 46
    • ローズ、リチャード(Rose, Richard) 115
    • ローズ、ロッド(Rhodes, R.A.W.) 58, 252
    • ロック・アウト(Lock Out) 244
    • ロック・イン(Lock-in) 24, 48, 237, 252
    • ロブソン(Robson, William) 131
  • わ行
    • ワシントン・コンセンサス(the Washington Consensus) 17