戦後台湾における対日関係の公的記憶: 1945~1970s
被害者と加害者がその過去といかに折り合いをつけるか、この課題に戦後日華・日台間で蓄積されてきた経験は一般的な歴史和解の模範となることはできなくとも、興味深い事例となっている。(2019.11.1)
定価 (本体6,400円 + 税)
ISBN978-4-87791-301-4 C3031 405頁
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- 序論
- 1 歴史問題と日台関係
- 2 中華民国の対日態度
- 3 設問
- 4 歴史叙述と公的記憶
- 5 資料と構成
- 序論
- 第一部 関係清算の公的記憶
- 第一章 中国大陸における対日関係清算論:1945~49年
- はじめに
- 1 抗日戦争の勝利
- (1) 8月15日演説の発表
- (2) いかに日本人を改心させるか
- (3) 非国民党系メディアの論調
- 2 米国の東アジア政策の変遷
- (1) 対日占領政策
- (2) 対日講和問題
- 3 中華民国政府による対日関係論の変遷
- (1) 長期占領論
- (2) 米国の路線転換への追随
- (3) 「反米扶日」運動への対応
- (4) 対日「合作」論の登場
- 小結
- 第二章 台湾における対日関係清算論:1945~49年
- はじめに
- 1 終戦と台湾社会
- 2 台湾の「光復」
- (1) 在台日本人への寛大論
- (2) 対日論調の硬化
- (3) 一般日本人の送還
- 3 日本人技術者の留用
- (1) 対日論調の緩和
- (2) 渋谷事件の発生
- 4 対日寛大論の溶暗
- 小結
- 第三章 対日平和条約の締結をめぐって
- はじめに
- 1 対日講和問題の再浮上と中華民国政府の対応
- (1) 台湾の法的地位問題の登場
- (2) 「対日講和七原則」への対応
- (3) 目標の変更
- (4) 講和会議からの排斥と二国間講和路線への転換
- 2 講和問題と対日関係論
- (1) 『中央日報』の対日関係論
- (2) 在野系メディアの対日関係論
- 3 日華平和条約の締結
- (1) 対日交渉の開始
- (2) 平和条約締結交渉
- (3) 日華平和条約の批准
- 小結
- 第一章 中国大陸における対日関係清算論:1945~49年
- 第二部 対日関係史の公的記憶
- 第四章 被害の記憶と日華関係
- はじめに
- 1 被害の記憶
- (1) 「内戦の国際化」
- (2) 近現代の対日関係史
- (3) 日本の台湾統治について
- 2 日華関係と歴史認識
- (1) 過去をめぐる問題への基本方針
- (2) 日本人の台湾論
- (3) 「感謝する日本」
- 3 の再編
- (1) の動揺
- (2) の再編
- 小結
- 第五章 日本文化論の変遷
- はじめに
- 1 戦後初期の台湾海峡両岸における日本文化論
- (1) 台湾
- (2) 中国大陸
- 2 中央政府台湾移転後の日本文化論
- (1) 「反共抗ソ」と文化政策
- (2) 日本の文化的産品への輸入規制
- (3) 日本文化と「赤色の毒」
- 3 「中日文化合作」の開始
- (1) 「東方文化」を共有する日本文化
- (2) 日本からの規制緩和要求
- (3) 規制緩和
- 4 「文化合作」の同床異夢
- 小結
- 第六章 公的記憶の変容と未完の関係清算
- はじめに
- 1 紛争発生時の公的記憶
- (1) 日華紛争の発生と記憶の動員
- (2) 記憶動員の背景
- (3) 日華紛争の収束
- 2 公的記憶の基盤の動揺
- (1) 国際環境の変化
- (2) 社会環境の変化
- 3 日華断交と未完の関係清算
- (1) 日本の対中接近
- (2) 中華民国政府の対応
- (3) 日中共同声明の発出
- (4) 日華断交と公的記憶の変容
- 小結
- 結論
- 1 設問への解答
- (1) 第一の設問
- (2) 第二の設問
- (3) 第三の設問
- 2. 東アジアの歴史問題に対して、本研究から得られた知見
- 1 設問への解答
- 第四章 被害の記憶と日華関係
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- あとがき
- 参考文献
深串徹
- 1982年 埼玉県生まれ
- 2004年 青山学院大学国際政治経済学部卒業
- 2014年 青山学院大学大学院国際政治経済学研究科国際政治学専攻博士後期課程修了。博士(国際政治学)
- 専修大学、東京女子大学非常勤講師、公益財団法人日本国際問題研究所若手客員研究員などを経て現在 二松学舎大学非常勤講師、立教大学アジア地域研究所特任研究員
[主要論文]
- 「中華民国の公定歴史認識と政治外交:一九五〇―一九七五年」『国際政治』第187号(二〇一七年三月)ほか
序論
1 歴史問題と日台関係
冷戦が終焉し、世界的に自由化・民主化が拡大した1990年代以降、日本とその近隣諸国の間では、歴史問題という新たな争点が顕在化するようになった*1。今や歴史問題は、東アジアの国際関係や地域協力に負の影響を与えるものとして、広範に認識されるまでに至っている。このような状況を反映して、多くの論者達が、冷戦期に棚上げされていたか、もしくは形式上成立していたに過ぎない近隣諸国との歴史和解を実質的に達成することが、日本にとっての重要な課題であると主張して来た*2。従来、もっぱら戦争終結後いかに国際秩序が再建されるかという問題に関心を集中させていた国際関係論の研究者達も*3、次第に歴史和解という課題に注目するようになり、理論構築の機運も高まりつつある*4。
これらの論者達が、歴史和解とは何かについて、具体的な定義付けを行った上で議論を展開しているわけでは必ずしもない。そのような中で、小菅信子が行っている以下の説明は、最も簡にして要を得たものであると思われる。
「歴史和解」とは、歴史問題の克服を通して、対立の過去から共生の未来を拓く作業である。したがって、そこに関わる全ての人々に最初に必要とされるのは、過去に何があったかを、可能な限り、正確に知る努力である。
和解のプロセスで核心となるのは、悲惨な過去に根ざした痛みに引き裂かれた者同士が再会する覚悟を固め、そのための準備をすることである。*5
それゆえ、歴史和解実現のためには、まず「我々」と「彼ら」の間で何が起こったのかについて、双方が共通の認識に達することが求められる。近年、日中・日韓間において、政府当局者の合意の下、有識者による歴史共同研究が実施されたのも歴史和解実現の一助となることを目指したものと言えるだろう*6 。
他方で、歴史和解の促進を求める議論に対しては、日本の近代史を否定的に評価し過ぎているとする、修正主義的な立場からの批判も行われている*7。歴史問題は、国民の集合的な記憶と国家のアイデンティティに関わるものであるため、それをめぐる認識の相違は、国家間における論争の火種となるばかりでなく、国内においても容易に争点となり、白熱化した議論を引き起こしている。
しかしながら、どのような立場にせよ、日本と近隣諸国の間における歴史和解について検討している研究の多くは、もっぱら日中関係と日韓関係に関心を寄せる一方、日本の植民地統治を経験した台湾について言及する頻度は少ない。重要なことに、日台間には歴史問題がまったく存在しなかったわけではなく、以下のような様々な事例が存在したし、中には現在進行形の問題も含まれているのである。
広く知られているのは、小林よしのりの漫画『台湾論』*8がもたらした騒動で、日本の植民地統治を肯定的に描写したことから内外で大きな反響を呼び、台湾の内政部が小林の一時入境禁止を発表するという事態にまで発展した*9。朝鮮人女性が多数を占めていたことから、主に日韓関係の中で取り上げられることの多い従軍慰安婦問題だが、慰安婦の中には台湾人女性も含まれていたことが指摘されている*10。また、1970年代から80年代にかけては、戦時中「日本人」として第二次世界大戦に参加したにも関わらず、戦後日本国籍を失ったことから補償を受けられなかった台湾人元軍人・軍属による訴訟も行われ、未解決の戦後処理問題として注目を集めた*11。また、戦死した台湾人兵士・軍属が靖国神社に合祀されていることへの反対運動も展開されている*12。日本の閣僚が南京虐殺の存在や、太平洋戦争が日本による侵略戦争であるという位置づけを否定する発言を行った際には、外交部が日本に対して抗議を行うこともあったのである*13。
それにもかかわらず、地域研究としての台湾研究や日本植民地史・台湾史研究の領域で上述の諸問題が検討されることはあっても*14、国際関係や平和研究の研究者が歴史和解について論じる際に、台湾を事例として選択していることはまれである。その最大の理由は、冷戦後の日台関係において、歴史問題が日中関係や日韓関係ほどには、重要な政治的争点として存在して来たようには見えないことにあるだろう。1999年に出版された日本語による著書の中で、李登輝は次のように述べている。
すでに何度も述べてきたことだが、私は多くの恩恵を日本から受けてきた。そしてまた、台湾も歴史的な経緯の中で、多くのことを日本から獲得してきた。そのことは、何度繰り返し述べてもいいすぎるということはないだろう。
台湾が日本の植民地だったということに、きわめて神経質になっている日本人も多い。他国を植民地にして経営するという行為は得策でもないし、国際道義的にも誉められたことでないのは確かである。しかし、そのことばかりに拘泥しても日本の将来に益することは少なく、また台湾にとってありがたいことではない。*15
李登輝のこのような未来志向的な態度は、日本統治下の台湾で生まれ、京都帝国大学で農業経済学を学んだ経験を持ち、日本語に堪能という本人のキャラクターともあいまって、多くの日本人ファンを獲得させる原因となった。特に、作家の司馬遼太郎が週刊誌上に連載していた台湾紀行に何度も登場し、司馬との対談も行ったことで、その知名度は一気に高まることになる*16。「親日総統・李登輝」の存在があまりにも注目を集めたため、日本国内での台湾理解が、李登輝を媒介とした視点に集約されるという現象まで出現したのである*17。
李登輝以後の歴代総統(陳水扁、馬英九、蔡英文)は、いずれも李ほどは日本人に強い印象を与えなかったが、彼らの政権下においても、歴史問題をめぐって日本と台湾が深刻な対立に陥ることはなかった。1970年代に尖閣諸島の領有権を主張する「保衛釣魚台運動」に参加した経験があることから反日的と見なされることのあった馬英九も、中国国民党(以下、国民党)の総統候補者であった2007年には日本を訪れ、日本の植民地経営に一定の評価を与える演説をして注目を集めている。馬がこのような発言をした背景には、彼が「反日的」であるというイメージが政敵達にとっての攻撃材料の一つであり、そうした印象を払拭する目的があったという*18。
なぜ、歴史問題は冷戦後の日台間で重要な争点とはなって来なかったばかりか、「反日的」というレッテルが台湾の政治家にとってマイナス要因にすらなるのか。その原因として、台湾人が中国人や韓国人と比較して「親日的」なことを挙げ、その理由として植民地統治の成功を喧伝する人々もいる*19。しかし、台湾人の「親日」について、研究者の多くは、国民党政権の失政による「省籍矛盾」の存在をその歴史的背景として挙げている。「省籍矛盾」という耳慣れない用語は、本省人(日本の植民地統治開始以前から台湾に居住していた人々とその子孫)と外省人(中華民国政府の台湾接収後、中国大陸から移住して来た人々とその子孫)の間における亀裂を指している。すなわち、台湾人の「親日」として現れている現象は、その実は被支配的立場にあった本省人が、社会的に優勢を占める外省人や、国民党が持ち込んだ抑圧的な「中国的なるもの」に対抗するために用いた戦略であったという解釈である*20。いわゆる「哈日族」*21など、植民地支配を経験しておらず、日本文化に親近感を持つ世代の登場はまた異なる文脈にあるものだが、これら若い世代の「親日」言説が流通可能になった背景に、彼らより上の世代による「親日」言説があったと考えることも出来る*22。
いずれにせよ、こうした議論から分かることは、台湾人=「親日的」というイメージは、その実は本省人=「親日的」という図式だということである。何義麟が指摘するように、今日巷間で抱かれている「紋切り型の」イメージは、植民地統治を経験した本省人は「親日的」である一方、抗日戦争を体験した外省人は「反日的」であるというものであり*23、台湾に住む人々がおしなべて「親日的」であるとは考えられていない。ならば、日台間で歴史問題が低調である理由は、1980年代から始まる台湾の民主化後、人口の多数を占める「親日的」な本省人が発言権を拡大した結果であると解釈出来るかも知れない。
だが、このように見て来ると、一つ疑問が生じる。もし、本省人=「親日」、外省人=「反日」という図式が戦後一貫したものであったのなら、外省人が政府・社会の枢要を占めていた時代の台湾と日本の間では、歴史問題が存在し、紛争の種となっていたのではないだろうか。よく知られているように、日韓関係においては、すでに1950年代から韓国併合条約の位置づけや植民地統治の評価をめぐって激しい論争が展開されていた*24。同じ時期の日本と台湾の間においても、歴史問題に起因する摩擦は存在していたのだろうか。
2 中華民国の対日態度
ここで注目すべきは、「親日的」な本省人と「反日的」な外省人というイメージは、歴史的に見れば、必ずしも常に「紋切り型の」イメージとして存在したわけではないことである。例えば、日本に対する態度のあり方を世代で分けるイメージもある。蕭阿勤によれば、1970年代に20-40代であった「戦後世代」は、国民党政権による「中華民族」教育を受けた第一世代でもあり、そのアイデンティティや価値観は、日本統治下に育った世代と大きく異なっていたという*25。言語学者で、台湾独立運動の活動家でもあった王育徳は、そのような「戦後世代」の一人である本省人作家の黄春明について、次のような感想を記している。
いつか東京放送(TBSテレビ)で『莎娜拉・再見』の著者で、著名な郷土文学作家黄春明(一九三九年生まれ)のインタビューが放映されるのを見たが、激しい口調で日本の経済侵略、文化侵略を批判するのに驚いた記憶がある。
日本語もよく知らず日本の実態もよくわからない彼らがなぜこうも反日感情をもつのか、正しい台湾と日本の関係を考える上で、困った問題である。
〔中略〕
とくに気をつけるべきは、政権の反日教育にあおられるようなことがあってはいけないことである。日本は野蛮な東夷で中国を侵略したばかりか台湾を植民地にした。敗戦してもアメリカのおかげで復興し、隙を見て台湾に失地回復しようとしている……といった反日教育がずっと続けられてきた。
この反日教育は同時に二つのねらいをもっている。一つは、悪いことはすべて日本のせいにして自分の責任をのがれ、一つは、台湾人の中国人意識をかきたてて自分に忠誠を尽くさせようとする。
これを無力化するには、政権に対する正しい認識が必要であるほかに、日本に対する客観的で科学的な分析が欠かせない―五十一年間の植民地支配は、政権の宣伝するように何から何まで悪かったのか。ほんとうに台湾で失地回復しようとする野心があるのか。*26
ここで、1924年生まれの王育徳は、介石政権の「反日教育」を受けた結果、自分よりも若い世代が反日感情を持つようになってしまったと嘆いている。つまり、日本に対する態度を分けるのは省籍ではなく世代であり、本省人であっても若い世代に属する人間は反日的であるというのが、王のイメージなのである。
介石政権がどのような「反日教育」を行っていたかについて、正面から取り上げた研究はないが、権威主義体制時代の歴史教育が「反日的」であったことは、しばしば指摘されている。李衣雲*27、林初梅*28、洪郁如*29らの研究は、民主化以前の教育現場において日本は旧植民地宗主国としてではなく、もっぱら日中戦争の交戦国として描かれたが、その内容は「反日的」なもので、「日本=敵」という図式が存在していたとする。もっとも、これらの研究はいずれも教育内容の分析を主眼に置いたものではないため、上述の観察を裏付ける事例が体系的に示されているわけではない。
植民地統治期に関して、1958年生まれの台湾人研究者蔡易達は、自身が中学で用いていた歴史教科書は「『日本の残暴統治50年』(96年発行「国民中学歴史・第3巻」)といった一言で片づけ、その実情についてはあたかも存在しなかったように、何も取り上げて*30」来なかったと回想している。ただし、多くの研究者が明らかにしているように、戦後初期の中華民国政府は、台湾を中国の「模範省」とするべく、島内に残る日本統治の影響と日本文化の残滓を「毒素」と断じ、その払拭のために様々な政策を展開していた*31。こうした政策が実施された事実は、王育徳が述べる「政権の反日教育」というイメージを裏付けているように見える*32。
その一方で、終戦から間もない時期の中華民国の対日態度について、上記とは相反するイメージも存在する。代表的なものとして、中華民国の対日戦後処理は日本留学の経験を持つ「知日派」の介石が終戦後に布告した「以徳報怨」(怨みに報いるに徳を以てする)という寛大な方針に基づき、極めて温情的なものであったというイメージが挙げられよう。1945年8月15日、介石は重慶のラジオ局から、「抗戦勝利告全国軍民及全世界人士書(抗戦に勝利し全国の軍民及び全世界の人々に告げる演説)」と題する演説を放送し、「ナチス的軍閥」を除いた「日本の人民」を免責するよう、中国国民に呼び掛けたとされる(詳しくは、第一章)。さらに、一部の人々によれば、介石はこうした方針を示すだけにとどまらず、次のような四つの恩恵を日本に対して施したという。
- (1)1943年のカイロ会談の際、ルーズベルト米大統領に対して、日本の天皇制の継続を主張し、認めさせた。のこの建言は、米国の政策決定に大きな影響を与えた。
- (2)中国大陸にいた二百数十万の日本人将兵及び民間人の早期送還に尽力した。
- (3)米国から要請された中国軍の日本進駐を拒否することによって、ソ連軍の日本進駐を牽制し、日本の分割占領を阻止した。
- (4)対日賠償請求権を自発的に放棄し、日本の迅速な経済復興の一助となった。
日本において、このような介石の「以徳報怨」という寛大な「恩義」に報いなければならないとする主張は、戦争を経験した世代を中心に広範な支持を集めていた*33。日本が戦後復興を迅速に果たすことが出来た原因も、上述の介石による温情的な措置にあったという見解すら存在したのである*34。
ただし、こうしたいわゆる「介石恩義論」に対しては、(2)を除いていずれも実証研究によってその不正確さが明らかにされており*35、日本側で抱かれていた「寛大な介石」像は、多分に虚像を含んだものであったと言えよう。とはいえ、介石が1945年の8月15日に前述のラジオ演説を行ったこと自体は事実であるので、その際の印象が介石の対日戦後処理に関するイメージにも投影されたものと考えられる。
もう少し実証的な台湾史研究においても、介石政権期の中華民国政府が日本との過去の経緯に拘泥せず、「反日的」ではなかったという評価は存在する。1950年代から60年代の台湾映画において日本がいかに表象されていたかを分析した徐叡美によれば、映画製作を強い統制下においていた国民党政権は、政治・経済・文化の各方面で日本を「友好国」として描き出すことに腐心し、台湾住民に向けた宣伝を行っていた。その結果、国民党政権は台湾社会における最大の「親日派」ですらあったのである。「中日親善」をあまりにも強調し過ぎたために、政府に対して「媚日的」という非難が向けられることもあったという*36。
こうして、これら錯綜するイメージを整理して行くと、いくつかの問題が浮かび上がって来る。従来、一般的に語られる印象にせよ、台湾研究の専門家による著作にせよ、第二次世界大戦と植民地統治が終結した直後の日本と台湾の間において、歴史問題が争われたか否かを十分に論じてはいない*37。冷戦後の日台間で歴史問題が争点とならなかったからといって、そこからの類推で、それ以前の日華・日台関係も同様であったと見なすことは出来るのだろうか*38。そもそも、第二次世界大戦と植民地統治の終結から直近の時代の台湾では、過去の日本との関係について、公式にはどのような解釈がなされていたのだろうか。こうした問題は、歴史和解に関心を抱く人々によっても、台湾研究の専門家達によっても、いまだ十分に明らかにされてはいないのである。
3 設問
以上の議論をふまえて、本書が考察する問題は次の通りである。
第一に、中華民国の台湾接収後から、日華間の国交が断絶を迎えた時代、すなわち1945年から1972年までの期間、日華・日台間において歴史問題が表出することはあったのか。もし、今日の国際関係研究者や平和研究者が暗黙の裡に前提としているように、中華民国政府がこの時期にも日本側に対して歴史問題を提起することがなかったのだとしたら、それはなぜなのだろうかという問題である。上述の時期を分析期間として設定した理由は、(1)終戦から直近の時代であり、およそ一世代分の期間であること、(2)台湾における「(再)中国化」という制度的同化政策が開始され、その成果が出始めた時期(1960年代)が含まれること*39、(3)従来「反日的」とのイメージが持たれている外省人が、ほぼ一元的に国政に携わっていたこと*40、(4)日華間に国交が存在した時期が含まれており、歴史問題が発生していたとしたら、高官レベルで協議されていた可能性が高いことによる。
第二に、上述した分析期間において、中華民国政府は戦前・戦中の対日関係、および戦後日本との新しい関係についてどのように説明していたのか。そうした説明は、いかにして成立したのかという問題である。トーマス・バーガー(Thomas U. Berger)が指摘するように、歴史問題とは集合的記憶、とりわけ、公式の歴史叙述において過去がいかに表象されるかをめぐる対立の所産である*41。仮に日華間で歴史問題が争点となっていなかったとしたら、台湾で公定されていた歴史叙述は、日本との歴史問題を惹起しにくい内容のものであった可能性が高い。すなわち、中華民国政府は分析期間の台湾において、日本との間で過去に対立関係が存在したことは社会的に重要ではないか、あるいは、日本との和解はすでに達成済みであるという公的な「物語」を叙述することによって、歴史問題の棚上げを正当化し、同時に日本との関係に起因する集合的なトラウマの緩和を図っていたのかもしれない。だとしたら、そのような「物語」も含めた公式な歴史叙述とは、どのような内容のものだったのだろうか。
次節で詳述するように、本書では公式な歴史叙述が集積されることによって、ある社会で流通する歴史解釈に一定の枠組みが形成されることを指して、そのような枠組みを「公的記憶」と名付けることとする。それゆえ、第二の設問は次のように言い換えられる。中華民国政府は戦前、戦中および戦後の対日関係に関して、台湾においていかなる公的記憶を構築したのか。その構築過程は、どのようなものであったのだろうか。
第三の設問は、中華民国が構築した公的記憶は、日華関係、およびその中における過去の取り扱われ方とどのように関連していたのかという問題である。日華関係は、公的記憶の形成にどれほど影響を与えたのか。反対に、公的記憶が対日政策を左右することはあったのか。この問題は、もし歴史問題が争点化していなかったとしたら、それはなぜかという第一の問題とも関連する。過去の解釈が争点にならなかったのは、公的記憶のありようが原因だったのか。それとも、中華民国の政治指導者達が、日本側と近現代史をめぐって論争することは国益に適わないとの判断を下したからこそ歴史問題は発生しなかったのであり、公的記憶は日華関係の従属変数に過ぎないのだろうか。国際関係論に引き付けて考えれば、前者は国際関係が言語によって社会的に構成されると考えるコンストラクティビズムの観点に近く、後者は合理的選択論による解釈に近いと言えるだろう。
本書は、第二の設問(公的記憶の内容とその成立過程)を中心的テーマとして扱い、それを通じて第一と第三の問題にも解答を試みる。本書の分析を通じて、公的記憶と日華関係の関連性は、コンストラクティビズムと合理的選択論のいずれによっても、完全には説明出来るものではないことが明らかになる。対日関係の公的記憶は、歴史問題を日華関係の争点から除外することに部分的に影響したが、その最重要の理由であったとまでは言えない。だが同時に、公的記憶のありようは、日本への配慮のみによって規定されたわけではなかったのである。
ある社会における歴史叙述や「物語」、そして記憶といった問題は、1980年代以降、多くの人文学者や社会科学者の注目を集めて来た。同問題に関する理論的な整理は次節で行うこととして、ここでもう一度、本章の冒頭で紹介した小菅信子による説明を振り返っておきたい。歴史和解には、「過去に何があったかを、可能な限り、正確に知る努力」が不可欠であるという小菅の見解に筆者も賛同する。しかし、本書が主に解明を目指すのは、「過去に何があったか」ではなく、「過去に何があったということにされたか」、そして、「なぜ、どのようにして、そうした叙述が成立したのか」という問題である。日本の近現代史をめぐる歴史和解の問題に対し、近現代史に関する実証的な分析で参画するのは、本書の目的ではない。終戦後の台湾と日本の間における過去の扱われ方を知識社会学的に分析することで*42、冷戦後に歴史問題の存在/不存在が議論されるようになる以前の台湾における言説空間がいかなるものであったかの一端を明らかにすることが、本書が主に目指すものである。
言うまでもないことだが、1945年8月直後、あるいはサンフランシスコ平和条約締結直後の時代が即座に冷戦後の時代に直結するわけではなく、その間には数十年の歳月が存在した。冷戦後の世界も、この歳月の積み重ねの結果として構築されたと考えるべきである。しかし、日本とアジア諸国間の戦後国際関係に関する議論がこの期間について言及する際には、米国の冷戦戦略や、日本における保守勢力の復活が戦後講和に与えた負の影響を強調することで、あたかもアジア諸国が歴史問題のアクターとしては米国と日本に左右されるだけの非力な存在であったかのように描写したり、日本の過去の清算をめぐる問題が冷戦の論理によって抑圧されたと描く一方で、どのようにしてそれがなされたかが説明されなかったりと、過度に単純化された記述がしばしば散見される*43。日台関係史の描かれ方も、こうした傾向の例外ではない*44。
本書は、たとえ冷戦下の権威主義的な政府による歴史叙述であっても、そこで用いられる修辞をただイデオロギー的なものであるという理由により、排斥する立場をとらない。かつては、「空論的」「非現実的」といった意味しかなかった「イデオロギー」という概念ですら*45、今日では単なる幻想や欺瞞ではなく、「政治を意味あるものとするような権威ある概念を与えることによって、すなわち政治を理解し得るような形で把握する手段としての説得力あるイメージを与えることによって、自律的な政治を可能とする*46」機能を有するものというように価値中立的にとらえられ、社会科学の分析対象となっている*47。同様に本書は、国民党の一党独裁体制下にあった中華民国政府が提出する修辞を、政権の権威主義的性格ゆえに荒唐無稽なものとして排斥するのではなく、そのような修辞を用いた叙述が存在したという事実そのものを重視する。赤川学の言葉を借りれば、「言説が一定の形式で分布していること、そして、言説の集積からとある言説空間が構成されていることそれ自体が経験的・社会的事実であること*48」に注意を払う。そして、その叙述にどのようなレトリックや語彙が用いられ、一つの世界が成り立つに至ったかを考察するのである。
台湾における公式な歴史叙述は、官製メディアにおける論説、政府高官・要人の公的な発言、立法院における質疑、外交交渉時のやりとり、学校教科書など、多様な場所に出現し得る。本書は、それらに現れた言説をテクストとして幅広く採集し、中華民国が過去の日本との関係に関する公式的総括をいかに探し求めたか、そして、いかにして日本との関係を対内的・対外的に言説上で再構成したかを分析する。次節で述べるように、このような作業を行う目的は、中華民国がその統治する台湾社会において、対日関係に関するいかなる公的記憶を構築したかを明らかにすることにある。しかし、それと同時に本書は、日華・日台関係というこの単一事例の研究が、東アジアにおける歴史和解をめぐる一般的な議論についても新しい知見を加え得るものであることを、立証出来ると考えている。
以下、歴史叙述と公的記憶をめぐる議論を概観することで、本書の立場を明確にしておきたい。
4 歴史叙述と公的記憶
国民を「想像の共同体」ととらえたベネティクト・アンダーソン(Benedict Anderson)は、人々が共同体を言語によって「想像」する上で、「歴史、あるいは特定の仕方で構想された歴史*49」が重要な役割を果たして来たことを指摘した。このような歴史、ないしは「国民の伝記」の形成のためにアンダーソンが着目したのが、「記憶」と「忘却」という二つの営為が有する機能である。
「記憶」はともかく、なぜ「忘却」なのか。それをアンダーソンは、個人の成長を比喩に用いて説明している。すなわち、人は色あせた写真の中で幸せそうに寝そべっているこの赤ん坊が自分であるということを知るには、常に他人の助けがいる。なぜなら、人は幼児時代の記憶を思い出すことが出来ない。写真であれ、出生証明書や日記、書簡であれ、それらは何らかの外見的連続性を記録するものであるが、同時に、その連続性が自らの記憶からは失われていることを強調する。こうした「忘却」―連続性の経験を「忘れている」―という意識が、人々に「『アイデンティティ』の物語」を必要とさせる。あるべきと考えられた連続性が喪失されたことを意識し、それを取り戻すことによって自らに首尾一貫性を与えようという意志、このような意志こそが、「物語」を生み出すものに他ならない*50。「国民の伝記」とは、「記憶」と「忘却」の上に成り立つ「物語」なのである。
人々が何を「記憶」し、何を「忘却」するか。アンダーソンはその選択を、「国家官僚の氷のように冷たい計算のせいにしてしまうのはもちろん安易にすぎる」と言う。「それは〔中略〕想像力の深刻な変容を反映していたのであり、これについて国家はまるで意識もしていなければ、ほとんどなんのコントロールももっていなかったし、いまももっていない」*51。
アンダーソンの著作出版とほぼ同時期、フランスにおいても、歴史家ピエール・ノラ(Pierre Nora)を編者として、『記憶の場』と題する歴史書が刊行された。言語、博物館、記念式典、文学、美食など、フランス人の国民的記憶に枠組みを与える表象的なものを「記憶の場」と定義し、その分析を通して「フランス的国民感情のあり方を探る」ことを意図して編纂された同書は、フランスのみならず世界各国で大きな反響を呼んだ。
ノラによれば、現代社会においては記憶に対する関心がかつてないほど高まっており、それは、「自然な記憶」というものが歴史に取って代わられ、過去との断絶という感覚が鮮明に意識されるようになったことに起因するという。かつて、歴史研究とは、「記憶を正確に実行し、またすすんで深める作業として、すなわち、完全ですきのない過去を再構成する作業として、発展してきた*52」。そのような時代にあっては、「過去から未来への規則正しい移行を保証し、未来を準備するためには過去の何を覚えておくべきかを指示していたような、記憶と一体化したイデオロギー*53」が存在し得たのである。
しかし、今日、記憶と歴史の一致という自明だった事柄は、歴史学、とりわけ史学史の発展により終わりを迎えた。なぜなら、史学史への関心は歴史学をして、自身が記憶の犠牲となっていることに気付かせ、そこから解放されるべく記憶という異質なものを自身から追い出そうとさせる。こうして、思い出を聖性の中に据える記憶と、思い出を聖性から追い立て、常に俗化しようとする歴史とは、あらゆる点で乖離し、相反するものであることが明らかにされる。その結果、かつて記憶と一体化した歴史においては、過去は完全に過ぎ去ったものではなく、我々の「起源」として何度でも現在との連続性が想起されるものであったのに対し、今や過去は我々とは根本的に異なったものとされ、連続性よりも断絶が強く意識されるのである。今日、記録するということが強迫観念のように求められるのも、過去が急速かつ決定的に遠ざかりつつあるという不安の反映に他ならない。
こうした断絶がもたらすのは、記憶の消滅ではないが、崩壊であるとノラは言う。記憶の崩壊は、その過程で記憶を呼び起こしもするが、ここでいう記憶とは、「過去との連続性という感情」である。そこで、感情がいかに体現されるかが問題になるが、今日ではそれらはいくつかの「場」に残存するのみとなっている。逆説的だが、このような希少性が、人々に記憶を意識させ、「記憶の場」を生み出し、その糧となるのである*54。
ノラは、アンダーソンの「想像の共同体」論に直接言及してはいないが、人が自らの来歴に対して抱く連続性への渇望や、そうした感情と歴史との関わりについての指摘は共通している。ただし、記憶と忘却が「特定の仕方で構想された歴史」を作って来たというアンダーソンに対し、ノラは、今日では記憶と歴史が遠く隔たるものになったと述べる。もっとも、前者は、近代国民国家の形成を分析したものであり、後者は、現代社会における現象を説明したものであって、対象が異なるから、両者の見解は必ずしも対立するものではないだろう。
しかし、社会的な記憶が崩壊しつつあり、史学史が歴史学から記憶を追放しているという主張が当を得たものであったとして、この間、人々の記憶と忘却に対しイデオロギー的な操作を加えようとする試みも、そうした傾向と軌を一にするように下火になっていったのだろうか。ジョン・ボドナー(John Bodnar)は、米国の公的記憶(official memory)は一部の人々の操作を受けて来たものであり、それは現在においても同様であると述べる。ボドナーは、公的記憶を次のように定義している。
公的記憶は特定の言語、信条、シンボル、物語を備えたイデオロギー体系であり、解釈が対立したり、一方の解釈が他方よりも有利になった際などに、調停をおこなうための認識上の装置として使われる。〔中略〕公的記憶は過去に関する信念や観念の集合体であって、この助けを借りて、人や社会は自らの過去、現在、そして暗に未来をも理解することになる。*55
ボドナーによれば、米国において公的記憶が形成される過程では、「文化的指導者たち」と大きな政治組織の力とが、より小さな構造―コミュニティ、地方、団体―の力と共存したり、前者が後者を凌駕したりして来た。公的記憶は複数の言説から構築されるが、米国におけるそれは、「意見交換の場で、ある利害が他の利害よりも大きな力を行使したり、実際に意見交換のあり方を大幅にゆがめてしまったためにつくりだされた」。それゆえ、20世紀後半に至るまで公的記憶は「一部エリートによる操作、シンボルの相互作用、相争う言説などの所産であり続けた」。指導者たちは、愛国主義や市民の義務といった観念を人々に植え付けるべく過去を利用する一方で、「普通の人々」は、それらのメッセージを受け入れたり、加工したり、無視したりして来たのである*56。
社会的利害関係が集合的記憶に与える影響に関するボドナーのこうした指摘は、ポール・リクール(Paul Ricoeur)の見解に通じるものがある。リクールは、「記憶が自己同一性の構成に組み込まれるのは、物語機能を通してである」という。物語機能とは、ある行動に輪郭を与え、その主役達を造形し、記憶と忘却を戦略的に選択する機能のことを指している。そして、このような機能を備えた「物語」は、権力がその支配をイデオロギー的に正当化する際、動員される。こうして、「『公認された』歴史、公的な歴史、公式に学ばされ、祝賀される歴史」が誕生する*57。
明示的に述べていないが、このような「物語」の動員を行うのは正当性に乏しい政権のみであるとは、おそらくリクールは考えていない。「僭主といえども、その誘惑と威嚇の企てに言論の仲介をさせるには、弁論家、ソフィストを必要とする*58」という彼の言葉は、僭主に限らず、いかなる統治者であっても、物理的な力のみに依拠して統治を行うのは不可能であり、自らの正当化のために選択された「物語」を必要としていることを示唆したものであろう。
このように、社会的記憶を分析するにあたって、一方に「一部エリート」や「権力」を据え、片方に「普通の人々」を置き、後者の記憶が前者から一方的に影響を受けるものとするような想定に対しては、単純な二分論であり、むしろ両者の記憶がどのような形で融合するかという問題こそが検討されるべきだという批判もある*59。しかし、台湾における集合的な記憶がいかなるものであったかよりも、中華民国政府が人々にどのような「過去に関する信念や観念の集合体」を植え付けることを試み、対日関係を運営していたかを解き明かそうとする本書の関心は、ボドナーの公的記憶という概念と親和性が高い。また、記憶を留めたいという欲求が「物語」や「記憶の場」を作るというアンダーソンやノラ達の指摘の一方で、「物語」そのものも「ある行動に輪郭を与え、その主役達を造形し、記憶と忘却を戦略的に選択する」というリクールの主張は我々に、どのような「物語」が語られるかという問題自体も同様に重要であることに注意を払うよう促している。野家啓一が述べるように、「物語」を語るという行為は、歴史家から読者に向かっての、「記憶せよ!」という呼びかけに他ならないのである*60。こうして、過去に関する記憶と密接な関係を有するものとして、歴史叙述に注目する必要性が浮かび上がって来る。
歴史学において、歴史を叙述するという行為が何をもたらすかについて歴史家は自覚的であるよう提起したのは、ヘイデン・ホワイト(Hayden White)であった。ホワイトは、叙述には、それが扱う現実に形式を与え、望ましいものに変え、理想の香りを付与し、全体を貫く筋があったかのように示すことの出来る効果があると指摘する*61。P・L・バーガー(P. L. Berger)とT・ルックマン(T. Luckmann)は、そうした効果は叙述を読んだり聞いたりした者のみでなく、書き手や発話者自身にも及ぼされると述べる。
いまや私が私自身の存在をことばという手段を用いて対象化するとき、私自身の存在は、それが他者にとって近づきやすいものになるのと同時に、私自身にとっても圧倒的かつまた持続的に近づきやすいものになり、私は意識的な内省作業によって妨害されることなく、自然に私自身に対応することができるようになる。それゆえ、このことは次のようにも言いかえることができる。つまり、ことばは私の主観性を私の話し相手に対してだけではなく、私自身に対しても〈より現実的〉なものにする、ということだ。私自身の主観性を私に対して結晶化させ、安定化させるという、ことばがもつこの能力は、(若干の修正は伴うが)ことばが対面的状況から分離された場合でも保持される。*62
それゆえ、叙述という行為は、人の考えや信念に枠組みを与えるものであり、それは過去に関するものであっても同様である。このような機能があるため、共同体においては、自らのアイデンティティを守り、内部的一体性を高め、社会的安定を保つために、自らの来歴に関する特定の歴史叙述が採用されるのである*63。
本書は、中華民国政府がメディア、教育、公式声明などを通じて発表する歴史叙述の集積を、ボドナーの言うところの公的記憶―人々をして、「自らの過去、現在、そして暗に未来をも理解」させる枠組み―構築のための実践ととらえ、その内容と形成過程を検討する。それにより、これまでイメージが錯綜していた1945-1970年代の台湾における公式な歴史認識の実像を明らかにし、記憶という視角から戦後日華・日台関係の展開を跡づけるのが、本書の目的である。
5 資料と構成
本書が参照する資料は、主に二種類から成る。第一に、新聞・雑誌、政治指導者の言論集など、台湾においてどのような言説が展開されていたかを確認出来る資料である。そして第二が、档案館など、アーカイブスに所蔵されている未公刊の史料である。前者については、まず、国民党の機関紙であった『中央日報』を挙げることが出来る。同紙は日刊紙であり、とりわけその社説は、国民党中央の公式見解を知る上で価値が高い。また、秦孝儀主編『総統公思想言論総集』(台北: 中国国民党中央委員会党史会、1984年)と、黄自進主編『中正先生対日言論選集』(台北: 財団法人中正文教基金会、2004年)には、介石が発表した演説の大部分が収録されている。また、国家教育研究院教科書発展中心が所蔵する学校教科書からは、戦後の歴史教科書の記述の変遷を追跡することが出来る。国家図書館のウェブ上にある『立法院公報』(http://gaz.ncl.edu.tw/browse.jsp?jid=79001516)からは、立法院で行われていた質疑が閲覧出来る。その他、国民党政権の幹部や知識人の文集、日記等が数多く出版されており、台湾の言説空間のありようを把握する一助となる。
後者については、第一に、台湾の国史館所蔵の『中正総統文物』、『経国総統文物』および『陳誠副総統文物』が挙げられる。これらは、中華民国の総統・副総統の関係文書であり、政策決定過程における議論の一部を明らかにし得る。第二に、国民党中央委員会文化委員会党史館に所蔵されている『国民党中央常務委員会会議紀録』である。同記録からは、国民党内部で誰がどのような発言を行ったかまでは分からないものの、展開されていた議論の大略は読み取れる。第三に、中央研究院近代史研究所が所蔵する外交部档案であり、外交交渉の内容や行政院内で交わされていた議論が把握出来る。
本書は、大きく分けて二部から構成される。第一部では、第二次大戦が終結した1945年から日華平和条約が締結された1952年までの間、中華民国政府が中国大陸と台湾において、日本との関係をどのように清算するべきであると説明していたかを検討する。第二部では、第一部の分析を踏まえた上で、1949年末に中央政府を台湾に移転させて以来、実効支配領域のほとんどをかつて日本の植民地統治を受けていた地域に限定された中華民国政府が、対日関係の中で過去をいかに扱い、近現代における日本との関係や、戦後処理に関するどのような公的記憶を構築したかを明らかにする。
第一部は、三つの章から成る。第一章「中国大陸における対日関係清算論: 1945~49年」は、終戦後から台湾に移転するまでの期間に中華民国政府が中国大陸で発表した言説の中で、日本との新しい関係について、どのように論じていたかを検討する。ここでは、前述した1945年8月15日に介石が重慶で発表した演説の内容が、中華民国による対日政策の基本方針として位置づけられていった経緯と、その内容が戦後日華関係の〈起源の物語〉を成立させる起点となった過程を明らかにする*64。
第二章「台湾における対日関係清算論: 1945~49年」の舞台となるのは、第一章と同時期の台湾である。本章においては、台湾を接収した当局が、「光復」後の対日関係をいかに論じていたかを検討する。とりわけ、前章でも取り上げた戦後日華関係の〈起源の物語〉が、台湾でどのように語られたかに焦点を合わせる。抗日戦争勝利後の対日方針を説明するものであった8月15日の演説が、植民地統治下にあり、抗日戦争を経験しなかった台湾においても対日方針として引用されることがあったのかが、考察の中心となる。
第一章と第二章の分析からは、中華民国政府が戦後初期に行っていた対日関係に関する宣伝が、中国大陸と台湾ではいくつかの重要な点で異なっていたことが明らかにされる。台湾においては、日本に対して厳格な措置をとるよう求める主張が官製メディアから提出されており、その論調は中国大陸における公式な言説と次第に齟齬を来すようになっていった。しかし、このような差異は、1949年に中央政府が台湾に移転して来ることで、消滅するのである。
第三章「対日平和条約の締結をめぐって」が検討するのは、台湾移転後に日本との平和条約締結問題に取り組んだ中華民国政府が、対日関係の清算という問題をいかに説明していたかである。政府が当初構想していた戦後処理案は、国際環境の変動により次々と変更を余儀なくされていった。その中で、介石が終戦直後に表明した方針に基づき、敗戦国日本は寛大に処遇されるという〈起源の物語〉が、そのような譲歩の正当化のために形を変えながら動員される。結果として、日華平和条約に記された日本に対する融和的な内容は、戦後初期からの一貫した方針に基づくものであったと位置づけられていくのである。
第二部を構成するのは、第四章から第六章である。第四章「被害の記憶と日華関係」は、1950年代における公的な対日関係史の解釈がどのようなものであったかを検討する。本章の前半は、まず、戦時中から1950年代末までの期間、中華民国政府による公式な歴史叙述の中で、「我々」に対して日本がどのような危害を加えたと描かれていたかを明らかにする。続く後半では、1950年代の中華民国政府が、対日関係を運営する中で、日本との過去に関する問題をどのように取り扱っていたかを分析する。
第五章「日本文化論の変遷」は、日本文化に対する公的な位置づけに目を転じる。1945年に台湾を接収した当局は、台湾籍の人々を「中国人」として再統合するべく、植民地時代にもたらされた日本文化の払拭に努めた。その間日本文化は、中国文化とは異なるものであるばかりか本質的に劣位にあるものであり、「毒素」であると位置づけられた。1950年代に入ると日華間に国交が成立するが、このような中で日本文化に関する言説にはどのような変化が生じたのかが、本章の課題である。結論を先取りすれば、中央政府の台湾移転以降、日本文化の公的な位置づけは大幅に向上し、中国文化と同様に「東方文化の系統」に属するものとされた。さらに、日本文化は戦後処理問題と関連づけて論じられ、中国共産党政権や、共産主義という思想の他者性を強調するためにも動員されたのである。
第六章「公的記憶の変容と未完の関係清算」が分析の対象とするのは、1960年代から1970年代における対日関係に関する公式な叙述である。60年代に入ると、台湾における公的記憶を成立させていたいくつかの前提条件が失われていくが、日本との関係に関する公式な叙述は、基本的には50年代のものからほとんど変化しなかった。しかし、日華断交後に状況は一変する。日本政府が日中国交正常化により、中華民国と行った戦後処理の経験とそれ以降の二十年間をあたかも存在しなかったかのように「封じ込め」たことは、戦後日華関係の〈起源の物語〉が封じ込めていた過去の記憶を噴出させることになる。それは、台湾で構築されて来た対日関係の公的記憶が、一つの画期を迎えたことを意味していた。
最終章では、以上の議論をふまえて、序章で提示した問題に対する結論をまとめる。その上で、東アジア諸国間の歴史問題というより一般的な課題に対して、本書の結論がどのような示唆を与え得るかを議論することとする。
注
*1: 日本と近隣諸国の間の歴史問題は、主に近現代史をめぐる解釈の相違に由来する。
*2: このような問題意識からの研究として代表的なものに、船橋洋一編『いま、歴史問題にどう取り組むか』(岩波書店、2001年)、小菅信子『戦後和解: 日本は〈過去〉から解き放たれるのか』(中公新書、2005年)、荒井信一『歴史和解は可能か: 東アジアでの対話を求めて』(岩波書店、2006年)、Thomas U. Berger, “The Politics of Memory in Japanese Foreign Relations," in Thomas U. Berger, Mike M. Mochizuki and Jitsuo Tsuchiyama(eds.),Japan in International Politics: The Foreign Politics of an Adaptive State(Boulder, Colorado: Lynne Rienner, 2007)、村上陽一郎、千葉眞編『平和と和解のグランドデザイン: 東アジアにおける共生を求めて』(風行社、2009年)、黒沢文貴、イアン・ニッシュ編『歴史と和解』(東京大学出版会、2011年)、菅英輝編『東アジアの歴史摩擦と和解可能性: 冷戦後の国際秩序と歴史認識をめぐる諸問題』(凱風社、2011年)、金美景、B・シュウォルツ編、千葉眞監修、稲正樹、福岡和哉、寺田麻佑訳『北東アジアの歴史と記憶』(勁草書房、2014年)、五百旗頭薫、小宮一夫、細谷雄一、宮城大蔵、東京財団政治外交検証研究会編『戦後日本の歴史認識』(東京大学出版会、2017年)など。
*3: 例えば、G・ジョン・アイケンベリー著、鈴木康雄訳『アフター・ヴィクトリー: 戦後構築の論理と行動』(NTT出版、2004年)。
*4: Jennifer Lind, Sorry States: Apologies in International Politics(Ithaka, N.Y.: Cornell University Press, 2008);Yinan He, The Search for Reconciliation: Sino-Japanese and German-Polish Relations since World War II(Cambridge: Cambridge University Press, 2009)、福島啓之「戦後日本の関係修復外交と近隣諸国の対日認識: 援助、謝罪とナショナリズム」(『国際政治』第170号、2012年10月)など。
*5: 小菅信子「記憶の歴史化と和解」黒沢文貴、イアン・ニッシュ編、前掲書、88頁。
*6: 日中・日韓間の歴史共同研究の概要、およびその成果については、日本外務省のウェブページを参照(2018年11月4日確認)。日中: https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/rekishi_kk.html 日韓: https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/korea/rekishi/index.html
*7: 日本国内における歴史認識をめぐる論争について、その論点とアクターをまとめたものとしては、吉田裕『日本人の戦争観: 戦後史のなかの変容』(岩波書店、2005年)、若宮啓文『和解とナショナリズム: 新版・戦後保守のアジア観』(朝日新聞社、2006年)、波多野澄雄『国家と歴史: 戦後日本の歴史問題』(中公新書、2011年)など。
*8: 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論』(小学館、2000年)。
*9: 小林よしのり「わしの『台湾論』が投げかけた波紋」(『正論』通号345、2001年5月)。
*10: 婦女救援基金会編『台湾慰安婦報告』(台北: 台湾商務、1999年)、朱徳蘭『台湾総督府と慰安婦』(明石書店、2005年)。
*11: 加藤邦彦『一視同仁の果て: 台湾人元軍属の境遇』(勁草書房、1979年)。その後、台湾人兵士・軍属に対しては、1987年に弔慰金の支給が議員立法で制定された。蔡慧玉「台湾民間対日索賠運動初探: 『潘拉之箱』」(『台湾史研究』第3巻第1期、1996年6月)。元台湾籍日本兵達の発言を多数収録したものに、周婉窈主編『台籍日本兵座談会記録并相関資料』(台北: 中央研究院台湾史研究所籌備処、1997年)。国会で立法に携わった政治家の回想として、有馬元治『有馬元治回顧録 第1巻』(太平洋総合研究所、1998年)。
*12: 加藤邦彦、前掲書、231-240頁。
*13: 松田康博「台湾の民主化と新たな日台関係の模索: 一九八八―九四年」(川島真・清水麗・松田康博・楊永明『日台関係史1945-2008』東京大学出版会、2009年)167頁。
*14: 例えば、東アジア文史哲ネットワーク編『〈小林よしのり『台湾論』〉を超えて: 台湾への新しい視座』(作品社、2001年)。
*15: 李登輝『台湾の主張』(PHP研究所、1999年)138頁。
*16: 司馬遼太郎『台湾紀行 街道をゆく40』(文芸春秋、1997年)。
*17: 本田善彦『台湾総統列伝』(中央公論新社、2004年)166頁。
*18: 実際、馬訪日からまもなく、対立候補である民進党の謝長廷も訪日し、馬英九との間で「親日度競争」を繰り広げたという。近藤伸二『反中vs.親中の台湾』(光文社、2008年)176-183頁。
*19: 例えば、前出の小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論』の他、黄文雄『韓国人の「反日」台湾人の「親日」: 朝鮮総督府と台湾総督府』(光文社、1999年)など。
*20: 若林正丈『台湾の台湾語人・中国語人・日本語人: 台湾人の夢と現実』(朝日新聞社、1997年)、森宣雄『台湾/日本: 連鎖するコロニアリズム』(インパクト出版会、2001年)、何義麟『跨越国境線: 近代台湾去殖民化之歴程』(板橋: 稲郷出版社、2007年)。
*21: 哈日杏子著、小島早依訳『哈日杏子のニッポン中毒: 日本にハマった台湾人トーキョー熱烈滞在記』(小学館、2001年)。
*22: 三澤真美恵「『戦後』台湾での日本映画見本市: 一九六〇年の熱狂と批判」(坂野徹・愼蒼健編著『帝国の視角/死角: 〈昭和期〉日本の知とメディア』青弓社、2010年)235頁(注8)。
*23: 何義麟、前掲書、220頁。
*24: 太田修『日韓交渉: 請求権問題の研究』(クレイン、2003年)、木村幹『民主化の韓国政治: 朴正煕と野党政治家達1961-1979』(名古屋大学出版会、2008年)など。崔吉城は、戦後韓国は国民国家成立のために反共と反日を必要としたと指摘し、それは日本そのものの問題より韓国内部の事情から出たものであったと述べている。崔吉城『「親日」と「反日」の文化人類学』(明石書店、2002年)14、63頁。
*25: 王育徳『台湾海峡』(日中出版、1987年)136-137頁。
*26: 王育徳『台湾海峡』(日中出版、1987年)136-137頁。
*27: 李衣雲『台湾における「日本」イメージの変化、1945-2003: 「哈日(ハーリ)現象」の展開について』(三元社、2017年)。
*28: 林初梅『「郷土」としての台湾: 郷土教育の展開にみるアイデンティティの変容』(東信堂、2009年)。
*29: 洪郁如「理解と和解の間: 「親日台湾」と歴史記憶」『言語文化』50、2013年。
*30: 蔡易達「『台湾を知る』(『認識台湾』)日本語版刊行にあたって」(国立編訳館主編、蔡易達・永山英樹訳『台湾国民中学歴史教科書: 台湾を知る』雄山閣出版、2000年)iv頁。
*31: 呉密察、張炎憲等著『建立台湾的国民国家』(台北: 前衛出版社、1993年)、黄英哲『「去日本化」「再中国化」: 戦後台湾文化重建設(1945-1947)』(台北: 麥田、城邦文化出版、2007年)、菅野敦志『台湾の国家と文化: 「脱日本化」・「中国化」・「本土化」』(勁草書房、2011年)。
*32: 「脱日本化」の必要性から、介石政権期に「反日教育」が行われたと記しているものとして、蔡焜燦『台湾人と日本精神: 日本人よ胸を張りなさい』(日本教文社、2000年)178-179頁。
*33: 大久保伝蔵『忘れてはならぬ歴史の一頁: 徳をもって怨に酬ゆる』(時事通信社、1969年)、灘尾弘吉「銘記したい介石氏の『以徳報怨』」(林金莖『梅と桜戦後の日華関係』サンケイ出版、1984年)、賀屋興宣『戦前・戦後八十年』(経済往来社、1976年)、岸信介、矢次一夫、伊藤隆『岸信介の回想』(文藝春秋社、1981年)。
*34: 貴船八郎「介石総統と日本人」(『自由』第28号、1986年6月)。横浜市西区の伊勢山皇大神宮神社内に建立された介石を顕彰する石碑には、の一連の施策により「今日の日本が存在し発展があるわけでありますがこれらの恩顧は私たち日本国民にとって終生永遠に忘れることは出来ません」と記されている。
*35: (1)について、竹前栄治によれば、米国では中華民国政府が天皇制廃止に賛成だと認識されていた。竹前栄治『占領戦後史』(岩波書店、2002年)61頁。(3)については、石井明が、中華民国政府は当初派兵の意向だったが、国共内戦の激化により中止したことを指摘している。石井明「中国の対日占領政策」(『国際政治』第85号、1987年5月)。(4)については、石井明や殷燕軍が、戦後初期の中華民国政府は対日賠償請求を行う方針だったことを明らかにしている。石井明「中国に負った無限の賠償」(『中央公論』1987年8月)、殷燕軍『中日戦争賠償問題: 中国国民政府の戦時・戦後対日政策を中心に』(お茶の水書房、1996年)。
*36: 徐叡美『製作「友達」: 戦後台湾電影中的日本(1950s―1960s)』(台北: 稲郷出版社、2012年)。
*37: 川島真「戦後初期日本の制度的『脱植民地化』と歴史認識問題: 台湾を中心に」(永原陽子編『「植民地責任」論』青木書店、2009年)は、「帝国の学知」の脱帝国化の問題とからめて、1950-70年代の日本における台湾研究を整理しているが、政治問題化の有無には言及していない。また、台湾における日本の「記憶」に焦点を合わせた研究は、2000年代に入ってから多くの成果が出されているが、それらは主に植民地統治時代に関する台湾社会の集合的な記憶を対象としており、中華民国政府による記憶をめぐる政治外交を分析の対象にしたものではない。呉密察・黄英哲・垂水千恵編『記憶する台湾: 帝国との相克』(東京大学出版会、2005年)、五十嵐真子・三尾裕子編『戦後台湾における〈日本〉: 植民地経験の連続・変貌・利用』(風響社、2006年)、植野弘子・三尾裕子編『台湾における〈植民地〉経験: 日本認識の生成・変容・断絶』(風響社、2011年)、所澤潤・林初梅編『台湾のなかの日本記憶: 戦後の「再会」による新たなイメージの構築』(三元社、2016年)など。
*38: 戦後日本と台湾の関係には、日本と中華民国間の関係としての日華関係と、日本と台湾の間の関係としての日台関係という二重の関係性があったことが、多くの研究者によって指摘されている。例えば、清水麗『戦後日中台関係とその政治力学: 台湾をめぐる国際関係』(筑波大学大学院国際政治経済学研究科博士学位論文、2002年)242頁、川島真「日華・日台二重関係の形成: 一九四五―四九年」川島他編、前掲書、13-37頁。
*39: 若林正丈によれば、国民党政権による上からの「中国化」政策は、1950年代にはまだ表面に現れるような成果は見られなかったが、60年代に入り、制度的同化の成果が感じられるようになったという。若林正丈『台湾: 変容し躊躇するアイデンティティ』(筑摩書房、2006年)109-113頁。
*40: 1970年代に入ると、経国の主導により、中央・国政レベルで一部本省人エリートが登用され始める。同上書、123-129頁。
*41: Berger, op. cit., p. 181.
*42: 知識社会学は、「知識」の究極的な妥当性/非妥当性に関係なく、何であれ社会において「知識」として通用するものについてはその経験的な多様性を研究対象とし、さらにいかなる「知識」体系であれ、それがどのようにして人々から自明視される「現実」として社会的に確立されるに至るかを問題にする学問である。P・L・バーガー=T・ルックマン著、山口節郎訳『日常世界の構成: アイデンティティと社会の弁証法』(新曜社、1977年)5頁。
*43: 三浦陽一「サンフランシスコ体制論」(吉田裕編『日本の時代史26 戦後改革と逆コース』吉川弘文館、2004年)、進藤榮一「東アジア冷戦構造のなかの日本」(歴史学研究会編、日本史研究会編『日本史講座8 戦後日本論』東京大学出版会、2005年)、白井聡『永続敗戦論: 戦後日本の核心』(大田出版、2013年)など。
*44: 例えば、陳光興『去帝国: 亜洲作為方法』(台北: 行人、2006年)310-311頁。
*45: カール・マンハイム(Karl Mannheim)によれば、元来は観念についての学問という意味しか持っていなかった「イデオロギー」という言葉にこうした否定的な意味合いが付与されたのは、ナポレオンが彼の専制主義的野心を攻撃した一群の学者を「イデオローグ(空論家ども)」と批判したことに由来するという。カール・マンハイム著、高橋徹・徳永恂訳『イデオロギーとユートピア』(中央公論新社、2006年)138頁。
*46: C.ギアーツ著、吉田禎吾ほか訳『文化の解釈学II』(岩波現代選書、1987年)42頁。
*47: Michael Freeden, Ideologies and Political Theory: A Conceptual Approach(Oxford: Oxford University Press, 1996).
*48: 赤川学『構築主義を再構築する』(勁草書房、2006年)37頁。
*49: ベネディクト・アンダーソン著、白石さや・白石隆訳『増補 想像の共同体: ナショナリズムの起源と流行』(NTT出版、1993年)323頁。
*50: 同上書、332-334頁。
*51: 同上書、329頁。
*52: ピエール・ノラ著、長井伸仁訳「序論 記憶と歴史のはざまに」(ピエール・ノラ編、谷川稔監訳『記憶の場: フランス国民意識の文化=社会史 1対立』岩波書店、2002年)33頁。
*53: 同上書、30頁。
*54: 同上。
*55: ジョン・ボドナー著、野村達朗ほか訳『鎮魂と祝祭のアメリカ』(青木書店、1997年)29-30頁。
*56: 同上書、38頁。
*57: ポール・リクール著、久米博訳『記憶・歴史・忘却(上)』(新曜社、2004年)143頁。
*58: 同上書、142頁。
*59: Alon Confino, “Collective Memory and Cultural History: Problems of Method," American Historical Review, vol. 102, Issue 5, Dec 1997, pp. 1401-1402.
*60: 野家啓一『歴史を哲学する: 七日間の集中講義』(岩波書店、2016年)124-125頁。
*61: Hayden White, The Content of the Form: Narrative Discourse and Historical Representation(Baltimore: Johns Hopkins University Press, 1987),pp. 20-21.
*62: P・L・バーガー=T・ルックマン、前掲書、65-66頁。
*63: Sandra Jovchelovitch, “Narrative, Memory and Social Representations: A Conversation Between History and Social Psychology," Integrative Psychological&Behavioral Science, Vol. 46, Issue 4, Dec, 2012, pp. 440-456.
*64: 〈起源の物語〉という概念は、五十嵐惠邦の研究から示唆を受けた。〈起源の物語〉とは、ある社会が戦争などの大変動を経験した後、それによって生じた緊張状態を合理化するために編み出され、変動後の社会に関する人々の解釈をも規定するような機能を有した「物語」のことを指している。五十嵐は、戦後日米関係の〈起源の物語〉は、「男」役のアメリカが、原爆の威力をかりて「女」役の日本を救い出し、回心させるというものであったと指摘する。原爆が投下されたことで、昭和天皇という「偉大な自由主義者」の精神が揺り動かされ、「聖断」が決断された。この「物語」は、日本の敗戦を戦略的に必要なものであったとし、戦後日本の繁栄は、日本を完全な破壊から救った「聖断」のおかげであったという教訓を引き出すことで、敵対関係にあった日米両国が同盟関係を構築するという劇的な変化を理解可能なものにしたのである。他方、戦前に「男」と「女」の役を演じていたのは日本とアジア諸国であったが、戦後の新しいドラマの中では、アメリカが日本に取って代り、日本はアジア諸国の役を引継ぎ、そしてアジアは締め出されたのであった。五十嵐惠邦『敗戦の記憶: 身体・文化・物語 1945-1970』(中央公論新社、2007年)31-74頁。
- ア行
- アジア人民反共会議 206, 207, 209
- 以徳報怨 15, 16, 57, 69, 94, 104, 108, 112, 129, 134, 151, 197, 208, 218, 219, 224, 229, 276, 291, 297-303, 306, 309, 321, 323, 325, 329, 348, 349
- カ行
- 戒厳令 80, 125, 288, 294
- 外交部 11, 26, 49, 130, 134, 135, 139, 153, 257, 269, 292
- 外省人 12, 13, 17, 58, 101, 106, 108, 125-128, 204, 287, 288, 308, 328, 354
- 『解放日報』 42, 52, 63
- カイロ会談 15, 40, 216, 226
- カイロ宣言 130, 131, 135, 206
- 漢奸 94, 100, 188, 191, 192, 193, 297
- 韓国併合条約 13, 205
- 27-29, 69, 70, 79, 112, 219, 220, 223-225, 227, 228, 276, 290, 300, 303, 306, 323, 330, 347, 348
- 教育処→台湾省行政長官公署教育処 81
- 教育部 263, 272
- 行政院 26, 95
- ―内政部 125
- 行政長官公署→台湾省行政長官公署 78-81, 92-93, 95, 98-101, 106-109, 111, 112, 248
- 郷土文学 327
- 極東委員会 49, 53, 56, 134, 135
- 警備総司令部 92, 99, 100, 125, 126, 248
- 抗戦勝利告全国軍民及全世界人士書 15, 43
- 公的記憶 18, 20, 23-25, 28, 29, 185, 287, 289, 303, 304, 307, 309, 322, 328, 329, 330, 346, 351, 352, 353, 354
- 抗日運動 199, 288, 289, 326, 331
- 抗日戦争 13, 27, 41, 63, 143, 145, 188, 198, 249, 250, 307, 315, 316, 323, 324, 326, 328-330, 332, 353
- 黄埔系 81
- 皇民化 78, 83, 194, 242, 243, 246-248, 251, 329, 350
- 『公論報』 127, 149, 151, 201, 213-215, 224, 287
- 国防最高委員会 40, 42, 250
- 国防部 145, 307
- 国民党 12, 20, 26, 40, 41, 80, 81, 126, 170, 191, 211, 216, 222, 297, 325, 349, 363
- ―中央委員会 26, 225, 257
- ―中央委員会第四組 126, 186, 292
- ―中央改造委員会 186, 259
- ―中央(委員会)常務委員会 186, 257, 275
- ―中央宣伝部 80, 81, 126
- 国共内戦 55, 60, 62, 68, 70, 113, 124, 189, 226, 241, 349, 351
- サ行
- 再中国化 78, 242, 244, 248, 350, 351
- サンフランシスコ講和会議 140, 142, 146, 151, 159, 166
- サンフランシスコ平和条約 19, 123, 142, 153, 155-163, 166, 206
- CC派 129
- 渋谷事件 102-107, 111, 112, 113
- 重慶精神 324, 325, 328
- 集合的記憶 17, 23, 288, 353, 354
- 従属理論 306
- 『自由中国』 126, 127, 147, 150-152, 169, 209, 287, 305, 308
- 出版法 80, 125, 126
- 『蒋介石秘録』 325
- 省籍矛盾 12, 79, 107, 113, 243, 297
- 『自立晩報』 128, 150, 169, 201, 202, 223, 224
- 『人民導報』 81, 94-96, 98, 107
- 『人民日報』 42
- 政学系 81
- 『政経報』 81, 86, 91, 95
- 西来庵事件 95, 326
- 赤色の毒 255, 256, 259
- 尖閣諸島 12, 288, 301, 302
- 宣伝委員会 80
- 『宣伝週報』 186, 192, 200, 204, 217, 258, 259, 290, 298
- 族群 125, 328
- タ行
- 『大公報』 42, 51, 62
- 対日講和七原則 132
- 対日理事会 53, 57
- 台北精神 328
- 第四次日中民間貿易協定 223, 225
- 大陸反攻 130, 149, 221, 295-297, 304, 315
- 台湾警備総司令 77
- 台湾光復慶祝大会 88
- 台湾省行政長官公署 77, 80, 194, 277
- ―教育処 194
- 台湾省政府 109, 256, 277
- 台湾省前進指揮所 86
- 『台湾新生報』 80, 88, 92, 93, 95, 96, 102, 103, 105-107, 109, 111, 113, 124, 127, 245, 247, 249, 253
- 『台湾新報』 80, 83, 88
- 台湾総督府 80, 83, 87, 89
- 台湾中立化宣言 130, 166
- 台湾ナショナリズム 288
- 脱植民地化 78, 79, 113, 185, 277
- 脱日本化 78, 243, 244, 248, 260, 263, 278, 290, 351
- ダレス・モリソン了解 139, 140, 145, 146
- 『中央日報』 26, 39, 40, 41, 48, 124, 143, 144, 146, 163, 187, 193, 215, 252, 269, 275, 293, 301, 305, 315, 325, 326, 329
- 『中華雑誌』 302
- 中華民族 13, 69, 109, 111, 188, 191, 193, 198, 203, 229, 258
- 『中華日報』 81
- 中国青年党 80, 127
- 中国ナショナリズム 288
- 『中国白書』 68, 190
- 中国民主社会党 127
- 中国民主党 287
- 中ソ対立 191, 304, 350
- 中日合作策進委員会 269
- 中日文化経済協会 215, 259, 260, 262, 266
- 朝鮮戦争 130, 190, 206, 220
- 同文同種 254, 266, 278
- 東方文化 260-264, 266, 273, 275, 278, 322, 325, 351
- ナ行
- 「内戦の国際化」 189, 190, 201, 221, 228, 304, 349-351
- 南京事件 197, 324
- 日華協力委員会 226, 269-271, 273, 275, 294, 302
- 日華平和条約 26, 28, 123, 164, 166, 204, 215, 229, 260, 278, 310-312, 315-318, 320-323, 332, 347, 348
- 日韓基本条約 348
- 日清戦争 192, 194, 196, 199, 254, 357
- 日中共同声明 320
- 日中国交正常化 28, 312, 313, 315, 330
- 日中戦争 14, 145, 193, 195, 196, 228, 229, 292, 307, 319, 323, 325, 330, 345, 354, 356, 357
- 二二八事件 58, 78, 107, 111, 124, 243, 249, 277, 329
- 日本文化 15, 28, 242-244, 248-251, 256, 261, 264, 276-279, 290, 322, 350
- ハ行
- 賠償 54, 132-134, 137, 149, 226, 310-312, 317, 345
- 白色テロ 125, 329
- 8月15日演説 46-48, 50-52, 60-62, 64, 65, 69, 70, 79, 83, 84, 93, 107, 110, 112, 144, 145, 185, 241, 346, 347, 351, 359, 361
- 哈日族 17
- 反共抗ソ 143, 145, 148, 254, 255, 256, 259, 263
- 「反米扶日」運動 62, 63, 66, 70, 144
- 引揚者 96
- 文化合作 245, 263-265, 271, 273, 276, 322
- 文化触変 262
- 『文星』 287, 305, 308
- 米華相互防衛条約 207, 221
- ポツダム宣言 39, 42, 46, 65, 135
- 本省人 12-14, 101, 106, 108, 128, 204, 242, 287, 288, 308, 328, 353, 354, 363
- マ行
- 満洲事変 49, 137, 143, 150, 195, 290, 295, 316
- 『民主中国』 127, 148, 150, 152, 208
- 『民主潮』 127, 150, 223
- 『民報』 81, 93, 94, 106, 107
- ヤ行
- 吉田書簡 142, 153, 349
- 四六事件 125
- ラ行
- 立法院 20, 26, 126, 129, 162, 164, 168, 207, 288
- 留用者 91, 98, 100-102, 105, 111, 112
- 歴史教科書 15, 186, 193, 196, 198, 229, 288, 303, 324, 350
- 歴史問題 9-13, 16-19, 29, 171, 345, 346, 351-354, 360
- 歴史和解 9, 17, 19, 20, 353, 358, 362
- 盧溝橋事件 42, 95, 187, 195, 315, 324
- ワ行
- 和解の儀式 331, 332
- 『和平日報』 81, 103, 106, 107
- ア行
- アイゼンハワー, ドワイト 221
- 朝海浩一郎 49
- 芦田均 58, 59
- 足立正 227
- アチソン, ディーン 55, 129
- アチソン, ジョージ 57
- 井口貞夫 268, 270
- 池田敏雄 85, 93
- 池田勇人 274, 290, 292, 294, 300
- 諌山春樹 82
- 石井光次郎 266
- 石橋内蔵助 85
- 石原莞爾 51, 82
- 石母田武 47
- 伊藤正 83
- 犬養健 151
- 今井武夫 47, 48
- 岩佐直則 103
- 于衡 305
- 後宮虎郎 308
- 宇野哲人 263
- 江藤淳 355
- 王育徳 13
- 王暁波 302
- 汪公紀 268
- 王淑銘 297
- 王順 302
- 王世杰 54, 58, 61, 65, 131-133, 135, 153
- 王拓 327
- 汪兆銘 82, 193, 350
- 王白淵 81, 97, 98
- 王撫洲 268
- 大久保弘一 82
- 大久保伝蔵 356
- 大野伴睦 218, 295, 298, 348
- 大平正芳 298, 310, 320
- 岡崎勝男 142, 349
- 岡崎嘉平太 148
- 緒方竹虎 261, 278
- 岡村寧次 47, 60, 90, 146, 148
- カ行
- 何応欽 46, 50, 145, 146, 260, 266, 268, 307, 315
- 柯遠芬 92, 248
- 何世礼 136, 139
- 夏濤聲 80
- 郭国基 287
- 春日由三 266
- 片山哲 60
- 葛敬恩 86, 99
- 上砂勝七 85
- 賀屋興宣 299
- 河田烈 142, 154-157, 160, 164, 216
- 簡志信 308
- 簡朗山 100
- 魏廷朝 287
- 姫鵬飛 316, 317
- 魏道明 109, 124, 125, 127
- 岸信介 218, 223, 270, 294, 348
- キッシンジャー, ヘンリー 309
- 木村四郎七 153, 158, 162
- 邱永漢 210
- 丘念台 100
- 許寿裳 249
- 許世英 59
- 許曹徳 82
- 許丙 100
- 瞿絡 99
- 久保田貫一郎 171, 206
- 黒金泰美 299
- ケナン, ジョージ 54
- ケネディ, ジョン・F 292, 295
- 顧維欽 129-132, 134, 137-142
- 胡慶育 132, 135, 141, 158
- 胡健中 207
- 胡秋原 66
- 呉鴻森 103
- 呉国禎 135
- 呉三連 287
- 呉俊昇 268
- 呉新栄 82
- 辜振甫 100
- 顧培根 128
- 呉濁流 82
- 胡適 126, 210, 211
- 胡光泰 268
- 黄季陸 257
- 高玉樹 287
- 黄再寿 100
- 江杓 268
- 黄春明 13
- 黄少谷 131, 132, 135
- 黄雪邨 308
- 黄朝琴 103, 260, 268
- 康寧祥 288, 326
- 高良佐 249
- 谷正綱 226, 227, 268
- サ行
- 蔡英文 12
- 斉世英 129, 260
- 蔡培火 103
- 佐藤栄作 300, 301, 310
- 椎名悦三郎 313, 330
- 塩谷温 227
- 塩見俊二 89, 93, 96, 101, 104
- 重光葵 51
- 司馬遼太郎 11
- 渋沢敬三 148
- 清水董三 211-214
- 謝娥 103
- 謝雪紅 81
- 謝然之 292
- 謝聡敏 287
- 朱世明 57, 58, 59, 60
- 朱徳 46, 191
- 周恩来 62, 221, 309, 310, 316, 317, 320
- 周鴻慶 274, 275, 290, 293, 308
- 周宏濤 131
- 周樹聲 167
- 徐坤泉 100
- 邵毓麟 90, 260
- 渭川 103
- 鍾逸人 82
- 蒋介石 14-16, 26, 27, 40-42, 46, 64, 69, 79, 82, 96, 107, 131, 136, 139, 141, 153, 163, 187-189, 199, 200, 207, 208, 218, 224, 226, 229, 244, 250, 253, 255, 261, 268, 287, 295, 296, 304, 307, 325, 346-348, 351, 356, 359, 361
- 蒋経国 217, 288, 289, 301, 303, 313-315, 326, 330
- 昭和天皇 215-217, 300, 319, 348
- ジョンソン, アレクシス 297
- 沈覲鼎 267
- 沈昌煥 268, 273
- スターリン, ヨシフ 220, 304
- 詹天馬 100
- 蘇新 81, 91
- 宋越倫 276
- 宋斐如 81
- 宋美齢 359
- 孫鐵齊 150
- 孫文 143, 144, 163, 170, 191, 192, 254
- タ行
- 高橋亀吉 266
- 竹入義勝 310, 312
- 辰野高 98
- 立石鐵臣 86
- 田中角栄 310, 312, 319, 320, 323, 325
- 種田鉄馬 266
- ダレス, ジョン・フォスター 129, 130, 132, 137, 138, 139, 140, 141, 142, 357
- 趙安博 311
- 張其昀 263, 266, 268, 276, 306, 361
- 張群 67, 110, 131, 135, 146, 153, 161, 167, 215-217, 252, 259, 260, 262, 268, 274, 295
- 張道藩 168, 225
- 張伯謹 268
- 張厲生 132, 294
- 陳逸松 82, 86
- 陳旺成 94
- 陳儀 78, 80, 88, 96, 101, 107-109, 124, 194
- 陳 100
- 陳水扁 12
- 陳誠 125, 131, 132, 135, 164, 165, 208, 217, 227, 259, 268, 299
- 陳雪屏 268
- 陳博生 59
- 陳布雷 40
- 程潜 50
- 湯恩伯 147, 148
- 陶希聖 132, 135, 259
- 唐景崧 194
- 董顕光 138, 357
- 鄧志雲 152
- トルーマン, ハリー 55, 130, 166, 189
- ナ行
- 永井陽之介 311
- 中江要介 312, 322
- 成田一郎 83
- 南懐瑾 306
- ニクソン, リチャード 301, 309
- 根本博 227
- ネルー, ジャワハルラール 221
- ハ行
- バーンズ, ジェームズ 54
- 白崇禧 108
- 橋本恕 318
- 橋本文男 266
- 長谷川清 227
- 鳩山一郎 151, 222
- 速水國彦 102, 103
- 馬英九 12, 302
- 馬石痴 94, 97
- 藤山愛一郎 148, 207, 268, 311
- 船田中 295, 298
- フルシチョフ, ニキータ 304
- 方治 260
- 彭徳懐 46
- 彭明敏 287
- 彭孟緝 127
- ボートン, ヒュー 56
- ポーレー, エドウィン 53
- 細川隆元 266
- 堀越禎三 266, 302
- 堀内次雄 104
- マ行
- マーシャル, ジョージ 55
- 前田多門 210, 263, 278
- 松岡駒吉 266
- マッカーサー, ダグラス 56, 59, 61
- 松木虎太 104
- マレンコフ, ゲオルギー 220
- 三木武夫 310
- 御手洗辰雄 270
- 宮田重雄 266
- 毛沢東 63, 191, 193, 350
- モリソン, ハーバート 138
- 森田一 319
- モロトフ, ヴャチェスラフ 54
- ヤ行
- 安岡正篤 148
- 矢次一夫 266, 268, 302, 309
- 矢部貞治 266
- 兪鴻鈞 207
- 楊雲竹 49, 268
- 葉栄鐘 82
- 葉公超 130-132, 134, 135, 139, 140, 153, 154, 156, 157, 160, 161, 167, 225, 267
- 芳澤謙吉 208, 216, 217, 227
- 吉田茂 51, 136, 138, 142, 151, 153, 167, 216, 294, 298, 300, 348, 357
- 余蒼白 151
- ラ行
- 雷震 126, 260, 287, 308
- ラスク, ディーン 139
- ラティモア, オーウェン 54
- 羅萬俥 268
- ランキン, カール 139-141
- 李惟果 134
- 李玉階 128
- 李光輝(中村輝夫) 327
- 李承晩 205, 206, 208, 224, 225
- 李聲庭 308
- 李登輝 11
- 李万居 81, 127, 214, 287
- 劉永福 194
- 劉泗英 150
- 廖承志 311
- 梁西岩 148
- 廖文毅 92, 210, 296
- 林献堂 79, 82, 85, 88, 97, 108
- 林語堂 252
- 林茂生 81, 94, 107
- 林熊祥 100
- 林熊徴 100
- ルーズベルト, フランクリン 40