現代中国は何を失ったか

陳立行
書影『現代中国は何を失ったか』

混迷する世界情勢のなかで果たすべき役割の多い中国。その中国の迷走を止め、中国社会を正道に復帰させるための力作である。(2022.9.20)

定価 (本体2,000円 + 税)

ISBN978-4-87791-318-2 C3031 201頁

著者紹介

[著者略歴]

陳立行(LIXing Chen) 性別:女性

  • 1953年 中国吉林省長春市に生まれる
  • 1968年 内モンゴルに知識青年として下放され、英語の独学を始めた
  • 1978年 大学入試復活、東北師範大学外国語学部英文専攻に入学
  • 1982年 中国教育部国費派遣大学院留学生に合格
  • 1983年10月 来日、1984年4月筑波大学大学院社会科学研究科社会学専攻に入学
  • 1990年3月 筑波大学にて、社会学博士学位を取得
  • 1991年4月―1995年3月 国際連合地域開発センター(UNCRD)、国連研究員
  • 1995年4月―2010年3月 日本福祉大学、助教授、教授(米国カリフォルニア大学・バークレー校客員研究員2002-2003年)
  • 2010年4月―2022年3月 関西学院大学、社会学部、教授
  • 2022年3月 関西学院大学社会学部、社会学研究科、教授、定年退職

[単著]

  • 『中国の都市空間と社会的ネットワーク』国際書院、東京、1994
  • 『现代中国失去了什么?』 Global China Press, London,2015

[編著]

  • 『向社会福祉跨超』、中国社会科学文献出版社、北京、2007(中国語)
  • 『転換期中国における社会保障と社会福祉』、明石書店、東京、2008
  • 『地震災害・救援・復興的中日比較研究』、吉林文史出版社、長春、2014(中国語)

まえがき

本書を強く推薦する

駒井洋

はじめに

わたしが本書の著者陳立行さんとはじめて出会ったのは、1983年の10月であった。陳さんは中国政府が派遣する海外大学院留学生の第2期生として、わたしに指導教官となることを求めてきた。わたしは幼少期を大連ですごしたので、長春出身の陳さんとは中国東北地方の同郷人ということになる。それもあって喜んで承諾し、陳さんは1984年4月に筑波大学大学院社会科学研究科社会学専攻に入学した。当時陳さんは31歳であったが、はじめて研究室に現れたときには、お下げ髪でリンゴのような赤い頬をした少女そのものであった。

陳さんは1990年に学位論文を提出して博士号を得、その翌年に名古屋の国連地域開発センターの研究員の職についた。そののち日本福祉大学助教授を経て関西学院大学教授となり、現在に至っている。この間、わたしは陳さんの論文や随筆などを読んだことはあったが、まとまった著作は目にしたことがなかった。

ところが、2020年に陳さんが本書の英訳版をわたしに贈ってくれた。一読してその出来栄えのすばらしさに感嘆した。30年あまりの間に、陳さんの学問が驚くべき成長をとげていたことはわたしにはとてもうれしかった。そののち陳さんは、本書の日本語の原稿をわたしに送ってきたので、わたしは日本語の表現について全体にわたりコメントした。

本書のねらいと方法

本書は、奈落への道を転落していく中国についての憂国の書である。著者の夫と二人の子どもは日本国籍を取得したが、著者は中国国籍を保持しつづけている。それは、中華文化がその本来の姿に立ち返れば、世界全体に大きな貢献をもたらすという確信を著者が持っているからである。著者が帰属しているのは現在の堕落した中国ではなく、輝かしい文化を誇る過去の中国と、栄光に満ちたきたるべき中国である。したがって、本書は、現代中国がいかに退廃しているかを子細に検討し、それに対抗しうる方途を提案することをねらいとしている。

本書では、著者が長く生活してきた日本と長期滞在したことのあるアメリカを中心に、旅行したことのあるその他40カ国と地域からの材料をもとに分析がなされている。新聞やテレビ番組とともに、自分や友人とともに自分の子どもの経験からの情報が大きな比重を占めていることが、本書の顕著な特徴となっている。本書の持つ説得力は、この直接経験の重視によるところが大きいと思われる。

本書では、まず中国人の価値意識や行動様式が提示され、それを日本人や西洋人と比較して憂慮するという比較方法が多く採用されている。著者が強い衝撃を受けた例を紹介すると、2011年に起きた2歳の女の子「悦悦ちゃんの交通事故」がある。車にはねられた悦悦ちゃんが道路に横たわっているのに、通りすぎた18人の通行人は見て見ないふりをして救助しようとせず、やっと19人目の通行人が助けたというものである。救助が早かったら命が助かったかもしれない悦悦ちゃんは、数日後病院で死んだ。この事故については、日本の電車のなかでの急患が乗客の協力によりスムーズに救急車で搬送された例と、アメリカの交通事故での着実な救助の例が参照され、人間性を喪失した中国人の価値意識が批判されている(第5章第2節)。

ただし、日本の価値意識が無条件に賛美されているわけではない。日本の集団主義的文化にあっては、上下関係の意識が強く平等も自由も真の意味では存在しない。これにたいして、西洋については狩猟的生産様式から生まれた「弱肉強食」の跋扈を抑制するために三権分立の政治体制が形成され、西洋では機能していると評価されるものの、中国への導入は難しいとされる。それは中国民衆の理性的思惟と責任意識が未成熟だからである。

中国の退廃を食い止めるために、著者は儒教的価値意識の復権を強く求めている。儒教文化の基本的な倫理的概念としては、「仁」すなわち慈悲と人間愛、「義」すなわち公正と正義、「礼」すなわち適切な振る舞いと礼儀、「智」すなわち知識と知恵、「信」すなわち真実と一貫性があげられる。そればかりでなく、同情、親切、正直、他人にたいする尊敬、責任感などのその他の諸価値も筆者は普遍的であると考えている。儒教的価値意識は単に中国人を救済するばかりでなく、人類全体にも積極的に貢献できると著者は主張する。

ディアスポラ中国知識人の存在意義

最後に、わたしは中国変革の主体としてのディアスポラ中国知識人の重要性を強調したい。中国本土の持つ社会経済的および文化的圧力があまりに強すぎるために、それを相対化しそれから脱却することはきわめて困難である。それにたいして、ディアスポラ中国知識人は、ディアスポラとならざるをえなかったために、現代中国文化の持つ悲惨な堕落を現住地の状況と比較しながら理論化することができる。実際、著者の生い立ちから本書の執筆までのライフヒストリーは、このような思想的発展を如実に示している。

国父孫文は、日本、ハワイ、ペナンを彷徨しながら中華民国革命の指導者となったが、それは本書の著者の生きた先例である。

現在の混迷する世界情勢のなかでの中国の迷走を阻止し、中国社会を正道に復帰させるために、真の意味でラディカルである本書はまさに時宜を得たものであり、わたしは強く推薦する。

日本語版への序文

この本の構想は、2008年の春から始まった。オリンピックの聖火リレーを巡って、中国人の高揚した愛国の熱狂を見て、私は深い憂慮に陥った。刻々と変化する情報社会と複雑に錯綜する国際社会に直面して、強烈な愛国的情熱はよく現れるが、一大国の国民として科学的理性的思惟を尊重することは一層重要なことである。民衆の強烈な愛国的情熱は、ある突発的事件をきっかけに短時間で巨大な行動力に変わる可能性を持っている。しかし、このような行動力は創造力になる可能性もあれば、強い破壊力になる可能性もある。理性的思惟が導く行動力こそが愛国的情熱のもたらしうる破壊力を回避・転換させることができると信じる。

私は日本で博士学位号を取得したあと帰国せず、国連地域開発センター(UNCRD)に就職して国連研究員になった。その後、日本の大学で教鞭をとり、ずっと学術研究の領域で中国社会の変化を研究してきた。2008年は海外にいる中国人としては忘れられない一年であり、わたしにこの原稿を書くように促してくれた1年である。

世界中、人が住めるところならば、何処にでも中国人がいるとよく言われている。ところが、多くの外国人には、中国人が自分の生活とどのように密接に関係しているのかについての具体的な感覚がない。しかし、オリンピックの聖火の行く先々が赤い海のように中国国旗で埋められる情景を見て、多くの外国人、特に価値が多元的な社会で成長した外国人は、奇妙な恐れを覚えた。かれらにとっては、近くにこれだけ多くの中国人が集まり、行動がこれだけ一致するということが不思議で、中国脅威論が世界各地で台頭した。長期に渡り海外に滞在している知識人として、このような情況は、どちらが是でどちらが非なのかを論議する問題ではなく、一種の思惟様式の衝突であると深く感じた。世界的大国の一員に加わった中国国民には、思惟様式と行為様式の転換が急務であり、より多くの理性、より多くの理解、より多くの寛容、より多くの普遍的価値観が必要不可欠と思う。

オリンピックの聖火が日本の長野市を通過するとき、私は中国人の行動を目撃し、メディアの報道と、現地長野県民の心境および長野以外の日本人の反応にふれて、複雑な気持ちになった。それで、ゴールデンウィークの休暇の間に「オリンピックは中国だけのものではない」と題する評論を書いて、香港の『明報』週刊に郵送し、すぐ『明報』6月号の「国事縦横」というコラムに掲載された。本来、『明報』のコラムへの評論連載も考えていたが、本職である大学の仕事が忙しく、定期的に原稿を完成させることが難しく、結局この本の姿にした。

私は中国国内の読者を対象にこの本の出版を望んだ。日本での生活のなかで、日本人の行動様式の多くが中国伝統文化の真髄を継承していることに気付いた。日本人の自覚的自発的に衝突を避け、できるだけ他者と調和しようとする「同調」行動は、中国の「和為貴」精神の具現であった。本務を大切にする慎み深い行為とこの基礎のうえに形成された相互信頼は「我為人人、人人為我」(人の為は自分の為)という中国哲学の理念である。できるだけ周囲に迷惑をかけない行為は「己所不欲、勿施于人」(己の欲せざる所は人に施す勿れ)の文字通りの儒教思想を表している。

一方、今日、中国社会と中国人の行為のなかに、わたしが常に誇りに思っている博識高い中華文化はどれくらい残っているだろうか。最近、中国では、中華文化の価値観を再建するために、あちこちで孔子像を築き、古代建築を修築している。これは言うまでもなく、効果が限られている。本当に必要なのは、多くの民衆に呼び掛け、反帝国、反封建、四つの現代化の夢を追い求めたこの百年近い間に、中華思想と伝統文化が、どのように真髄を失ったのかを考えなおすことである。この喪失について、何が内的原因で、何が外的原因であるかを明らかにすることは、知識人が負うべき責任である。

伝統文化の真髄の喪失と現代中国人の価値観のなかに「私利優先」が氾濫していることは、社会主義体制そのものが原因なのではなく、社会主義的思想教育と社会主義体制が中国社会の価値規範を崩壊させたことが大きな原因として考えられる。私は自ら成長・生活してきた経験と追憶を呼び起こしながら、自らの反省の素材を読者に提示し、中国の民衆と一緒に反省しながら、伝統的価値の再建を図りたいと本書を執筆した。

しかしながら、この本は中国国内では三年間、三回の検閲によって出版できなかった。イギリスの出版社の強い要望に応じ、2015年ロンドンにおいて中国語で出版した。先日、大学院時代の指導教授の駒井洋先生がこの本の英語版を読んで、なぜ日本語で出版しなかったかと聞かれた際、私はうまく回答できなかった。実は、私には中国の価値規範を失ったことにより生まれた社会的醜態にたいする中国人としての恥ずかしい気持ちがある。中国社会の醜態と問題を暴露することは私の目的ではなく、これらを用いて、中国人にたいして目を覚まさせ、一人ひとりの中国人が自らの行為を反省することを呼びかけたい気持ちで執筆した。駒井先生は日本の国際社会学者の第一人者で、その影響を受け、私も現在大学で国際社会学を教えている。先生の問いから、私には祖国にたいする愛情と不満、同胞にたいする誇りと恥等複雑な感情が一種のナショナリズムとしてまだ深く潜伏していることに気づかせられた。

2019年、この本がイギリスの若者ニール・クラーク氏によって英語に翻訳され、ロンドンのGlobal Century Pressから出版され、英語読者のうちで大きな反響を呼んでいる。翻訳者の言葉には「外部から見れば、眠っている巨人が本当に目覚めて、この国の『変身』のような発展を見るだけで唖然として、驚きます。ところが、この驚きは、明らかな不安を帯びています。この超大国による国際法の規則に従うことへの抵抗を何度も見させられ、世界に何か不吉なものを感じています」。

昨年のアメリカ大統領選挙を巡って、分裂した社会が暴力と混乱に溢れている画像は世界中に流された。ここに露呈した民主主義の旗手としてのアメリカの衰退は、世界各国の民衆に大きな不安を引き起こしたに違いない。また、今年2022年の2月のロシアのウクライナへの侵攻により、強権国家にたいする不安が益々強くなっている一方、西側の民衆はプーチンの国内の支持率の高さを理解できない。これはロシア国内のマスコミの規制とSNSの検閲に関係しているが、その根底には社会主義体制とそれを支える思想に教育された民衆の価値志向が存在することが見過ごされがちである。このような現象は中国に対する理解の重要な視点であること提起したい。

中国は経済領域のみならず、政治的、軍事的、文化等あらゆる領域で世界の舞台に主役として振舞う勢いが益々強くなっている。今後の世界にたいして、ニール・クラークがいったように「中国との関わりを継続しようとすれば、単に彼らの存在を嘆きながら距離を置くことよりも、むしろ、これらの問題がどこから来たかを理解して、解決と適応の方策を見つけることがより重要ではないでしょうか」。

一人の国際社会学の学者として、このような世界情勢の変化に当たって、中国のリーダーではなく、普通の中国人の思考様式と行動様式が如何なるものであるか、それが如何に変わってきたかについての日本語の読者の理解に役立たねばならないと思い、この本の日本語版の出版に踏みきった。

日本語版の原稿については、恩師である駒井先生が、81歳のご高齢であるにもかかわらず、最初から最後まで、日本語を洗練して頂いた。出版に当たっては、国際書院の石井社長から快諾を頂き、心から感謝する。近年、出版事情が益々厳しくなる中、この本の出版について、関西学院大学社会学研究会の出版助成を頂くことに深く感謝する。

2022年4月

索引

  • ア行
    • イデオロギー 35, 41, 46, 109, 111, 113, 115, 139, 141, 189
    • 親孝行 89, 93
  • カ行
    • 価値志向 10, 42
    • 改革開放 20, 26, 42, 83, 116, 127, 135, 143, 150
    • 階級 21, 35, 43, 53, 110, 113, 169
    • 階級意識 111, 114
    • 階級敵 18, 115
    • 階級闘争 22, 111, 113, 115, 119, 139, 147
    • 階層 21, 41, 44, 52, 109, 170
    • 核心的価値 28, 29, 32, 35, 37, 42, 46, 75
    • 機会の平等 19, 43, 56, 62, 64
    • 義 5, 31, 36, 79, 80, 82
    • 共生 32, 34, 151, 157
    • 金銭万能 156, 162, 164
    • 君子 41, 81, 115
    • 啓蒙 20, 26, 145
    • 権威 26, 29, 55, 59, 70, 78, 99, 106, 182, 187
    • 権威主義 29, 99
    • 個人主義 19, 46
    • 孝 88, 92, 181
    • 行動様式 4, 8, 10, 41
    • 公有制 109, 120, 124, 133, 138, 141
  • サ行
    • 三権分立 27, 37, 141, 152
    • 思考様式 10, 57, 73, 99
    • 自由 29, 37, 43, 44, 48, 63, 144
    • 自律 36, 180, 183, 189
    • 社会システム 19, 21, 103, 115, 119, 149, 157, 163, 166, 169, 177, 183, 188, 189
    • 社会主義 9, 21, 29, 37, 42, 111, 123, 135, 138, 141, 150
    • 社会主義市場経済 142
    • 社会秩序 36, 41, 109, 115, 141, 164, 184
    • 弱肉強食 36, 39, 41
    • 儒教 9, 19, 37, 41, 52, 70, 95
    • 儒教思想 8, 31, 41, 119, 182
    • 儒教文化 31, 81, 123
    • 集団主義 19, 44
    • 職業的誠実 165, 168
    • 職業道徳 120, 123, 126, 130, 188
    • 信 5, 31, 36, 41, 109
    • 仁 5, 31, 36, 41, 109
    • 政治運動 66, 111, 115, 180
    • 選択の自由 44, 62
    • 善 36, 110, 119, 120, 163, 185
  • タ行
    • 他律 183, 186
    • 大家族 61, 95, 98, 103, 150
    • 大家族制度 96, 105, 152
    • 知識人 7, 17, 27, 41, 52, 53, 115, 163, 184
    • 智 5, 31, 36, 41, 109
    • 中華文化 8, 22, 37, 46, 83, 87, 103, 110
    • 中庸 36, 39
    • ディアスポラ 5
    • 伝統的価値 9, 41, 110, 177
    • 伝統文化 8, 31, 36, 46, 155
  • ナ行
    • 内省 28, 64, 116
    • 仲間圏 150, 154
    • 人間性 26, 79, 110, 118, 120, 142, 160,
    • 人間味 161
  • ハ行
    • 拝金主義 143
    • 反省 9, 17, 28, 32, 42, 84, 116, 143, 183, 186
    • 普遍的価値 8, 28, 30, 32, 39, 111, 119, 163, 179
    • 腐敗 134, 141, 170, 175, 182, 183, 187
    • プロレタリアート独裁 139
    • 文化大革命 17, 27, 31, 37, 41, 61, 104, 111, 114, 119, 150, 181
    • 平等 29, 42, 44, 46, 103, 125, 128, 155, 184
    • 房 96, 99
    • 暴力革命 21, 26, 109
  • マ行
  • ヤ行
    • 四つの現代化 8, 28, 37, 149, 155, 170
  • ラ行
    • 利己主義 79, 83, 112, 154, 185
    • 利他主義 119
    • 理性 8, 20, 26, 32, 130, 138, 154, 186, 189
    • 理性的思惟 7, 27, 186
    • 礼 5, 31, 36, 41, 109
    • レントシーキング 126, 133, 170, 175, 183
  • ワ行