近代日本におけるシャンハイ・イメージ 1931~1945

徐青
書影『近代日本におけるシャンハイ・イメージ』

近代東アジア史をたどるとき、日本軍国主義による中国侵略は「日本人民には罪はない」と言えるのか。日本国民大衆自身に「責任」があり、その観念が希薄であることがシャンハイ・イメージの残像に反映されている。(2023.10.1)

定価 (本体6,000円 + 税)

ISBN978-4-87791-324-3 C3031 403頁

目次

  • 序章
    • I 問題の設定
    • II 先行研究
      • 1 「近代日本の中国(「支那」)認識」をめぐる研究
      • 2 上海(シャンハイ)へのイメージ認識研究
      • 3 上海(シャンハイ)研究の方法論
  • 第一章 満洲事変(1931年)直後のシャンハイ・イメージ
    • はじめに ――「日本―上海」関係の基本構造と視線の変化の徴候
      • 1 「日本―上海」関係をめぐる国際環境
      • 2 近代日本の中国(「支那」)認識パタン
    • 第一節 転機としての1931年
    • 第二節 「大衆」の生成とその対外意識の性格
      • 1 「大衆」概念の生成
      • 2 「大衆」と対外意識
      • 3 「大衆」メディアとしての『犯罪科学』と『犯罪公論』
    • 第三節 『犯罪科学』と『犯罪公論』 ――1930年前後日本におけるシャンハイ・イメージ事例検証
      • 1 モダン都市の同時代性―シャンハイ・パリ・トーキョー
      • 2 イメージとしての「上海された男」
      • 3 「上海を滑走する」日本人
    • むすびに
  • 第二章 蘆溝橋事件(1937年)直後のシャンハイ・イメージ ――メディアとしての子供・女性・男性
    • はじめに
    • 第一節 メディアとしての子供―新居格編『支那在留日本人小學生綴方現地報告』におけるシャンハイ・イメージ
      • 1 子どもとシャンハイ
      • 2 新居格と「綴方」
      • 3 上海在留日本人小學生の「シャンハイ」イメージ
    • 第二節 メディアとしての女性 ――吉屋信子『戦禍の北支上海を行く』におけるシャンハイ・イメージ
      • 1 吉屋信子
      • 2 吉屋信子と『戦禍の北支上海を行く』
      • 3 吉屋信子小説中の「上海・支那イメージ」
      • 4 吉屋信子の『戦禍の北支上海を行く』中の上海イメージ
      • 5 『主婦之友』の時代的位置と役割
    • 第三節 メディアとしての男性―松井翆声『上海案内』におけるシャンハイ・イメージ
      • 1 上海旅行案内研究
      • 2 松井翠声と『松井翠声の上海案内』
      • 3 戦火の中の上海イメージ
      • 4 『モダン日本』の記事掲載版と単行本版『松井翆声の上海案内』
    • むすびに
  • 第三章 孤島・占領期(1937~1945年)のシャンハイ・イメージ
    • はじめに
    • 第一節 中国文人と日本人との交際が生むシャンハイ・イメージ
      • 1 張愛玲『色・戒』と「スパイ」「王佳芝」の原型 ――「鄭蘋如」
      • 2 「漢奸」とされた文人たち ――劉吶鴎と穆時英
      • 3 「映画」と「東亜新秩序」 ――松崎のシャンハイ・イメージ
    • 第二節 日本文人のシャンハイ・イメージ―西川光『十二月八日の上海』を中心に
      • 1 転機としての12月8日
      • 2 「英米の上海」というイメージ
      • 3 変貌する租界
    • 第三節 李香蘭とその映画におけるシャンハイ・イメージ
      • 1 李香蘭
      • 2 李香蘭と劉吶鴎
      • 3 李香蘭のシャンハイ・イメージ
      • 4 李香蘭の占領期シャンハイ・イメージ
      • 5 敗戦後の上海イメージ
    • むすびに
  • 結章
    • 参考・引用文献
    • 附録
    • 索引

著者紹介

徐青

  • 中国上海市に生まれる
  • 2009年名古屋大学よりPh.D.取得
  • 2009―2011年復旦大学歴史系ポストドクター
  • 現在―浙江理工大学外国語学院日本学研究所所長、準教授
  • 愛知大学国際問題研究所客員研究員、早稲田大学政治経済研究科訪問研究員
  • 専攻―国際文化関係学、日本言語文学
  • 著書―『近代日本人対上海的認識1862-1945』(上海人民出版社)ほか多数
  • 編書―『晨讀夜誦 天讀一點日本短篇名作 日本近現代文學短篇名作選集』(華東理工大学出版社)
  • 訳文― 張愛玲「絵を語る」「瑠璃瓦」「更衣記」『文明21』(愛知大学国際コミュニケーション学会編) ほか多数

まえがき

序章 近代日本の歴史は、中国認識失敗の歴史であった。

(野村浩一)

I 問題の設定

近代日本において〈他者〉である上海(シャンハイ)*1のイメージはどのように作られていったのか。また、それはいつどのように変容していったのか。さらに、はたしてそれはかつて「近代日本の歴史は、中国認識失敗の歴史であった」(野村1981: 47)と総括的に語られてきたことを、いったいどの程度反復しているといえるのか。野村浩一『近代日本の中国認識―アジアへの航跡―』(1981)は、戦後から現在に渡って、日本の中国(「支那」)認識のあり方を考えるための素材として、近代の日中関係に関わる幾つの論文がまとめら れたものであるが、西欧近代の自己理解の道具として構築された「近代知の構造」においては、何れにしてもこの「〈他者〉認識」に「成功」した事例は皆無であろう。もし、「成功」事例があったのなら、私たちの世界認識はもっと違っているはずであり、「近代英国の歴史は、インド認識失敗の歴史であった」、「近代アメリカの歴史は、ラテン・アメリカ認識失敗の歴史であった」、「近代中国の歴史は、日本認識失敗の歴史であった」等などの言表もすべて可能となる。

本書が解明したいのはこうした問題領域である。筆者は、本書の扱うこうした領域の研究を、日中近代史研究やメディア研究などの諸成果に依拠しながら行われる「日本研究の一環としての日中国際コミュニケーション研究」と位置づけている。

もちろん、「近代日本」とは何か、〈他者〉とは何かなど、この問題を構成するそれぞれの要素についても、本来ならばもっと多くの議論が尽くされなければならないのだが、本書第一章では、より限定的に、著しい「変化変容」の認められる一定の時期に、ある特定の雑誌、新聞、書物を購読している日本人がもつことになったであろう「上海(シャンハイ)イメージ」を立体的に検討されている。そこでは「大衆」の登場してくる時期における雑誌、新聞、書物を手掛かりに「事例」を探っている。とはいえ、雑誌研究、メディア研究をそもそもの研究目的としているわけではない。

その場合、近代日本における「大衆」概念は、まさに本書におけるキー・コンセプトである。「大衆」が消費するメディアの発達とその展開が可能であったのは、シャンハイのようなモダン都市が構築されてきたからに他ならないからである。本書の関心は、まさにその近代日本の「大衆」がどのようなシャンハイ・イメージを構築していくのかというところにある。

そこで、そうした「変化変容」の兆候を探る方法として、まず具体的な情報量の変化に着目してみよう。

たとえば、国立情報学研究所の「連想図書検索システムWebcat Plus」で「上海」というキーワードを、タイトルと出版年との一致検索にかけてみると、1900年から1920年ではわずか36件しかヒットしない。これが日本軍による上海占領へ到る過程で1920年から1930年は96件、さらに1930年から1940年にかけては251件、1940年から1950年では、138件という具合に変化している。また、1930年から1945年では339件であり、1940年から1945年では124件、1945年から1950年では16件である。印刷出版事情など複雑な要因がそこにあるとはいえ、1930年を前後して急激に出版点数が増大し、1945年の日本の敗戦とともに、上海に関する出版された単行本単位での情報量は急激に低下したことが分かる。

また、上海に関する日本語文献(主に単行本)を系統的に収集整理している「上海史研究会」文献リストによれば、1900~1919年の20年間では、67件であるが、1920~1929年で300件、1930~1939年で393件、1940~1949年では238件に及んでいる。だがやはり、1945年から1950年では僅かに22件となっている。

むろん、この文献リストや検索システムに表れた数字は、実際に発行された文献点数を正確に反映したものであるとはいえない。また、単行本を主な対象としているため、雑誌記事までは含くまれてはいない。

上海史研究会作成による文献リストに拠れば、1945年から1955年にかけてではわずかに36件であるが、国立国会図書館の雑誌記事索引では90件のヒットがある。雑誌記事の中を一瞥してみても、敗戦後の日本のその10年間において、「大衆」にとって現実の上海を見る機会は失われ、「思い出の中の上海」として、一種のノスタルジアが現れてくる。

実際、中国において上海は、「解放」から1980年代の改革開放期に到るまで、時間のほぼ凍結された「忘れられた都市」であった。ちなみに、改革開放後の1990年から2000年のあいだでは「Webcat Plus」で558件ヒットする。出版状況の違いは比較にならないほど大きいとはいえ、発行書籍点数ではすでに1930、40年代を超えてしまっている。むろん、その多くは投資情報や企業活動の分析などビジネスに関連するものであり、日本人ビジネスマンが上海に対してどのようなイメージをもってビジネス展開すべきかといった類のものも枚挙にいとまがない(ヒット数はいずれも2005年12月段階)。

しかしながら、「上海」をキーワードとする書籍点数のこうした偏差傾向は、その後のメディアの技術的発達という側面を考慮しても、「1930年を前後する時期から日本の敗戦までのごく短期間に上海に関する情報量が日本において急激に増大した」という事実を端的に示している。

このような情報の著しい増加は、当然その情報の対象となっているモノ・コトへのイメージの変化をもたらす。情報量の増大と情報そのものの正確さやイメージの的確さとの間に一定の公式が成り立つのかどうかについてはともかく、少なくとも、そこにある一定の「イメージの変化変容」を見いだすことは可能であろう。

実は、この「大衆」の出現やその「大衆」が担うことになるメディア空間の変化から出発して「イメージの変化変容」を考えるという視角は、本書が他の先行研究とは大いに異なるところである。従来の日本文学ないし文化研究の対象としての「上海」は、日本の著名な知識人や作家文学者などが、「上海」をどのように受容し描いたのかという研究である場合がほとんどであった*2。その限りにおいては、それらは個々の思想家や作家研究などの一環として成立した、日本の知識人*3の「上海イメージ」に他ならない。

しかし、本書では、そうした個々の知識人の思想とその著述に主たる関心があるのではない。むしろ、日本人がある一定の同時代に共有していた「上海イメージ」はどのようなものであり、その集合表象的な「イメージとしてのシャンハイ」はどのように消費されていったのかということに、主要な関心を向けている。つまり、近代日本において「大衆」と「メディア」との存在が構築している「モダン都市」そのものとしての「シャンハイ」はいかにイメージされたのかというが問題なのである。

したがって、本書では、近代日本におけるシャンハイ・イメージは、1930年前後から1945年までの「大衆」と「メディアの変化変容」と「モダン都市」といった三位の概念が重層化して成立したのではないかという仮説の下に議論を展開している。

ロジカルな構成を維持するため、本書では、まずこの序章で「先行研究」を一通り概観した後、第一章では、満洲事変後のシャンハイ・イメージ、次に第二章では、蘆溝橋事件直後のシャンハイ・イメージ―メディアとしての子供・女性・男性―、さらに第三章では、孤島占領のシャンハイ・イメージについて検討している。

とりわけ、第一章では、当時の雑誌『犯罪科學』、『犯罪公論』の二誌を主に取り上げて解析している。この当時の「エロ・グロ・ナンセンス」を代表するかのようなタイトルでありながらも実に興味深い内容をもつその雑誌を部分的にでも取り上げた研究は、従来の日本研究においては、ほぼ皆無に等しい。本書におけるオリジナルな部分の一つである。

II 先行研究

1 「近代日本の中国(「支那」)認識」をめぐる研究

「近代日本の中国(「支那」)認識」*4という研究領域における先行研究はこれまでにも夥しく存在しており、1980年代までの主な「中国(「支那」)認識」をめぐる研究とその位置づけは、山根幸夫・藤井昇三・中村義・太田勝洪編『近代日中関係史研究入門』(山根1992)がその概況を整理している(なお、この『入門』によれば、「中国人の日本観」についての研究はまだ端緒についたばかりのようである。本書で依拠しているサイードの「オリエンタリズム」をめぐる理論枠組みからすれば、言説の支配という観点から見ても、それは当然の現実であろう)。

こうした日中関係の諸相については、後にも第一章において詳しく触れるが、『日中文化論集―多様な角度からのアプローチ―』(神奈川大学人文学研究所編2005)や、『異文化理解の視座―世界からみた日本、日本からみた世界―』(小島他編2003)のように、日中の研究者による国際シンポジウムの諸成果をまとめたものも多い。前者は、日中の大学研究所交流の十周年を記念する行事として取り組んだ国際シンポジウムの記録であり、後者は、東京大学と財団法人日本国際教育協会(AIEJ)との共催で2001年に東京国際交流館国際会議において開催された国際シンポジウム「東西交流と日本」における講演と発表および討論を基に構成されたものであり、同シンポジウムの報告書としてまとめられたものである。後者の序文には、「二十一世紀の世界、そして二十一世紀の日本を、この傲慢さから救い、異文化交流を真に建設的なものとするためには、異文化交流の経験の歴史を振り返り、その足跡から学ぶ智恵が必要である。耳障りのよいお題目ではなく、異文化交流の現場に直接触れている人々が日々に直面している問題の所在を知らねばならない。交流の現場では何が問題を困難にしているのか。いかにしてそれらを乗り越えることができるのか。そのためにいかなる労苦が払われているのか、その努力と実際の方法に学ぶべきであろう」、と記されている(小島他編2003: iii)。

こうした国際シンポジウムは、80年代、90年代においてもしばしば開催され、それぞれ時局に応じた特徴を持っている。その意味で、上記2例と、たとえば、山田辰雄編による、1993年6月19、20日に慶応義塾大学地域研究センター主催で開催された、日中共同シンポジウムの報告論文集『日中関係の150年―相互依存・共存・敵対―』(山田編1994)の視座には、時代によって差異も反復されているところもある。

このシンポジウムでは、近代の日本と中国との関係を「侵略の事実においてのみとらえることは、一面的」であり、「相互依存・共存・敵対」といった多面性における把握が必要であるという立場から、第一に「時代区分」(近代の日中関係史を論じる場合、その起点どこに求めるかに関して諸説がある)、第二に「日中関係を多面的に見るということ」、第三に、「日中関係を二国間関係に限定せず、多国間関係としてとらえること」、といった視角が取り上げられている。

近年では、筆者のように日本に留学した中国人研究者による、近代における「日中関係」や「日中比較」等の諸成果が多く公表されている*5

たとえば、北京大学の王曉秋による『アヘン戦争から辛亥革命―日本人の中国觀と中国人の日本觀―』(王1991)は、アヘン戦争における清の敗北を、日本の有識者たちがどう受け止め、そこから何を学んだのかという問題について掘り下げている。王によれば、日本の識者はおしなべて清国の敗戦を「覆った前車の鑑」、つまり繰り返してはならぬ先行の失敗の経験とみなし、その失敗は、中国が自国の伝統文化を絶対視し、西方の文明を「禽獣の道」と蔑視して、その優れた面、すなわち近代的な軍備やこれを支える科学技術を学び、吸収して自らを強めようとする努力をしなかったからだとしている。

また、銭国紅『日本と中国における「西洋」の発見―十九世紀日中知識人の世界像の形成―』(銭2004)は、東アジアにおける隣国同士である日中両国の関わりを通じて、両国の近代化における世界認識のあり方と世界的意義を回顧することを目的としている。特に、1842年のアヘン戦争で清がイギリスに敗北したあと、黒船来航までにわずか11年しか経っておらず、この間、欧米列強のアジア進出、南下するロシアという危機的状況に、日本と中国の知識人は、どのように対処しようとしたのかについてまとめている。もっとも、これもその比重は幕末・維新期における日本知識人の対応にあり、銭の問題意識は、「日本の成功の秘密はどこにあるのか」にある。

もっとも、こうした近代日本への関心に比重を置くことばかりでなく、日中間の実存の問題を問うような試みも登場している。たとえば、孫歌『アジアを語ることのジレンマ―知の共同空間を求めて―』(孫2002)のように、「イデオロギー批判によっては簡単に解体されることのない個別の体験であり、しかも絶対に個人化した経験でもない」、「言葉以前の要素」、「前言語状態」に支えられる「個人生活、社会生活の襞の内奥に隠された文化の浸透力」(孫2002: 12-13)の問題や、「もしも、感情の尊厳を理解すると同時に、感情問題の複雑さを理解する能力を具えていたら、少なくとも人類史上の永遠の難題――復讐と正義の関係は、異なった方式で私たちの視野に入って来、また私たちの感覚体系に入ってくるだろう」(孫2002: 19-20)といった視座が成熟していけば、日本人の心理的アンバランスも、もう少し安定したものになるかもしれない。

そして、「文化を越える立場というものは、二つの文化の間で発生するのではなく、一つの文化内部で発生するのだということ」、「一つの文化内部に己の自足性に対する懐疑の生じた時に、初めて文化を越えるということが起こりうるということ」、「自足した文化体系内部では実現し得ない自己否定と自己革新の契機を探求」(孫2002: 104)しつつ、「民族感情に丸呑みされてしまった日本人ならば、外部世界に敵意のまなざしを向けがちだ。しかし民族感情が全くない日本人が、戦争責任を引き受け、また追求することを、己の使命と見なすとは想像し難い。民族感情なるものは、なにかしら砒素にも似て、量が多すぎれば死に至り、適量ならば病を治す」(孫2002: 72)、といった状況を「共有」していくことができるかどうかも肝心なところである。

日本近代史研究や中国近代史研究の一環ともいえる日中関係研究にも、歴史学研究を中心にさまざまな試みがある。

曽田三郎編著した『近代中国と日本―提携と敵対の半世紀―』(曽田編著2001)では、所収各論文はすべて20世紀前半を扱っている。それは「社会主義の世紀」としての「20世紀」がいつ始まりいつ終わったのか、20世紀らしさあるいは20世紀的歴史とは何であったのかという問いを、日中間それぞれの20世紀認識主体において考えようとする試みである。編著者によれば、「提携」と「敵対」という二つの語は、20世紀前半期における日本と中国との関係をできるだけ簡潔に表象したものだという。いうまでもなく、「敵対」は侵略と抵抗の局面を意味している。だが、「提携」とは、文字どおりに対等なレベルにおいて手を携えるという意味では必ずしもない。

第一は、「敵対」という関係のみでは把握しきれない共存や宥和のような関係の存在といい、事実そのものの認識である。第二は、他者が定着を達成した政治・社会的諸制度あるいは経済上の技術が自らの国家や社会の近代的再編成や経済発展に有効であると認識され、その受容をめぐって交渉が進められる局面の分析である。第三は、侵略や従属といった前提となる状況のなかで、そのより一層の深化や戦争の拡大の回避をめぐって交渉が進められる局面の分析であるとしている。

さらに、近代日本におけるアジア認識を総体として捉え直してみようという試みとして、日中関係そのものにその存立の由来が関係している京都大学人文科学研究所が1988年から1992年にわたって行った共同研究の成果として出版された、古屋哲夫の『近代日本のアジア認識』(古屋編1996)もある。明治維新による開国以後に次第に拡大してくるアジアの人々との接触のなかから、どのような認識が生まれてくるのか、という問題がそこでは軸になっている。接触の方向としては、日本に来たアジアの人々と、アジア各地に進出する日本人という二つの方向が考えられるが、そこから伝えられてくるイメージは、アジア認識にある種の傾向を与えたのだという。

2 上海(シャンハイ)へのイメージ認識研究

では、上海(イメージ)は、こうした中国(「支那」)認識やアジア認識とどのような関係にあるといえるのであろうか。さらに言えば、近代日本および日本人の上海(シャンハイ)へのイメージや認識について、どのような「先行研究」が存在するのであろうか。

本書では、中国、日本、アメリカに在住する大学の教員、研究者たちによって執筆された4著書*6を、この近代日本における上海(シャンハイ)・イメージをめぐる、よりその領域を絞り込んだ「先行研究」として位置づけている。それぞれの研究書が共有するキーワードは、もちろん近代日本および日本人の「認識」における「シャンハイ」である*7

近代日本および日本人の上海(シャンハイ)へのイメージや認識についての「先行研究」を論じる前に、まず、世界におけるシャンハイ・イメージ研究状況を「上海史」の側面から概観しておこう。熊月之によれは、上海史研究は、従来から学界ではたいへん注目されている領域である。外国人研究者はとりわけ上海史研究に愛着があるとさえいえる。特に、最近約20年における海外の上海史研究は、さらに明らかに“四多"の情況を呈している。即ち、項目が多く、会議が多く、成果が多く、人材も多い(熊2003: 55-56参照)。

2.1 アメリカにおけるシャンハイ研究

アメリカでは、西部のバークレーとロサンジェルス、オレゴン、東部のコーネル、ハーバード、北部のミシガンなどは、それぞれかなりの研究者が上海史に従事している。

カリフォルニア大学バークレー校では上海史研究者の数が余りにも多いので、アメリカの学界では“上海幇"というあだ名すらある。アメリカの学界で中国問題に関する討論会を開くときには、上海史がよく討論の中心テーマとなる。そのため、中国その他の都市を研究している研究者たちは、「上海以外の中国都市―民国期中国都市スケッチ―」(1996年)という名称の討論会を開いたりしている。わざわざ“上海以外"を明示するのは、まさしく上海と他の都市との違い、そして上海はひときわ際だった独特の位置を表現しているといえよう。

英語圏において最も権威的のあるアジア研究誌『アジア研究』(季刊)は、1995年に上海史研究特集号を編んでいる。これは国際的な学界において、上海史が今後さらに重視されてくることを示している。上海史は海外における中国学界公認の人気のあるトピックスであり、それを対象とする「学派」も形成している(熊2003: 55-56参照)。

その中に、とりわけ精彩を放っている「上海研究」がある。在米華人研究者、李欧梵『上海摩登―一種新都市文化在中国1930~1945―』(李2001)である。李がインディアナ大学で教えているときの同僚で、比較文学を講じていたルーマニア国籍のマーテイ・カリネスク教授の『現代の五つの顔―モダン・アヴァンギャルド・デカダンス・キッチュ・ポストモダン―』(1989)に影響され、それをモダニティ(現代性)研究の理論的基礎としつつ、モダン都市としての上海の解析を試みたものである。「文学と芸術上の現代性は、実は歴史上の現代性との分岐となっており、前者は後者の拝金主義者と俗っぽさに対する反抗である」という李にとって、老上海に対する心情は、一般の人がいうような「昔懐かしい」存在なのではなく、「学術研究の想像的な再構築活動」に他ならない。

この『上海摩登』第一章から第四章までは、上海の大衆文化(出版、映画、ジャーナリズム)などを分析している。第五章から第八章までは実際の作家や文学作品に焦点を当てており、第五章は施蟄存、第六章は劉吶鴎と穆時英、第七章は「デカダンとダンディ」と称して、邵洵美と葉霊鳳を、第八章は張愛玲をそれぞれ分析している。第九章では上海をコスモポリタニズムの視点から見ている。李は、この章で日本と上海とのつながりを書き、エピローグでは、上海と香港の「二都物語」と題して香港を第二の上海と捉えている。

原書は英語であるが、先述のように中国語訳が2001年10月に北京大学出版会から出ている*8

2.2 日本におけるシャンハイ研究

日本の上海史研究会の「上海史研究データーペース」はとてもよく整理されている。それによれば、1853年に日本国内最初の『通航一覧』が出版されて以来、おびただしい上海に関する案内概覧、要覧、一覧、便覧、年鑑や大観などが出版されている。その中でよく知られているものとして、『上海繁昌記』、『漫遊見聞録』、『大上海』、『新上海』、『上海案内』、『上海概覧』、『上海一覧』、『上海要覧』等がある。もっとも、それらに関する研究はあまり行われてはいない。たとえば、大阪市立大学都市文化研究センター上海サブセンター編『近現代の上海・大阪の空間と社会』*9の研究メンバーの一人である西部の「近代上海を地理学するための予備的考察―在留日本人をめぐる研究展望と上海ガイドの紹介を中心に―」があるが、これは、「上海を地理学するための予備的考察」(西部2006: 64)である。

また、広岡(2006)の『時空旅行ガイド大上海』もある。

その他、近代日本研究の和田博文他(和田他1999)では、「1920~30年代の日本で、言語都市としての上海は、都市の多層性をどのように表現しうるかという課題と、向き合うなかで形成されていった。上海の魔都イメージを一般化したのは、村松梢風『魔都』(1924)だと、しばしば指摘される。アンダーグラウンドの紹介になるだろう。アジアの植民地化によって繁栄した、ヨーロッパ文明の批判も可能だ。抗日運動下の混沌とした日本人の姿を描いてもいい。小説、ルポルタージュなどの形式で、どんな言語都市を浮かび上がらせることができるのか、文学者たちの試行錯誤は続いた」(和田他1999: 12)とプロローグで述べている。

この和田他(1999)の特徴は、何よりもさまざまな情報が実によく整理されていることにある。「無数の記憶の箱」をすべて開くことなど誰にもできないのは明らかであり、こうした「水先案内人」なしに日本人の上海をめぐる表象を探ることは不可能である。その一方で、執筆者たちの専門分野を反映して「あまりに文芸的な」関心が強いということには注意を要する。あくまで文学作品研究のために「上海」があるからである。

シャンハイという都市そのものを、「テクスト」としてふつうの近代日本人はどう読んだのかを探る、一種のカルチュラル・スタディーズを志向する本書の立場からすれば、かれらの描いた「上海をめぐる表象地図」を有効に活用して、むしろシャンハイをめぐる「多様な視座」からの言説に着目していかなければならないであろう。

劉建輝(2000)は、そのプロローグで示される通り、前半においては焦点をおもに幕末日本と上海の関係にしぼり、いわゆる「国民国家」としての近代日本の成立に、上海が一体どういう役割をはたしたかを追跡している。その後半では、特に明治以降の日本人の上海体験に焦点をあわせ、その個々の精神史に上海がいかなる痕跡を残してきたかということを明らかにしようとしている。「その意味で、本書は上海論であると同時に、また上海を素材にした日本ないし日本人論」(劉建輝2000: 26)を構想して書かれたものである。

趙夢雲(趙2000)は、近代日本作家たちが上海に何を感じ、何を考え、そこをどのように表現したのか、それらをまとめて上海に関する彼らの認識を明らかにすることと同時に、上海をひとつの鏡とし、その鏡に映し出された近代日本のナショナリズム、文化伝統、感受性などを探りながら日中近代史をとらえ直してみることが、目的とされている。

その特色は「関連年表」にある。趙自身は、「信頼して参考にする価値のある先人の遺産がほとんどなく、ゼロからの出発に近いものであった。年表は、108頁分で(本書の約半分ぐらい占める)内容が多方面にわたり、時間の範囲も百年を超えたため、あちらこちらに散らばっている資料の調査と確認には筆舌には尽くしがたい苦労がともなった。やっとの思いで入手した資料でさえときとして食い違いがあったりして、真偽の判別にも大変骨が折れた」と述べている。

この年表は、基本的に日本の文学者の活字媒体を軸に編まれており、そうした作品が登場してくる世相や社会現象との関係を立体的にとらえるものにまではなっていない。そのことが逆に短所といえば短所であるが、むしろ、この関連年表をもとにしてさらに歴史的な上海―日本関係空間の「構築」が可能ではないかとも考えられる。

2.3 その他の国におけるシャンハイ研究

アメリカと日本の他に、ドイツ、フランス、イギリス、オーストリア、オーストラリア、香港、台湾においても、相当数の研究者が上海史を研究している。ドイツ科学院のハイデルベルグ大学漢学研究所所長のワーグナーは、以前は『老子』の「王弼注」と道教の研究で有名になったが、近年では院生たちとともに上海史研究の領域に入り込み、文化史研究方面の成果が際立っている。1996年、上海社会科学院において開催された上海史討論会では、ハイデルベルグ大学がいきなり5名の研究者によって構成されるチームを派遣し注目を浴びた(熊2007: 56参照)。

3 上海(シャンハイ)研究の方法論

「上海」という「植民地都市」を研究する場合、その「理論」的なアスペクトはきわめて重要である。本書は、モダニティ、オリエンタリズムそしてイメージという三つの方法論的基礎によって支えられている。

本書が対象とする時期における都市の相互比較をする場合、「上海はパリと並べて論じても、全く奇妙ではない状況」のあったことは明らかであるが、それをモダニティとまとめることも可能である。また、その「モダン上海」の背後には、やはり、帝国主義、植民地主義といった影が隠れている。さらに、1931年から1945年への期間には、上海地域だけでも、第一次上海事変、第二次上海事変、上海占領期といった歴史的転換点(後述)にも緊密に繋がっている。本書はそうした混沌の中で生じたイメージを議論している。

3.1 モダニティ

まず、「モダン」(「近代」、「現代」)とは何か? 日本の「モダン」(「近代」、「現代」)は時代区分としてはいつ頃を指しているのであろうか? そもそもモダンはそういった時間軸だけの問題ではないようなのであるが、『広辞苑』(第五版)によれば、広義には近世と同義で、一般には封建制社会のあとをうけた資本主義社会についていい、日本史では明治維新から太平洋戦爭の終結までとするのが通説とされている。

では、中国の「モダン」(「近代」、「現代」)はというと、櫻井龍彦(櫻井1996: 95)によれば、「アヘン戦争(1840)以後、本格的に始まる中国の近代化は、軍事的な敗北にともなう西欧近代文明の外圧と強制のもとで進行していった」、そして、さらに「その衝撃的な出会いは、中国に強い屈辱をもたらすと同時に、長期にわたる停滞によって時代への適応能力を欠いていた伝統社会を屋台骨から揺さぶり政治経済体制はもとより、中華文明を支えてきた固有の思想、文化の存在意義を根本から問い直す深刻な契機となった」。

「モダン」、「モダニティ」といった用語は、19世紀を通じ飛躍的に頻用されるようになったため、モダンという観念の用語史を細かく追うには、特定の領域だけにかぎっても、膨大な量の研究が必要となる。

カリネスクによる「モダン」の概念は、まず、「ブルジョア的なモダン」と「ロマン主義的なモダン」の二つに分かれる。

「ブルジョア的なモダン」には、「歴史における初期からの伝統を保ちつづけたもの」「進歩の原理、科学と技術の実りある可能性への確信、時間への関心、理性崇拝」「抽象的なヒューマニズムの枠のなかで定義される自由の理想」「実用主義の賛美、行動と成功の賛美」といった特徴がある。すべてさまざまな段階においてモダンを擁護する闘いに結びついており、中産階級の手でつくりあげられた壮麗な文明の重要な価値として、維持され追求されてきた。

「ロマン主義的なモダン」は、ロマン主義の出発点から、急進的な反ブルジョワ的姿勢へと傾斜していて、中産階級の価値基準を嫌悪し、それを、反乱、アナーキー、黙示録的な期待、貴族的な自発的亡命といった手段を通じで表現したものである。

したがって、文化的モダンを定義するのは、そのさまざまな建設的野心以上に、ブルジョワ的モダンの断固たる拒絶、その否定的で破壊的な情熱に他ならないことになる。

さらに、「モダン」という用語の起源を探ると、カリネスクは、英語の「モダニティ」という用語について、このように語っている。

美的モダンの理論家としてのボードレールの根本的な重要性を考えると、この用語、19世紀中葉のフランスにおけるこの新語は、英語ではすくなくとも17世紀以来用いられていた点を指摘しておかなければならない。『オックスフォード英語辞典』は、(「今という時代」を意味する)「モダニティ」の初出として、1627年の用例を記録している。(カリネスク1989: 62-63)

カリネスクによれば、フランス語の「モダニティ」という用語は、

19世紀の半ばになって初めて使われだした。リトレは、1867年のテオフィル・ゴーティエの論文中でこのことばの用例を確認している。より最近の包括的な辞典である『ロベール辞典』は、1849年出版のシャトーブリアンの『墓の彼方からの回想』にその初出例を見出している。リトレもロベールも、1859年に書かれ、1863年出版されたボードレールのコンスタンタン・ギース論の中の「モデルニテ」の使用例には言及していない…シャトーブリアンは、この「モデルニテ」ということばを用い、その陳腐さを軽蔑をこめて表現する。…(カリネスク1989: 63-64)

以上のように、「モダン」の否定的な意味と、それに対立する肯定的な意味とは揺らぎを孕んだ関係の中で共存してきたのであるが、それは、二つのモダンの間のより広範な葛藤を反映している。

カリネスクは、Faces of Modernity(モダンの複数の顔)、Indiana University Press, 1977から10年経った1987年、「ポストモダンについて」を新たに収めて、先述のような新版『現代の五つの顔―モダン・アヴァンギャルド・デカダンス・キッチュ・ポストモダン―』を出版した。さらに約18年を経て、2007年春、中国の研究者復旦大学視覚文化研究センターの顧錚は、この「五つの顔に」もう一つの顔を加えた。顧の著作『モダニティの第六枚目の顔』で、加えられたもう一つの顔とは、「日本のモダニズム実践を根拠として、モダニティの第六枚目の顔は、エスニック・ナショナリズム(ナショナリズム)であり、その極端的な形式はミリタリズム(軍国主義)である」。顧は日本でも研究したことがあり、顧の著作の「民族主義およびその変種軍国主義―第二次世界大戦時期の日本の『国策宣伝撮影』事例として―」(顧2007: 93-112)の部分は、本書においても大いに参考とした。

3.2 オリエンタリズム

次に、オリエンタリズム(東洋主義)についてふれておきたい。

サイードの議論をまとめている鈴木規夫(鈴木1998)、西原大輔(2003)などによれば、「オリエンタリズム」のもともとの概念は、19世紀を中心とした、ヨーロッパのロマン派による異国趣味の美術や文学、あるいは東洋を対象とした学問を指しており、イスラーム世界を旅する紀行文学や、中近東の風俗をエキゾティックに描いた絵画、文学や美術の一潮流を表象していった。その起源は、1798年のナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征にまでさかのぼる。そのエジプト遠征は、フランス人のオリエントへの興味を急速に高め、美術の世界でもオリエンタリズムと呼ばれる動きが現れた。1804年の官展に出品されたグロの大作『ヤッファのペスト患者を見舞うボナパルト』は、その最初期の作品とされているが、トルコやアラブ、北アフリカといった東方世界を描く絵画が、それ以来陸続と生みだされていった。オリエントを舞台とする紀行文や小説も数多く生まれ、シャトーブリアン『パリからエルサレムへの旅』(1811)、ラマルティーヌ『東方紀行』(1835)、フローベール『エジプト紀行』(1849~50)や『サランボー』(1862)、ネルヴァル『東方の旅』(1851)、韻文ではユゴーの『東方詩集』(1829)などが存在する。これらの作品には、古代を思わせる情景や官能的風俗などが、エキゾティックに描かれ、ヨーロッパとは異なったオリエントの光景や風物が、フランス人の異国趣味をかきたてた。

そこで問題になるのが、サイードにおける「オリエンタリズム」の定義である。サイードは、オリエントに対するヨーロッパの言説であるオリエンタリズムとは、「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式」に他ならないと再定義した。現在では、単なる「東洋趣味」を超えて、サイードのこの定義が学術界ではむしろ一般化している。西洋による東洋への差別的表象を否定的なニュアンスで「オリエンタリズム」と呼ぶようになったのは、サイード以降の現象である。この意味において、「オリエンタリズム」批判は、植民地主義と結びついた西洋の知のあり方、言説としてのオリエンタリズムへの根底的な批判的方法として認識されている。

サイードの『オリエンタリズム』が古典的著作となるにつれ、「オリエンタリズム」という言葉は、説明を必要としない便利で手軽な符号となり、語自体の解釈の幅が広がることによって、かえって誤解を生じる危険性も大きくなっている。オリエンタリズムという言葉が、安易に反復されることによって、サイードの著書における厳密な定義が失われ、「異文化に対する差別や偏見」といった程度の意味に理解される恐れもある。

「オリエンタリズム」はその前提として、近代における植民地主義または帝国主義を必要としている。人類の長い歴史において、民族や国のレベルでの抗争は絶え間なく続いてきたが、そのような中で形成された他者に対する言説を、すべて無条件でオリエンタリズムと認定することはできない。オリエンタリズムはあくまでも近代の問題である。いわゆる「中華思想」とオリエンタリズムの混同は議論をかえって混線させてしまう。

サイードの『オリエンタリズム』は、その研究対象をイギリス、フランス、アメリカのオリエンタリズムに限定している。したがって、厳密にいえば、オリエンタリズムはあくまでも西洋の東洋(オリエント)に関する言説であるとするべきかもしれない。だが、日本は西洋にとってのオリエントの一部ではありながら、近代日本による植民地建設は、日本がオリエンタリズムの主体となることを可能にした。本書では、その意味において「オリエンタリズム」は近代日本にも適応可能なものと考える。

オリエンタリズム論は、主体の客体に対する偏った言説を明らかにするものである。だが、作品に内在するオリエンタリズムを明確化することが、ただちにその文学・芸術としての評価を否定するものはない。「オリエンタリズム」はあくまでも「言説」だからである。したがって、近代日本文学作品をオリエンタリズム論の視点で論じることは、過去に創作された作品を後世の基準に基づいて断罪することではない。また、そこには「政治的正しさ」という一種の相対的な高みに立って道義的非難を加える試みになってしまう恐れもある。そもそも文学などの諸作品は、作品それ自体、美的、娯楽的、政治的、社会的、歴史的要素を含む総合的なものであって、それがもつ政治性を明らかにすることが、ただちにその作品の面白さや美的価値を否定するものとはなり得ない。

たとえば、サイードは、「コロンビア大学の学生の手になる1975年度の課程ガイド・ブックには、アラビア語課程に関して、アラビア語の語彙の半分が暴力と関係があり、この言語に「反映」されたアラブ的精神はつねに誇大なものである、と書かれてあった。『ハーパーズ・マガジン』にのったエメット・ティレルの最近の論文はもっと中傷的で人種差別的なものであって、アラブは基本的に人殺しであり、暴力と詐欺はアラブ遺伝子によって伝えられるものだ、などと論じてあった。」(サイード1986: 293)と述べている。オリエンタリズム批判の有意性は、そうした言説自体の欺瞞性を構造的に暴き出すことによって、そうした言説の文脈的位置づけをより明確にするところにこそある。

3.3 イメージ

イメージも近代における他者認識を探るにはきわめて重要な方法論的基礎を提供してくれる。人はいかに見るのか、そもそも何を見ているのか、同一物をA氏とB氏が「見ている」という行為は、はたしてその物の同一性を指示しているといえるのかどうか等々といった問題は、きわめて深刻な問題をそこに含んでいる。近代日本におけるシャンハイ・イメージの何であるのかを論じる本書においても、この方法論としてのイメージを精査しておくべきであることはいうまでもない。

ただ、この領域の研究は周知のようにすでに膨大である。国際関係論におけるケネス・ボールディングのイメージ論(ボールディング1962)は、つとに有名であるが、そこでは主に次のように議論されている。

ボールディングにとって、イメージとは個人(または組織)が真であると信じている主観的知識構造であり、「事実」のイメージおよび「価値」のイメージとをふくむ。その場合、「純粋な事実」は「主観的知識」にはない。イメージは内部表象と同じであるから、単純化すると、(1)表象=像+評価、(2)評価は、メッセージに含まれる情報のフィルター、ということになるであろう。「メッセージ」とは「情報から構成されており、イメージを変化させるもの」であり、「メッセージの意味」とは、「メッセージがイメージ中に引起こした変化」であって、ボールディングによれば、これには、変化型1(無影響: イメージは変化せずメッセージは無視される)、変化型2(マイナーチェンジ: イメージが一定の仕方で変化する)、変化型3(再体制化: イメージの核または支持構造に影響を及ぼす)、変化型4(確実化: 以前、確かでなかった思考、漠然たるイメージをはっきりさせる)といった4タイプに分けられる。そして、その「変化の要因」には、価値尺度や安定性または抵抗、内部整合性や論理性、価値体系によって濾過された世界などがあるからであり、知識に「公共性」いわば「談話の世界」が存在するのは、イメージとそれを作り出すための一連のメッセージが共有され、価値体系がグループ内でほぼ似通っているためであり、それは蓄積されるのであるが、貯蔵庫のように入出力メッセージの収支勘定にはしたがっておらず、エネルギーのような保存則は成立たないのだという。

また、ジョン・バージャー『イメージ―視覚とメディア―』(バージャー1986)も、本書が方法論的に依拠しているイメージ論として重要である。

バージャーは、まず「見ること」の位相をめぐって、「見ることは言葉よりも先にくる。子供はしゃべれるようになる前に見、そして認識する。しかし、見ることが言葉よりも先にくるということには別の意味も含まれている。世界における我々の位置を決めるのは、見ることなのである」として、次ぎのように述べている。「つまり我々はこの世界を言葉で説明しているけれど、言葉は我々がその世界を見ていて、その世界によって取り囲まれているという事実をどうすることもできない。我々の見ているものと知っているものとの間の関係はいつも不安定である。…我々のものの見方は、我々が何を知っていて、何を信じているかに深く影響される。…我々は視線を向けるものしか見てはいない。見ることは選択である。この選択行為によって、我々の見るものは我々の理解の範囲内に置かれる(ただ必ずしもそれが手に触れうる範囲とは限らない)。…視覚における相互性は、対話における相互性よりもっと根本的なことである。対話とは多くの場合、「自分がどのようにして見ているか」を比喩的、言語的に表現した試みであり、また「彼がどのようにして見ているか」を発見する試みなのである。…イメージとはつくり直された、あるいは再生産された視覚だ。それは、最初にあらわれ、受け止められた場所と時間から、数瞬または数世紀も引き離された外観である。すべてのイメージはものの見方を具体化する。…イメージは最初、何か不在のものを呼びだそうとする目的からつくられた。そしてしだいにイメージが、それがあらわすものを永続させうることが明らかになり、いつのまにかある物や人がどのように見えたかを、またその対象が他の人の眼にどのように映っていたのかを、示すようになった。その後においても、イメージ製作者の特定の光景は記録の一部として認識され、イメージはXがどのようにYを見たかの代用となった。これは歴史に対する意識の増大をともなった、個人性のめざめの結果でもある。…イメージは過去のどのような遺跡や文献よりも、当時の人々を取り巻いていた世界についての直接的な証言を提供してくれる。この点においてイメージは言語よりも正確で豊かである。…」(バージャー1986: 8-15)。

言語よりも正確で豊かなイメージを言語で語ることは予め困難をともなうが、本書における「イメージ」の用語法は、バージャーが議論するような具体的な芸術作品ばかりなどではなく、ボールディングのいう「イメージ」のもつ「メッセージの意味」を含むプロセスにおいて使用している。もっとも、イメージの政治社会的機能についてむしろコミュニケーション論や一般システム論との連繋から出てくるボールディングの議論が、バージャーのような議論とどのように交錯するのかが肝心であり、本書においてはそうした分析を試みようとしている。

その場合、「モダン」の「複製技術」をめぐる特性がより注意深く考慮されなければならないだろう。バージャーによれば、「カメラはものの外観の一瞬を写しとめ、イメージの無時間性という考えを打ち砕いた。言葉を変えていえば、カメラは、過ぎ去る時間の概念が視覚的経験(絵画以外の)と不可分であることを示したのである。あなたが見たものは、あなたがいつ、どこにいたかによる。あなたが見たものは、あなたの時間や空間上の位置に関係する。すべてのものが人間の一点に集中していると想像するのはもう不可能なのである。…カメラ、特に映画のカメラは(世界を見ている人間という)中心など存在しないことを宣言したのである」(バージャー1986: 22-23)。

モダン以降の「大衆」は「すべてのものが人間の一点に集中していると想像する」ことが不可能な視線を、写真や映画などのメディアを通じて形成していく。シャンハイ・イメージが特異に時間とともに消費されていくのは、まさしくこの新たなメディアたちの登場に拠ってなのである。

*1: 本書では「上海」「シャンハイ」「Shanghai」など、いろいろな表記方法を用いるが、それはこの都市のイメージが放つ多様多義的性格を表現するためである。

*2: 李2001(Li1999)、和田他((1999))、劉建輝((2000))、趙2000参照。

*3: 日本における「知識人」の定義をめぐる議論は、私にはきわめて複雑であるので、より緩やかで実態的な表現機能をもっていると思える現代中国語のこれを当面用いておくことにする。

*4: また、「中国認識」、「中国観」、「中国イメージ」、「シャンハイ・イメージ」など、表現方法として、「認識」、「観」や「イメージ」が一見すると混在してしまっているように見えるが、本書では、「中国人」、「日本人」、「軍人A」、「学生B」等などといったように、個々の認識主体の主観の問題を内包している場合には、「認識」、「観」を使用し、そうではなく、むしろ個々の主体間に存在する、あるいは個々の主体の主体性そのものは脆弱であるけれども何か対象との相互性によって「われわれ」的ないし「間主観」的状況が伴う場合には、「イメージ」を用いるようにしている。

*5: これははたして「中国研究」の一環として考えるべきであるのか、「日本研究」の一環として考えるべきであるのか、実に微妙な問題がある。だが、少なくとも「中国に留学した日本人学生研究者」による同様の研究諸成果との関係から考えてみると、現代中国では、この領域を「中国研究」の一環として研究するのはなかなか難しいようである。先の国際シンポジウムや国際共同研究において、中国側研究者の多くは中国国内の「日本研究」担当者によって担われていることにも、それは垣間見られる。劉建輝2000のように、日本語でまず出版され、それが中国語に翻訳されるという例も多いが、その逆はどうであろうか。

*6: 注2を参照。

*7: もっとも、李2001(Li1999)は、都市としてのシャンハイにのみ関心が集中しており、日本への関心は相対的に乏しい。

*8: むろん、私は中国語版を主として検討している。当然のことながら、その方が当時の固有名など確認し易いからである。だが、問題は、文化研究に関する理論的記述にあり、これらは中国語訳されていても理解しにくい恨みがある。

*9: 【大阪市立大学研究院文学研究科21世紀COEプログラム―都市文化創造のための人文科学的研究―】